西鋭夫先生の文章

凶暴かつ激動の二十世紀を疾風のごとく駆け抜けた日本帝国は、魂の情念が燃え上がったかのように、息が止まるほど美しく悲劇的であった。
その日本帝国の盛衰を「諸行無常の響きあり」と受け止めるだけの悟りも、精神的な鷹揚さも、成熟さも、私は持っていない。
戦後日本を作った「アメリカ日本占領」の枷(かせ)から自由になれない日本で生活している私の心は、「無」になれない。
一九四五年の真夏、五十万人の敵軍が焦土日本に上陸した。力尽きた日本人は、雄々しい敵兵を見て、痛烈な自信喪失に陥った。日本帝国の聖地が、夢の跡が、次々と敵兵の軍靴に踏み荒らされたが、我々日本人は抵抗する力も意志も残っていなかった
夢を追い、ロマンの炎に身を焦がし、追えば追うほど遠くへ行ってしまう夢。それでもその夢を見失うことなく追い求めた、貧しかったが勇敢であったあの国民は、もはや死に絶えてしまったのだろうか。戦後の日本国民は、夢を失った民なのだろうか
日本人は勇敢だった。蛮勇かもしれない時もあったが、絶えず信念を持っていた。信じきれるものを持っていた。それが日本国民の、世界的に有名な、強靭な精神力の源となっていた。食糧も弾薬も尽き、手向かえば死ぬと解っていながらも闘った日本兵。降参もせず、次から次へと玉砕する日本人。
「天皇制·軍国主義の犠牲」だけでは、説明のつかない民族の誇りのため、民族の存続のため、父母のため、夫や妻や子供のため、恋人のため、というイデオロギーを越えた一個人の命の生きざま」も、これらの「死」に秘められているのではなかろうか
帝国主義という欧米の組織化された強者生存の、「力は正義なり」という、生死を賭けた戦いに出遅れたアジアの国日本が、「富国強兵」に国運を託し、全アジアを植民地にしていた欧米の暴力に屈せず、「国造り」に励んでいたが、ついに一九四一(昭和十六)年、国家安全のためにと信じ、大戦争に突入した。
その壮絶な戦いで、国のために死んでいった日本人を単なる「犠牲者」として片付けるのは無礼である。非礼である。
戦残者たちを「犠牲者」として憐れむのは、戦後日本でアメリカの「平和洗脳教育」を受けた者たち、またアメリカの片棒を担いで「日本の平和のために」と言っている偽善者たちが持っている優越感以外のなにものでもない。
憐れむ前に、戦死していった人たちに、鎮魂の念と感謝の思いを持て。
日本という「国」が悪で、日本国民は「無実の、いや無知な犠牲者」だという発想は、マッカーサーが仕組んだものだ。東京裁判も、この発想で進行した。
この発想は、「国民が国」という民主主義の土台を引っ繰り返したものであり、マッカーサーが日本の国民に特訓した民主主義に反するものであった。
しかし、「国」が悪いとする考えは、日本国民が「国」を愛さないようにするためには、実に巧妙で、効果的な策略であった。これが、マッカーサーの「日本洗脳」だ。
この絡繰(からくり)にハメられ、ハメられた状態を戦後民主主義と崇め、国歌、国旗を「国の悪の象徴」として否定し、憲法第九条を「平和の証」と奉っている多数の有識者といわれている人」たちは、「日本潰し」を企て、実行したアメリカの手先か。
悪いことは重なるもので、戦後日本でマルクス ·共産主義という「神」を崇めている教師たちは、ソ連と中国の工作員であるかのように振る舞い、「日本という国が悪い」と若い世」代に教え込み、戦者を「犠牲者」と呼ぶ。
アジア·太平洋の征服を目論み、進出してきたアメリカと日本帝国が戦争した四年間を、日本の歴史の全貌と取り違え、日本の永い歴史と文化さえも全部否定するという馬鹿げたアメリカのプロパガンダを鵜呑みにした日本の有識者たちや学校教師たちは、無知なのかそれとも、日本を裏切り、潰そうと企んでいる悪い奴の集団なのか。
征服者マッカーサーは、勇猛な日本国民を弱くしなければ、アメリカの国家安全を脅かされる、と恐怖の念に駆られていた。弱民化する最良の武器は「教育」である。
「国家百年の大計」といわれる教育を武器に使った。
アメリカが大嫌いな日教組は、アメリカの日本弱民化作戦の片棒を担がされていることに気づいていないのか。マッカーサーの日本統治能力を明白に証明したのは、彼がこの教育を重視し、徹底的に利用したことだ。
「夢を持つな」「ロマンを追うな」とマッカーサーに命令された日本は、夢を捨てた。誇りも捨てた。信念も捨てた。捨てさせられた。
マッカーサーは攻撃を続け、日本の文化や伝統の本質は劣悪で、邪悪である故、日本国民が欧米化(キリスト教へ改宗)することに救いがあると断言した。
日本人であることは「恥」であり、それが「一億総慨悔」となる。
近年、日本中で流行している「日本社会の国際化」とか「グローバル·スタンダード化」
も、占領時代に始まった「欧米化」の流れが、今や荒れ狂う洪水となって、我々に襲いかかってきているのだろう。
我々の思考を欧米化し、国語も英語化し、我々は国を挙げて、欧米の真似をすることに懸命に努力する。誇りを持てる美しい姿ではない。
明治維新以来、我々日本人は、攻撃的な欧米につき、結局何も学ばなかったのか。
歴史を無視すると、歴史の仕返しを受ける。「歴史は繰り返す」というが、それは「歴史から学ぼうとしなかった」者たちが繰り返す同じ過ちのことをいう。
「忠誠」「愛国」「恩」「義務」「責任」「道徳」「躾」という日本国民の「絆」となるべきものさえも、それらは凶暴な「軍国国家主義」を美化するものと疑われ、ズタズタにされ、日本国は内側から破壊されていった。
日本人は、「国」という考えを持ってはならない、日本人は誇れるモノを持っていないので、誇りも持ってはならない、「国」とか「誇り」という考えそのものが、戦争を始める悪性のウィルス菌であると教育された。
この恐るべき、かつ巧妙な洗脳には「平和教育」という、誰も反対できないような美しい名札が付けられていた。
現在でも、「平和教育」という漢字が独善面をして日本中の学校で横行している。
この独善が、憲法第九条となり、日本のアメリカ依存を永久化しつつある。
第九条は、日本国民の「愛国心」「国を護る義務·責任」を殺すために作られた罠だ。
第九条は、生き埋めにされた「愛国心」の墓。日本の男たちが、自分たちの妻、子供、父母、兄弟、姉妹、恋人を護らなくてもよい、いや護ることが戦争であると定めたのが、第九条。
あえて卑近な言い方をする。雄が雌を護らなくなった種族は死に絶える。他の種族のオスに守ってもらっていると、その種族に乗っ取られる。
日本の存続にとって危険極まりない第九条の枷は、アメリカにとって、「太平洋はアメリカの池」「日本はアメリカのモノ」という事実を確立した偉大な業績の証である。
「自衛」を放棄する国が、この世の中に存在するとは……。
占領後、日本の最高裁判所が「自衛隊は違憲でない」と灰めかしているが、そのような軽薄なこじつけ論理で日本国を司ろうとしている日本政府と司法界が、日本をいじけた弱者にしている。
第九条を生んだ「精神」は、自己防衛のための武力も禁止したのだ。
無抵抗(第九条)が最も有効な防衛手段であると唱えた勝者マッカーサーの戯言を盲目的に信じ込んだ吉田首相と日本国民は、平和を心より望んでいたのだろうが、あまりにも無邪気であった。その場凌ぎの目先勘定だけで逃げ切ろうとしたのだろう。その「逃げ」のツケを、既に半世紀以上も日本国民は支払わされている。
第九条の下、平和教育を受けた日本の政治家たちの指導者としての評価は、彼等がいかにアメリカの国益に日本の政治·経済を擦り合わせることができるかで決められている。アメリカを怒らせず、日本国民にはアメリカの国益どおりに動いていないと見せかけながら、アメリカに隷属を続ける才能が、戦後日本でリーダーシップとして高く評価されている。
近年、「アメリカは日本の内政に干渉している」と強気の発言が、マスコミにチラホラと登場してきているが、アメリカの「日本統治」は、そのような生易しい「内政干渉」どころ
ではない。
「内政千渉」などしなくても、日本の首相は世界の征夷大将軍·アメリカ大統領がお住まいのワシントンへ参勤交代をする。
日本がアメリカにいかに忠誠を尽くしても、アメリカ経済の体調がおかしくなると、アメリカの機嫌が悪くなり、日本が殴られ、日本の経済はアメリカの食い物にされる。アメリカの経済を支えるため、アメリカ国民に良い生活をしていただくために、日本国民は彪大な貯金をし、その金でアメリカの、これまた形大な国債を買う。買わされる。それでも、まだ殴られる。
日本が怒り狂い、ついに伝家の宝刀を抜いて、アメリカに威しをかけるかと期待しても悲しいかな、日本の「伝家の宝刀」とは何だろうと見当もつかない現状が、日本の姿である。
このような日本を見て、アメリカは「日本には強いリーダーがいない」と宣う。
私は、悪い夢を見ているのか。
日本の「伝家の宝刀」とは、日本人の「誇り」と「勇気」だ。今、憲法第九条の下に埋葬されているあの誇りだ。一個人にとっても、国家にとっても、誇りほど強力な武器はない。
敗戦後、日本人は、必死に「富」を追及し、巨万の富を築き上げることに成功し、世界一、二位の金持ちになり、世界中からチヤホヤされて、有頂天になった。その直後、「金」の脆さを思い知らされた。
日本の輝かしい「富国」に対して、嫉みの熱病に魘(うな)されていたアジアの隣国、いや世界中の国々は、この時とばかりと追い打ちをかけ、経済超大国を土下座させ、大昔の「罪状」を取り出し謝罪させ、金を巻き上げ、捨て台詞に、「日本は正しい歴史観を持っていない」と言う。
日本人の弱い精神状態の根源は、心の中に、強い信念、信じきれるモノ、を持たないからだ。いかに精神的な虐待を受けても、怒り狂うような、はしたないことはせず、ただ右往左往して、誰かに好かれようとする日本。
その日本が「金」を祀った宗教に、心身ともに捧げた。揚げ句の果てが、この虚しさ、この虚脱感。日本人の心の中に、今、何があるのだろうか。
誇りを捨てた民族は、必ず滅びる。
誇りを取り戻した民族は、偉大な民となり、その文化も栄える。
一九四五年の夏以後、日本人は自国の永い歴史を忘れ去りさえすれば、「世界中お友達」の理想郷が出現するとでも思っていたのだろう。
どの国の歴史も、戦争と平和の歴史だ。善し悪しを越えた、生きるための死闘の歴史だ。
イギリスの歴史も、アメリカの歴史も、中国の歴史も、生きてゆくための戦争と平和の歴史だ。この事実を知らない日本ではない。
戦後の日本国民は、第九条に甘えた。この甘えを助長したのは、アメリカ。
日本がアメリカに甘えれば甘えるほど、アメリカに都合よく操られた。この単純な上下関係が、今も続いている。日米安全保障条約である。
マッカーサーは、「民主主義」「平和」という言葉を頻繁に使ったが、「平和」の裏に、マッカーサーの恐怖心、日本民族に対する戦燥感があることを見逃してはならない。彼は、日本人に平和を望んでいたのではなく、日本人の弱民化を実行していたのだ。アメリカの国家安全のために、日本人の誇りを潰した。
アメリカに飼い馴らされた日本人は、「誇りの骸」を「平和」と呼ぶ。アメリカの対日「国家百年の大計」は、既に完成しているのではないか。
闘う意志がないのは、平和主義ではない。敗北主義という。
平和は闘い取るものだ。闘い取るから、平和の大切さが解る。平和のため血を流し、命を落とすから、平和の尊さが解る。
戦後日本の「平和」は、強いアメリカ軍が勝ち取った平和のお零(こぼ)れを投げ与えてもらっているものだ。用心棒アメリカを、多額の金を出して雇って得た「平和」。
アメリカが「神仏」で、その力に依存する、真の他力本願の平和だ。だが、これは「平和」ではない。単なる「隷属」である。アメリカへの服従なのだ。
戦いに一度敗けたから、国を護ることを放棄する、しなければならない、という十二歳の少年のような発想はどこから浮上してきたのか。マッカーサーの白昼夢からだ。それを、英知として「平和憲法」の中へ書き込んだ。
無防備が最強の武器と夢見たマッカーサーは、やがてそのお伽話のような夢から目を醒ましたが、未だに醒めていないのは日本国民。
浦島太郎でもあるまいに、目が醒めた時、日本国民が直面する現実は、強者生存だけの自然海汰の世界である。
日本国民は己の歩む道も見出せないまま、己の夢もロマンもなく、世界を牛耳るアメリカの国益の餌食となり、利用され、感謝も尊敬もされず、アメリカの極東の砦として、終焉を迎えるのだろうか。
我々の魂と誇りの情炎が、二度とえ上がることもなく、国の宝であるべき若者たちは、国の歩みも知らず、激情の喜びや有終の美も知らず、感動する夢やロマンを見出せず、我々富国日本の住民は、二千年の国史をむざむざと犠牲にして、打ち拉がれた精神状態のまま、寂しく亡国の憂き目を見なければならないのか。
「固破れて、山河在り」は、誇り高き敗者が、戦乱で壊された夢の跡に立ち、歌った希望の詩だ。歴史に夢を活かすため、夢に歴史を持たせるため、我々が自分の手で、「占領の呪縛」の鎖を断ち切らねば、脈々と絶えることなき文化、世界に輝く文化を育んできた美しい日本の山河が泣く。

昭和十六(一九四一)年十二月十三日生
西 鋭夫(にし としお)

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