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【『THE FIRST SLAM DUNK』(2022)評論】ノスタルジーを否定するための映画化


【はじめに】

かなり今更な感もあるが、THE FIRST SLAM DUNKについて論じたい。
強調したいのはここで語るのは、「なるべくドライな視点」から見た仮説だということ。もちろん公開時に大変に感動し、スラムダンクひいてはバスケットボールを好きで良かったと心から思った。だが、この映画を評価する上で、そういったウェットな感情はなるべく排したいし、だからこそ熱が収まったいまあえて取り上げてみたい。

なぜこんな前置きをするかというと、『THE FIRST SLAM DUNK』は非常にメタ的な映画だからだ。30年以上前の原作の設定はそのままだが、後述する様々な点でいまの日本と地続きの物語になっている。だから「原作の絶大的な人気」という現象すら相対化して映画の中に組み込んでいる。というのが私の見立てだ。

【兄ソータは原作漫画そのものの象徴】

結論から先に言おう。映画に登場する兄のソータは原作(漫画版スラムダンク)の象徴であり、弟のリョータは『THE FIRST SLAM DUNK』、またはそれを制作する井上雄彦自身を象徴するキャラクターだと考えられる。
言い換えれば、物語内のストーリーと「スラムダンクを映画化する」という井上の現実のストーリーが重ねられているのだ。

ソータは誰もが認める沖縄を代表する名ポイントガード。しかし、不慮の事故で帰らぬ人となってしまう。
これは原作漫画が完結し、漫画史に永遠にその名を刻む大傑作として評価が決定づけられた過去の象徴でもある。。

【原作の絶対的名声という呪い】

兄を失ったリョータはもがき苦しむ。母や周囲の反応から、どうしてもソータと自分が比較されていることを読み取り、傷ついてしまうのだ。
ここは、もう終わったはずなのに世間的ではいつまでも終わらないスラムダンクが井上を苦しめたことを象徴していると考える。「国民的漫画」の域まで名声が達してしまうのは、むしろ呪いでもあったのだと察する。

そして不良となって一時期バスケから遠ざかったリョータのように、井上も『リアル』と『バガボンド』の連載に力を入れる。

【リアルとバガボンドでの挫折】

『リアル』からは少しでも車いすバスケットの普及に寄与したいという、井上の深いバスケットボール愛を感じるし、『バガボンド』はマンガ表現の可能性を押し広げたスラムダンク以上の傑作だと本気で思う。
だが、ご存知のように『リアル』、『バガボンド』ともに筆は止まっている。これは劇中でリョータがバイク事故を起こし、入院する場面に相当するだろう。なぜ描けなくなったか決して語らないが(聞くべきでもないし)、井上にとって相当に心身に堪えたに違いない。

【バスケットボールへの愛と再生】

では、この挫折をどう乗り越えたのか。映画のリョータは母に「兄が死んでから、バスケだけが自分を生かしてくれた」という手紙を出している。これもやはり、井上自身の本心ではないだろうか。漫画版スラムダンクを描いたことが、宿命のように自分のキャリアについて回った。それでも井上は心から湧き上がるバスケットボール愛に勝てなかったのではないだろうか。

【全てはこのシーンを描くためだった】

また湘北が山王のゾーンプレスにつかまった絶体絶命の場面。リョータはソータの「きつくても心臓バクバクでも、めいっぱい平気なふりをする」という言葉で自らを鼓舞しプレスを突破する。起承転結で言えば映画の「転」に当たる場面だ。「なぜ桜木ではなく宮城が主人公なのか」、「なぜ回想シーンが多いのか」、「なぜ今になって映画化したのか」…こうした疑問に対する回答はすべてここにある。これがやりたかったからである。

ソータの台詞はポイントガードとしての矜持である。ポイントガードは司令塔となるポジションでコート上の監督とも呼ばれる。自らが監督となって現場を仕切り、スタッフに指示を出し、1つの映画を作るーーそんな井上自身の立場と最も重なるのがポイントガードのリョータだった。

【ノスタルジーを否定するための映画化】

また回想シーンは、現実世界と地続きの物語にするために必須だった。
漫画連載時、日本にはまだ「一億総中流」的な夢があったと思うし、原作の漫画版はその時代の空気を真空パックしている。しかも物語は春に始まり夏で終わるため、永遠にあの夏休みに閉じ込められた読後感が残る。

連載終了後の約30年、日本は一貫して「冬」の時代が続いている。しかしSNSの発達やライフスタイルの変化で、私たちは「自分が見たくないもの」から目を逸らし、モラトリアムを延長し続けることで、これを凌いでいる。だから言い換えるなら、日本が落ち込めば落ち込むほど、ノスタルジア増幅装置としてのスラムダンク、抽象概念としてのスラムダンクは肥大化してきたのだ。そしてそれが井上自身を長らく苦しめてきたのだった。

だから井上は、感傷に浸るだけの映画化には絶対にしたくなかったはずだ。この30年で自身が実際に苦しんできた過程も、いまのバスケや日本社会そのものも全て描きたかったに違いない。

【敬意に満ちた沖縄の描き方】

例えば、リョータの家庭はソータだけでなく父も亡くしており、シングルマザーである。死別ということにはなっているが、沖縄の母子家庭率の高さを否が応でも想起させる。
私自身の反省も込めて、内地の人間は無自覚にリゾートとして沖縄を消費してきたし、今もそれは続いていると感じる。現実の基地問題や貧困の問題に目をつぶってだ。
『THE FIRST SLAM DUNK』でも、閉塞感を感じるシーンがあったり、生計を立てられないからと一家が神奈川に移住する。街にゴールがたくさんあるのは、米国占領の「遺産」に他ならず、もちろんそこまで踏み込んだ話はしないが、沖縄を決して呑気な南国に描いていないことは注目したい。
リョータが里帰りをした際に、沖縄の美しい海と空、あの洞窟やバスケットコートが彼の心を再生するシーンがあそこまで感動的になったのは、井上の沖縄に対する敬意が真摯なものだからに他ならない。

またリョータが団地でドリブルの練習をしていると、近所から「うるさい」と怒鳴られる。これも、30年前と考えると少し不自然な描写だ。少子高齢化が本格化する前で、まだ子どもたちの賑やかな声が響いていた時代の団地で、ドリブルの音くらいで怒鳴られるだろうか。また怒るにしても、面と向かって説教するくらいの距離感はあったと思う。
つまり互いの顔が見えず、コミュニケーションが取れないこの場面は明らかに現代の「不寛容」そのものなのだ。こうした「現実世界との接着」と「ノスタルジーの否定」のために、回想シーンは付け加えられたはずだ。

【"THE FIRST"なのは(井上雄彦的に)最初の映像化だから】

「ノスタルジーの否定」という点では、井上は「テレビアニメ版スラムダンク」も絶対に認めていないと思う。そもそもなぜ「THE FIRST」なのかは、井上にとっては本作が”初めての”映像化だからというのが私見だ。「テレビアニメ版はなかったことにします」という宣言である。
「名作」ということにされているテレビアニメ版スラムダンクだが、絵の動きは正直結構キツい。骨格に沿って手や脚が伸び縮みしていないし、フラワーロックみたいにただ揺れているだけ。とっくにコート突き抜けてるだろってくらいドリブルを続ける選手たち…などなど、挙げればキリがない。

このクオリティに最も傷つけられた人が、他でもない原作者・井上雄彦だったというのは想像に難くない。彼の普段の「画に対するこだわり」を考えれば、ファンにとっては気にならなくても作者として到底納得のいく仕上がりではなかったはずだ。もちろん、アニメスタッフが悪いわけではなく、当時の技術の限界だったと思うが。

だから「なぜ今映画化?」は、アニメの技術革新が進んだことで井上の中で勝算が立ち、集英社側に要求できる絶対的立場も確立したタイミングだったからということも大きいだろう。

公開前、声優陣をテレビアニメ版から刷新することが発表されると、「ノスタルジアの消費」を期待していた「ファン」からは怒りの声が上がった。だが、いざ公開されるやスラムダンクは、日本中、ひいては世界中の若年層を新たに取り込むことに成功。井上はスラムダンクの呪縛を完全に断ち切った。

【映画全体がこの映画が出来るまでの話】

まとめるなら、兄を喪失し、もがき苦しみながらも家族やチームメイトとの交流を通じて、兄の立場(チームの司令塔と一家の大黒柱)を継承するというリョータのストーリー自体が、スラムダンクという自らの手を離れた作品の呪縛に苦しみながらも、バスケ関係者や映画版スタッフのサポートを経て、映画監督としてもう一度スラムダンクをやり直した井上自身のストーリーと重なる。映画全体が「映画THE FIRST SLAM DUNKができるまで」という物語にもなっているのである。

さらに言うならば、この映画を作ること自体が井上にとってのセラピーだったのではないだろうか。庵野秀明が『シン・ゴジラ』を撮ることによって、エヴァともう一度向き合えたように。実際、『シン・ゴジラ』のプレヴィズによる制作スタイルは本作にも大きな影響を与えている。

その証拠にというか、去年8月に『リアル』は久しぶりに連載が再開された。『バガボンド』の方がいつになるかは分からないが、井上先生が再び向き合う日を気長に待ちたいと思う。


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