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【歌詞考察】不可幸力/Vaundy~2010年代を真空パックした大傑作

はっぴぃえんどの「風をあつめて」の記事で、間奏での時間経過を挟んで、同じ言葉でもサビの意味が違うことについて書いた。「風をあつめて空を飛びたい」という開放的なニュアンスが、「ここではないどこかへ逃げ出したい」という孤独と絶望の吐露へと変わるというものだ。

これと非常に似た構造なのが、2020年のヒットソング「不可幸力」だ。
閉塞感に満ちた現状に対する不平不満をラップしつつ、後半のCメロで一気に曲が展開。「愛」が持つ可能性について熱唱した後に、再び同じフックに戻るという円環構造をとった楽曲である。個人的には2020年に発表された楽曲の断トツナンバーワンで、こと歌詞においては非の打ち所がない。

【2010sを137文字で完壁に説明】

まず、出だしはこんな感じ。

どこにいっても
行き詰まり そして憤りを
そのままどっかに 出すくだり
そんな劣等も葛藤もみんな持ってる
その理由は同じ
なんでもかんでも欲しがる世界じゃない
また回る世界に飲まれている
それも理由は同じ
膨らんだ妄想幻想真相を
いやあれを探してる
あれなにわからないよ
それなに甘い理想に落ちる

まず絶賛したいのが、わずか137文字というツイートできる程の文字数で、2010年代以降の社会の空気感を完壁に描写している点。
僕は1991年(平成3年)生まれ。高校2年生(2008年)の時に、iPhoneが日本に上陸した。同年からTwitterの日本版が始まり、東日本大震災の少し前あたりから広く世間に浸透していったと記憶している。
そして2011年の後半から、LINEがメールにとって変わる存在となっていく。Facebookも追随するが、中高年にまで広がってしまったことで「ヒップ」なSNSとは言いがたく、近年では離れていくユーザーも多い。Instagramでさえ、いまの10代からすれば古いツールだという。2010年代とは、「スマホ・SNSによる人間関係革命」の10年だった。

【SNSによる人間関係革命】

それ以前であれば、他の誰かが「いつ・どこで・何をしているか」なんて、知ることは出来なかった。もちろん厳密に言えば、ガラケーでメールも出来たし、ブログやmixi、前略プロフィールだってあったけど、リアルタイムで他人の行動を把握することまでは出来なかったし、「既読」システムによって、画面は現実世界と地続きになった。自分と面識のない著名人の言葉、映像、思考を垣間見るだけでなく、友好的にも好戦的にもやり取りできる世界など誰が想像しただろう。

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「あの人はいま何をしているんだろう」
「この問題について世間の人達はどう考えているのかな」

そうした情報が容易く手に入ることは便利な一方で、端的に地獄だ。なぜならば、私たちには「自意識」というものが存在するから...

【同質化と差別化】

「自意識」とは何か。おそらく世界でそれを最も簡潔に説明したであろう、チャットモンチーのmajority bluesという曲の一節を引用する。

みんなと同じものが欲しい だけどみんなと違うものも欲しい

日本語辞典の「自我」「自意識」の説明に付け加えたいくらい、胸に刺さる完壁な詩。文明社会で生きている以上、このアンビバレンスから逃れられる人間などいないと断言する。
そしてSNSは、この葛藤を増幅させるのにうってつけの装置だ。誰かを叩いたり持ち上げたりするために、ワン・オブ・ゼムとして埋没することも出来るし、承認欲求を満たすための様々な自慢も出来る。こうした同質化と差別化を繰り返すことで、バーチャルの世界は現実を超えていく。

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【画面の中の「幸せ」は果たして幸せなのか】

ただしこの巨大集合体は、ポジティブよりもネガティブを圧倒的なスピードで拡散し、更なる怒りを助長し、徹底的に誰かを痛めつけてしまう。
あるいは、いくら幸せをアピールしても本質的には満たされないために、それ以上の虚無感に襲われてしまう。他人と自分を比較し、それに一喜一憂してしまう。開けば必ず何かにイライラすると分かっているのに、彼ら/彼女たちがどうしているか知りたくてたまらない。安心したい。そのために、自分が幸せな時にはたくさんの人に祝福して欲しいし、不幸せな時は足下に誰かがいて欲しい…こうした「病み」がフックで、さらに強調される。

welcome to the dirty night
みんな心の中までイカレちまっている
welcome to the dirty night
そんな世界にみんなで寄り添いあっている
welcome to the dirty night
みんな心の中から弱って朽ちていく
welcome to the dirty night
そんな世界だから皆慰めあっている

ネットが「集合体」としての意思を持っていると思うことはないだろうか?
ネットニュースだったり、コメント欄だったり。それらはすべて、実体を伴った記者なりネットライターが書いた記事と、人間のレスポンスのはずだ。しかし彼らは「見えない」し、批判的で攻撃的な言葉はどれも、「大きな意思」にそそのかされているかのように思えてならないのである。
歌詞の「みんな」は、そうした肉体性のない集合体。だからか「寄り添いあう」とか「慰めあう」という言葉さえ、不気味に感じてしまう。
ところが、もう一度フックを繰り返した後、『不可幸力』は積み重ねてきたものをガラッとひっくり返し、現実に対して「抗う」のだ。

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愛で揺れる世界の中で僕達は
キスをしあって生きている
揺れる世界の中を僕達は
手を取り合っている
なぁ、なんて美しい世界だ
僕ら何度裏切りあっていても
まぁ、なんとか手を取り合うんだ
まるで恋愛映画のラストシーンのような
愛で靡く世界の中で僕達は
キスをしあって生きている
靡く世界の中を僕達は
目を合わせあって生きる

【「愛」とはなにか】


探していた「あれ」とは、愛だったのだ。それまでクソみたいだった世界が、まるで別物のように美しく見えるのも、愛によって救われるから。
さらに注目すべきなのは、それまでの歌詞の登場人物が「僕」と「みんな」だったのに対し、ここでは「僕ら」・「僕達」に変わっていることである。
愛=恋愛感情という単純な解釈も可能だが、個人的には広く「自分以外のヒト/モノ/コトを好きになる」ことの肯定なのではないかと解釈する。画面の世界に閉じこもっているだけでは「自己愛」ばかりが膨張して、誰かへの妬みや怒りに繋がる。そしてそれが自己嫌悪を呼んで、悪循環に陥ってしまう。まさに愛で揺れる世界である。

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しかし一方で、愛になびいてしまう世界でもある。(この「なびく」という表現が絶妙に上手くて、風になびく映像を連想させる見事なニュアンス)
どんなクソみたいな状況でも、憎しみは愛には勝てない。だから不可幸力なのだ。抗を幸にしているのは「抗えない幸福」というダブルミーニングだろうから、やはり愛とはもっと広義の意味のはずだ。「そのヒト/モノ/コトがあるから、このクソみたいな世界をなんとか生きていける」と、個々人を鼓舞するもの。それこそが愛なのだ。

【見方次第で悲劇も喜劇】

もう1つ、本作には大事なメッセージがある。「世界は視点次第でいかようにも変わる」ということである。これを紐解くのがコード進行だ。

前半のコード進行は、

Aメロ Dm→Bb→Gm→A7
Bメロ Dm→Cm→Bb→A7(→Dm→Cm→Bb→A7→Ebmaj7)
フック Dm→Bb→Gm→A7

なのだが、大きく展開していく後半(Cメロ)はというと、

Cメロ Bb→A7→Dm→Cm→F(→Bb→A7→Ebmaj7)

お分かりいただけただろうか?
AメロやBメロで使っているコードにFを足しているだけ。劇的に展開していると言っても、元々あるものを並び替えているだけなのだ。裏を返すと、コードを並びかえるだけで、私達の耳にはまったく違って聞こえてしまう。


それと同じように、世界は見方ひとつで悲劇にも喜劇にもなる。
不平不満をたらし、〇〇が悪い、社会が悪いと人のせいにする前に、ちょっとだけ視点変えてみません?何気ない日常も、映画のラストシーンみたく劇的なものなるかもよ?
この歌はそんな提案をしている。その証拠に、非常に悲観的に聞こえた言葉の連なりが、Cメロで提示された「抗えない幸福」によって、最後に少しだけ希望の色を帯びる。世界への絶望が大きければ大きいほど、微かで弱々しい小さな希望の明るさがより映えるから。


welcome to the dirty night
みんな心の中までイカレちまっている
welcome to the dirty night
そんな世界にみんなで寄り添いあっている
welcome to the dirty night
みんな心の中から弱って朽ちていく
welcome to the dirty night
そんな世界だから皆慰めあっている


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