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【青春病 / 藤井風】MV&歌詞考察:「青春の否定」の先で描きたかったもの

青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
青春はどどめ色
青春にサヨナラを

【はじめに くすんだ色の青春】


青春病は僕にとって衝撃的だった。

風くん、あっち側の人間なのに、どうしてこっち側の気持ちが分かるの!?

そんな気分だった。青春を「呪い」として描いた本作の歌詞は、パンチラインの連続だ。

青春はどどめ色

どどめ色って?と、Googleで画像検索するとこんな感じ↓
要するにくすんだ色である。過去の輝きはもう色褪せていて、だからこそサヨナラしなければならない。

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この問題意識を「青春病」という明快な造語で提示するセンスには脱帽するしかない。そして一方で、これは青春そのものを否定する歌というわけでもない。それは山田智和監督が手がけたMVを観てもわかるし、この後に発表した『旅路』が、青春を肯定的に受け取った歌であることからも分かる。『青春病』と『旅路』はコインの表裏のように対になっていて、この点については後述する。

【青春への「愛憎」と2本の映画】


少し個人的な体験を話させて欲しい。大学生の時、高田馬場の名画座「早稲田松竹」で、『桐島、部活辞めるってよ』と『サニー 永遠の仲間たち』を2本立てで観たのだが、それがとても貴重な体験として心に刻まれている。

『桐島』は高校のスクールカーストを容赦なく描く。

1軍=勝者、それ以外=敗者

そのシンプルな法則が学校の秩序を保っていたのに、「桐島の不在」がバタフライエフェクトのように、登場人物たちのアイデンティティを揺るがせる。特にカーストの頂点にいる東出くんこそが、実は空っぽだと突き付けるラストは印象的だった。「イケてる/イケてない」という物差しや、学校内の価値観がいかにちっぽけで、広い世界において意味を持たないか突き付けられる。

桐島12


そして『サニー』は、そんな1軍たちの後日譚。映画は、高校時代の1軍メンバー達が中年になり、大きな挫折感を味わっているところから始まる。まさに「青春病」をこじらせまくった大人たちの再生の物語である。

これを2本立てにしたことで、「1軍だった人」も、「それ以外だった人」も、両方救われていると感じた。もしかすると役割が違うだけで、誰もが同調圧力の犠牲者なのかもしれない。この映画体験がなければ、そう考えることは無かっただろう。

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『青春病』も、何回か聴くうちにそういう話だと思うようになった。「こっち側」とか「あっち側」の境界線なんて本当はないし、誰もが必ずこじらせてしまう風邪のようなもの。その通過儀礼が、僕たちを大人にするのかもしれないと。

【一見難解なMV】

(※以下は、あくまで個人的な「深読み」です笑)
曲と同じくらい大好きなMVだが、1回観ただけではよく分からない仕掛けが施されている。結論から先に言うと、これは風くんが過去を回想する形式を取っているため、

①風くん以外の登場人物は基本的に「過去の記憶」で実在しない
②過去と現在の時系列を行ったり来たりしている

という構成になっている。そのヒントは、風くんがビデオカメラを覗き、ホームビデオのザラついた映像が始まる場面だ。

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他にもドーム型の屋内施設で雑談していた友達がいなくなり、独りそこに佇むところも手がかり。

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どうやら、風くんはかつて友人たちと遊んだ思い出の場所を独りさまよいながら、過去に浸っているようだ。(これこそが、「青春病」の症状だろう)

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ただし記憶ではなく、いま現在の友人が登場するシーンが1箇所ある。
A&Wの店員をしている友人と、ショートカットの女の子(元カノ?)だ。

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しかし、この2人のことを風くんは遠くから眺めることしか出来ず、距離があることが示される。

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【時系列シャッフルと円環構造】

その原因として考えられるのが、あの火事だ。動画序盤から、風くんたちは車に乗って山道を進んでいく。その目的地は、ラクロスをしていた海辺なのだが、クライマックスでそこは炎上。全員が呆然と立ち尽くしてしまう。

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火事は、子ども時代の終わりを象徴している。卒業や就職など、「もういい加減大人になりなさい」という世界側からのメッセージだ。
もっといえば、2020年の楽曲ということで「休校措置」だったり「部活動の自粛」、「修学旅行の中止」といった、理不尽さも含まれているはずだ。
だから風くん達からすれば、これは一方的な「強制終了」でしかない。

もっと青春したかったのに…

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その消化不良、不完全燃焼が彼らの瞳に強く刻み込まれる。青春病を発症した瞬間である。そして仲間達と袂を分かった現在でも、あの海に独りやってきて海岸を疾走する。

だから時系列で並べると


①.青春を謳歌

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②.突然終わりを告げた青春&「青春病」発症

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③.思い出巡り&海辺疾走

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④.A&Wで再会した旧友が気まずい…

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⑤.突然の雨(青春病からの解放)

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というような流れかと思われる。しかしこの時系列をシャッフルすることで、MVは現在から始まって過去で終わり、最初に戻るといった円環構造に変わる。(デビッド・リンチ監督の『ロスト・ハイウェイ』を彷彿とさせる)

まるで永遠に抜け出せない悪夢のようで、これは青春病が完治しない病気だということを見事に表現していると思う。

【完治しない病 それが青春病】

学生時代の黒歴史やコンプレックスというものは、恐らく私たちを一生支配する。何度克服しても、ある時不意に

「あの時〇〇しておけば、俺/私は今ごろ…」

に襲われるのだ。あるいは逆に、人生の栄光時代やピークが過去にある人は、

「あの頃は良かったなあ…」

がおりに触れてやってくるだろう。
現代人である私たちは、この病気と常に闘い続けなければならない。常に「今の俺/私が一番好き」と想い続けられるように努力することでしか、この病に打ち勝つことは出来ない。

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【名パンチラインの数々】

次に歌詞考察。首がちぎれるくらい頷きたくなること請け合いなしだ。

ヤメた あんなことあの日でもうヤメた
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど強くはなかった
ムリだ 絶ち切ってしまうなんてムリだ
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど弱くはなかった

青春に対する「愛憎」、その両方のニュアンスが完璧に描写される。「学校が100%楽しい」、「一点の不満もない」という人は恐らくいないはずだ。理不尽な校則、時代遅れな部活の縦社会、前述したスクールカーストなど、内心思うことはあるだろう。しかしなんだかんだ居心地よくて、現状維持に甘んじるーそれがマジョリティーのリアルではないだろうか。

僕は中高一貫の学校に通っていたが、ある友人が美大を目指すと言って中退した際、彼を心底羨ましく思った。それなりの進学校で、それぞれに与えられた役割をこなしていれば、それなりの未来は保証されているのに、全てを投げ出して「やりたいこと」に投資する勇気が、眩しくて仕方なかった。

君の声が 君の声が
頭かすめては焦る
こんなままじゃ こんなままじゃ
僕はここで息絶える

さて、ここで恒例の「僕と君」問題。過去に『何なんw』や『帰ろう』の歌詞考察をした際にも書いたが、「僕」も「君」も同一人物(オルターエゴ)だと解釈すると分かりやすい。内なる声が、「お前このままでいいのかよ」と叫んでいるのだ。

止まることなく走り続けてきた
本当はそんな風に思いたいだけだった
ちょっと進んでまたちょっと下がっては
気付けばもう暗い空

10代の頃、30代の人たちなんてオジさんに見えた。いや、もっと言えば大学生すらオッサンだった。高校の文化祭に来て女子高生をナンパする大学生達を心底軽蔑した。いい大人が何やってんだよって。
しかし、もうすぐ30代になろうとする今、自分がまったく成熟していないという事実に愕然とする。なんてこった、僕も青春病の真っ只中にいる。

そうか 結局は皆つながってるから
寂しいよね 苦しいよね
なんて 自分をなだめてるヒマなんて無かった

この部分は、2通りの解釈が出来る。
まず「周りのみんなもそうだし、自分だっていいだろう」という甘え。

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「ゲームがひと段落してから勉強しよう」
「どうせ甲子園なんて行けないし、カラオケ行こう」
「絶対バレないし、酒飲んじゃおう」

これを正当化するために生まれたのが、「自分へのご褒美」である。そうやって言い訳してきたことを悔いているという解釈が1つ。

もう1つは過去、現在、未来の自分は繋がっているから、自分を甘やかすことの代償をいずれ支払わないといけないという考え方。前後のつながり的には、こっちの方が相応しい気がする。

【青春至上主義という病理】

君の声が 君の声が
僕の中で叫び出す
耳すませば 耳すませば
何もかもがよみがえる
止まることなく走り続けてゆけ
何かが僕にいつでも急かすけど
どこへ向かって走り続けんだっけ
気付けばまた明ける空

ここで僕を急かす「何か」は、日本にはびこる「青春至上主義」を想起させる。

「青春すべき」
「青春しなければならない」

という強迫観念である。
例えば甲子園がその典型だ。「汗、涙、感動」を押し売りする。なんで坊主にしなきゃいけないの?なんで炎天下の中やらなきゃいけないの?勉強しないで野球だけしてていいの?もしプロになれなかったら、今後どうやって生きていくの?みたいな疑問は尽きない。


一方で、そんな「残酷さ全部乗せ」だからこそ面白いのかもしれない。
青春はいわば消費コンテンツであり、正論を凌駕する魅力があるから。

それからポカリスエットのCM、あれもすこぶる青春至上主義だと思う。作り手のオッサン達の「供養」として、今をときめく芸能人やティーンエイジャーが歌わされ、踊らされる光景は異様だ。

しかしこういう「青春の押しつけ」が同調圧力の連鎖を生み、青春はコンテンツとして無限に消費されることに成功した。

そして、ここからの歌詞が本作の白眉だ。どうしたらこのように美しい言葉を思いつくのだろう。身悶えるような言葉にならないあの感情を、風くんは芸術の域まで昇華させる。

無常の水面が波立てば
ため息混じりの朝焼けが
いつかは消えゆく身であれば
こだわらせるな罰当たりが
切れど切れど纏わりつく泥の渦に生きてる
この体は先も見えぬ熱を持て余してる
野ざらしにされた場所でただ漂う獣に
心奪われたことなど一度たりと無いのに

当てもなく海を疾走していると、いつの間にか夜明けになっている。視線は足元のさざ波から頭上の太陽へとパンアップする。(このカメラワークが完璧に脳内で再生出来るところも凄い!)

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「どうせ死ぬんだから、高望みするなよ」と自分に言い聞かせる強烈な自意識。この後に及んでも「何者かになる」ことを諦めきれないのだ。
そしてその自己愛と自己嫌悪が交互に打ち寄せるアンビバレントな感情を、「切っても切れない泥の渦」と表現するこのセンス、天才過ぎる笑...
「野ざらしにされた場所でただ漂う獣」というのは、「努力してこなかった結果としての現状」に他ならない。自分がなりたかったのは特別な存在で、「普通の人」になんてなりたくなかったのに…

このままだとバッドエンドだが、最後の4行で少し救われる。

青春のきらめきの中に
永遠の光を見ないで
いつの日か粉になって知るだけ
青春の儚さを…

青春のきらめきは虚像でしかなく、そこに囚われてはいけないー「僕」がそう考えることで、一連の呪いを解くことが示唆される。またMVにも、この呪いから風くんが解放されることを示す箇所がある。雨に打たれるシーンだ。

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【雨が意味するもの】


何度かこのMVを観ていくうちに、火と雨をカットバックさせるクライマックスはタルコフスキーへのオマージュではないかと考えるようになった。

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アンドレイ・タルコフスキーはロシアを代表する映画監督で、その作品はどれも難解で前衛的。だが意味を理解出来なくても、映像に引き込まれる。僕にとってはそんなタイプの作家だった。
その後、映画評論家の町山智浩さんによる有料音声解説を聞き、『惑星ソラリス』や『鏡』、『ストーカー』、『ノスタルジア』といった作品の真意を知ることが出来た。

その特徴として、必ず「水」が画面に登場する。町山さんによれば、タルコフスキーにとって「水」は慈愛や精霊のようなスピリチュアルなものを象徴しているのだという。そしてその背景には老荘思想の影響があるそうだ。
老子の教えには「上善は水のごとし」という言葉があり、形にとらわれない柔軟性を持った水のように生きることが理想だと説いている。

風くんも老荘思想の影響を公言しており、『特にない』は「足るを知る」という考え方を歌ったものだと、ライナーノーツに記している。

またアルバム『HELP EVER HURT NEVER』全体を貫くのが「すべての執着からの解放」という命題だ。楽曲のほとんどが「執着といかに折り合いをつけるか」の歌だというのは、過去の記事ですでに述べた通り。

その上でMVを観れば、大雨に打たれながら風くんが笑う場面に、タルコフスキー的解釈をこじつけることも出来る(気がする)。
これは「青春病」という執着からの解放を意味し、過去の呪いから脱出した彼を祝福する「恵みの雨」ではないだろうか。(だから笑っている)

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【『青春病』と『旅路』は裏表】

しかし、一つ疑問が残る。いったい何がきっかけで、風くんは青春病を克服することが出来たのか。その転機となる出来事が明示されていないのだ。


ここからは(というかずーっと)深読みの域をえないが、その答えこそが次曲の『旅路』だと考える。『青春病』が大人になってから過去を回想する話なら、『旅路』は卒業間際の学生が未来に思いを馳せる歌。しかしどちらも「今を生きよう」というメッセージであることに変わりはない。

ここで旅路の歌詞の一節を引用しよう。

果てしないと思ってた
ものがここには無いけど
目にしてきた
手に触れてきた
全てに意味はあるから

お気づきだろうか?『青春病』の「さらにその先」の話をしていることに。
「過去に縛られていても何もない」ーそれは確かにそうだ。しかし、だからと言って過去が無意味というわけではない。いやむしろ、意味しかないのだ。だが、それが有意義にも無意味にもなるのは、結局のところ「今を生きる」かどうかでしかない。だから旅路は続くのである。

この2曲がセットになることで、そのメッセージはより立体的になった。過去を振り返ることや、青春そのものを否定しているわけではない。
青春の最中にいる人達は全力でそれを謳歌するべきだし、今に繋げるために過去を糧にすることは全然オッケー。だけど、過去に「執着」し、今をないがしろにするのは本末転倒。シンプルに言えばそういうことである。

「愛と執着」は彼の詩世界のキーコンセプトといって間違いないだろう。例えば『特にない』と『死ぬのがいいわ』も2曲で1セットになっていて、執着を捨てる理想の生き方と、執着してしまう現実を描いている。

また、最新曲の『きらり』にも、こんな一節がある。

何のために戦おうとも動機は愛がいい

行動原理としての愛、それは『HELP EVER HURT NEVER』という言葉にも表れている。『何なんw』の記事で、このアルバムの曲に恋愛ソングは実は1曲もないということを書いたが、逆に言えば藤井風の楽曲はすべて「愛」について歌ったラブソングでもあるのだ。

【おわりに 愛って何?】

「じゃあ愛って何?」
そう思った方に、最後にいくつかのコンテンツをお勧めして終わりたい。
まず2017年の映画『レディ・バード』は、『青春病』の歌詞をそのままなぞったようなストーリーで非常に親和性が高い。

自意識をこじらせた主人公の女子高生の成長を描いた作品で、そのキーワードはやはり「愛とは何か」である。以前評論を書いたので、観賞後に是非読んで欲しい。


それからデビッド・ボウイとクイーンの楽曲『Under Pressure』も、世界を救うのは結局愛だよねって歌だった。こちらもPVと歌詞について考察した記事を書いた。

そして何より、やっぱり風くんの『きらり』だろう。軽快でダンサブルなパーティ・チューンだが、実はこれまで彼が作詞面で訴え続けてきたことの総決算のような内容になっている。

気候変動やコロナ禍を間接的に描写しつつ、愛とは何かについて踏み込んだ本作。押韻などのテクニカル面も含めて、現状の日本語詞の最高到達点と言っても決して大袈裟ではない。次回はそんな『きらり』を考察します。



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