阿部謹也 通常子供は両親の間に

通常子供は両親の間に「川の字になって寝る」といわれている。最近ではそのような形は少なくなってきているかもしれないが、基本的には今でもそのような気持ちは残っているだろう。つまり添い寝の習慣があるということであり、いつ頃までその形が続くのかは家によってさまざまであろう。これは両親にとっておおいに関係がある。家によっては結婚し、子供ができると夫婦が互いにお父さんと呼び合う家も多い。欧米のように両親が子供の前でキッスするような習慣は日本になかった。夫婦の愛情表現は子供ができると自然に抑制されるのである。子供はそのような中で育ってゆく。

子供が同性の父親や母親と一緒に風呂に入るのも普通であり、時に異性の母親と一緒に入ることもある。しかしその場合は子供の年齢が問題であり、小学校低学年までが通常であろう。娘が生理を迎えると、最近では少なくなっているかもしれないが、お赤飯を炊いて祝う家もあった。そのような時、男の兄弟は知らないふりをして祝いの席に着くのである。

重要なのは複数の子供がいる場合である。何よりも先ず長男が全てにおいて優先される。長女の場合は優先されるというよりは「お姉さんなのだから」といってまず我慢させられることの方が多い。戦前の農家などでは長男は家に残る者として重んじられていたが、次男以下はいずれ出てゆく存在として軽く見られていた。そのような位置づけの差は幼い子供にも何がしかの傷を残すことになる。

それだけではなく、かつては家では父親が絶対的な位置を持っていた、たとえば寺山修司氏は中学生になったとき、時計が欲しいと父親にいったところ、叱られたという。家の時間は父親だけが管理するものだと寺山氏はかつて語っていた。しかしそのような状態は戦後は変わり、父親よりも母親の方が子供にとっては大きな意味を持つ存在となっていた。そこにも現在の子供が抱えている大きな問題がある。日本の子供にとってはかつて母親は愛の権化としてシンボリックな存在であった。母親は無条件で子供を愛しているはずだという考え方が支配的だったからである。そのような母親もいるかもしれないが、実際には母親が子供の全てを見るようになってから、問題が生じているのである。父親が仕事で忙しく、ほとんど家にいないようになってから、子供の学校での問題の全てに母親が関わることになり、子供と母親の関係が緊張を帯びてきた。

私が調べた限りでは高等学校の生徒は部活や進学の問題、アルバイトやボーイフレンド、ガールフレンドの問題について母親と緊張関係があったという。しかし母親とその問題について争ったことがある学生は少なかった。

何かの問題が起こったとき、両親と話し合う子供はきわめて少なく、大学生になってもその数はきわめて少ない。話し合う前に両親の答えを予測して子供はうそをついて争いを回避しているのである。なぜこのような状況になるのかを考えてみると、家庭の中での親と子供の関係には問題があることがわかる。父親も母親も子供を対等な人格と見ていないのである。子供は幼いものであり、未熟なもので、一人前ではないというのが日本の親達の一般的な考え方なのである。ではいつ子供は一人前になるのか。一般的には二十歳になり、成人すると一人前ということになっているが、それは社会の側の評価づけなのであり、「世間」の側のあるいはそれぞれの家の評価ではないのである。

政府が一人一人の成熟度と関係なく、二十歳になれば成人と決めていても、一人一人は家庭の中で必ずしも成人と認められていない状態なのである。最近成人式で騒ぐ新成人が増えていることが問題になっているが、その根はこのようなところにもある。政府とは別に「世間」はいつ子供を大人になったとみなすのだろうか。それには確とした基準はない。それぞれの家庭ではたとえば子供が先生や大人の知人を訪ねるときにて土産を持ってゆこうとするようになれば、わが子も「大人になった」と思うだろう。しかし親にはいつになっても自分の子を子供と思いたい気分があり、子供もいつまでも親に甘えたいところがあるから、明確に大人になったといえる時期は確定できないのである。

この甘えるという気分については土居健郎氏の著書(『甘えの構造』)もあるので、ここでは詳しくは論じない。しかしそこには親子関係が個人同士の関係として作られていないという事情があることは明らかである。日本の親はいつになっても子供を一個の人格として見ようとはしていないのである。それを甘えとして位置づけることはできるが、私は甘えという個人相互の関係よりは「世間」の子供に対する位置づけとして理解したい。成人式について再びいえば、日本の社会、というよりは政府や自治体は成人式を定める際に「成人としての基準を定めて、それを達成していれば成人とする」ということを定めずに、年齢だけで成人になったとしている。そこに無理がある。すでに述べたように、「日本の世間」は年齢という基準があるから、それに従ったにすぎない。

阿部謹也「日本人の歴史意識」(岩波新書)

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