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【マリッジ・ストーリー】(2019年)映画評〜夫婦を考えさせられる物語

<あらすじ>(Wikipediaより)
舞台演出家の夫と俳優の妻は、すれ違いから離婚の準備をしていた。2人は円満な協議離婚を望んだが、これまでのお互いに対する不満が噴出しこじれ、離婚弁護士を雇った裁判になってしまう。


【とにかく誰かと語りたくなる】

 ノア・バームバックは大ヒットを飛ばすタイプの監督ではないし、日本では劇場未公開の作品も多い。僕もすべての作品を観ているわけではないが、2016年(※日本公開年)の『ヤング・アダルト・ニューヨーク』が非常に骨身に染みる内容だったので、最新作の『マリッジ・ストーリー』にも期待していた。

 果たして、今作は間違いなく現時点で彼の最高傑作だと断言できる。自分自身、夫婦生活について否が応でも再考せざるを得ない気持ちになった。
 鑑賞後すぐ妻と感想を述べあったし、本作はとにかく語りたくなるタイプの映画だ。きっと観る人の数だけ切り口があり、心に刺さるシーンも違うだろう。


【夫婦の同一化現象】

 僕は、この映画は夫婦の「同一化」の物語だと感じた。元々他人だった男女が共に生活をすることで、次第に口癖、風貌、思想、価値観が接近していく。食べ物の味の好みだったり、ファッションの趣味が似通ってくるとか、マンガしか読まなかったけど、相手と同じように本も読むようになるとか、そうした変化のことだ。
 相手を受け入れる=心の中で相手を共生させるようなものであり、自分の意思だと思っていることも、案外「相手」の影響によるものかもしれない。


【もう一人の自分を断ち切る苦しみ】

 ところが一方で、人間には自我がある。こと現代において、「自分自身の人生」は「パートナーとの共同人生」と切り分けられた形で存在している。だからこそ厄介なのだ。
 ヒロインのニコール(スカーレット・ジョハンソン)は「自分自身の人生」を見つめ直し、夫チャーリー(アダム・ドライバー)と別れるしかないと決意する。

 チャーリーがハッキリしたクソ野郎なら、事は単純だった。暴力を振るうようなDV野郎、モラハラ野郎、ヒモ野郎…そういう外敵なら。

 だが実際のところチャーリーは、今の彼女を形作った余りにも大き過ぎる存在だ。ティーン向けのお色気青春コメディでおっぱいを出していたニコールを、「役者」にしたのは紛れもなくチャーリーである。彼はニコールの芝居の才能を見抜き、舞台の看板女優に抜擢した。

 若さとエロだけではニコールのキャリアは続かなかったかもしれない。もちろんそれはifの話でしかないが、大事なのはニコール自身がチャーリーと出会ったことで人生が劇的に変化したと受け止めていることだ。彼女の心の中には、すでに分かち難くチャーリーが存在する。だからこの離婚は単なる闘いではない。もう一人の自分を断ち切る、苦痛に満ちた闘いだ。


【離婚裁判≒プロレス!?】

 この映画の面白さの1つは、離婚訴訟のエクストリーム描写にある。弁護士たちは勝つために話を盛りまくり、相手の欠陥を容赦なく糾弾する。
 ニコールとリッチーが「おいおい、だってあれはさ…」と裏切られたような表情を浮かべたり、バツの悪さから顔を背けてしまう所は本作の白眉だ。

「弁護士を入れずに話し合いで円満に解決するはずだったじゃないか!」

 とイライラするチャーリーだが、彼には終始覚悟が足りない。先に述べた闘いへの覚悟が。

 アングラな劇団の演出家だったチャーリーを、ブロードウェイまで引っ張りあげたのは他ならぬニコールだ。最初は映画出演をした彼女の知名度で、そして次第にミューズとして彼の作品を高めていったのだろう。チャーリーの中にもニコールがいるのである、分かちがたく同一化して。

 弁護士のローラ・ダーンとレイ・リオッタが夫婦の対立を過剰に煽るような泥仕合を仕掛けていく場面。訴訟大国アメリカを面白おかしく描いている一方で、僕はむしろ親切だと思った。2人は「闘う理由」を作ることで、相手と決別する後押しをしているのである。

 これはプロレスに似ている。プロレスには「闘う理由」が必要だ。だからマイクパフォーマンスで相手を挑発し、試合に乱入し、控室を襲撃する。そして抗争がピークになった時に、お互いの哲学をかけてぶつかり合う。もちろん勝ち負けはあるが、勝ち負けを越えた何かもある。
 同じように、離婚訴訟や親権争いにも勝者と敗者は存在する。だが、その後も人生は続くのだ。争いが凄惨なデスマッチになっても、いやとことん凄惨を極めればこそ、得るものがあるのかもしれない。ローラ・ダーンとレイ・リオッタが、熟練のマッチメイカーに見えたのは僕だけだろうか。


【アニー・ホールへのオマージュの意味】

 しかし繰り返すが、チャーリーはどこか状況を楽観視している。ニコールと違って、チャーリーは自分の中のニコールの存在に気がついていない。(だから浮気してしまうのだろうけど)
 そしてLAは嫌いだとゴネてばかり。ここは完全に『アニー・ホール』だ。

『アニー・ホール』でもウディ・アレンが背広を着て太陽が燦々ときらめくLAの街で愚痴ばかり言うシーンがあるし、前半の自然主義的でザラザラしたタッチの撮影も、『アニー・ホール』を想起させる。

 『アニー・ホール』は、ウディ・アレンが元カノのダイアン・キートンとの失恋を描いた半自伝的な映画。実際に彼女にヒロインを演じさせることで、赤裸々に自分の失敗を綴る反省の物語だ。
 そして『マリッジ・ストーリー』もメタ構造を取っている。チャーリーとニコールの設定は、ノア・バームバック監督自身と、前妻で女優のジェニファー・ジェイソン・リーだと言われている。

 『アニー・ホール』へのオマージュから分かるのは、本作も監督本人の反省が代弁された物語だということ。

「あの時の俺は何も分からなかった」

という気づきを経て、本作を撮ることが出来たのかもしれない。 
 


【ラストシーンと『レディ・バード』】

 『マリッジ・ストーリー』最大の見せ場は、やはり壮絶な喧嘩シーンだろう。互いに自我をぶつけ合い、互いを非難する。
チャーリーは一線を越える暴言を吐き、激しい自己嫌悪に陥る。ニコールを否定することは、チャーリー自身を否定することだった。

 さらにチャーリーが流血する場面も象徴的だ。偶発的な出来事なのだが、まるでニコールへの愛憎が跳ね返ってきたように見える。

 そしてラストシーン。息子ヘンリーが偶然読んでいたのは、映画冒頭でカウンセラーに書かされたニコールの手紙だった。
「相手の好きなところリスト」の最後はこう締めくくられる

「それでも私は彼を愛し続けるだろう」

 思わず落涙するチャーリー。
ニコールは最初からわかっていた。心の中のチャーリーの存在の大きさを。だからこそ訴訟で、彼をかき消すことが出来るのかどうか試したかったのかもしれない。
 しかしそれは出来なかった。というか、する必要もなかったのだ。チャーリーを愛することが、今の自分を肯定することと同じだから。
「相手」を完全に断ち切るのではなく、受け入れて別れる。その両立が可能だという気づきを経て彼女は吹っ切れる。
チャーリーの靴紐をそっと結んであげるのだ。

 この感動的なシーンで、思い出した映画がある。ノア・バームバックの現パートナーで女優のグレタ・ガーウィグが監督した『レディ・バード』だ。

 実は『レディ・バード』も、読ませるつもりなく書いた手紙が相手に読まれる場面がクライマックスになっている。

 ケンカばかりで半目し合う田舎の母と主人公クリスティンだが、クリスティンがニューヨークの大学に進学することに。いつも怒ってばかりで本心が言えない母は、娘に手紙を書く。
しかし、やはり素直になれずにそれをゴミ箱に捨ててしまう。
ところが、夫がその手紙に気づき、こっそりと娘クリスティンの旅行カバンに忍ばせる。

ニューヨークに着いてから手紙を読んだクリスティン。母に留守電を入れて素直な感謝の気持ちを告げ、物語は幕を閉じる。

 2作とも、手紙という小道具の使い方が非常に似ているのだが、もしかすると『レディ・バード』製作中にグレタは、夫ノアにシナリオの相談をしたのかもしれない。そしてノアは意図的にそれをオマージュしたのかもしれないし、あるいは無意識にノアの中の「グレタ」が、そのアイデアを引っ張ってきたのかもしれない。
(そうなれば、まさに「同一化」なのだが)

 真意は分からないが、映画のラストでニコールはチャーリーに自分がドラマの演出を担当することを告げる。ニコールが自身の劇団で演出をやりたいと言っても拒否し続けてきたチャーリーだが、ここで素直におめでとうと告げる。

 現実世界でも、ノアは『フランシス・ハ』でグレタを主役にフックアップし、彼女が監督になる道をサポートし続けてきた。

 つまりニコールは前妻ジェニファー・ジェイソン・リーでもあり、現妻グレタでもある。そして『マリッジ・ストーリー』は前妻への反省だけでなく、グレタにも捧げられた彼の成長の物語、そう思えてならない。


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