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『不適切にもほどがある!』(2024年)に感じる3つの違和感


はじめに〜考察ブームについて

現在放送中の『不適切にも程がある』。放送の度に反響が多いのは、視聴者がどうしても物申したくなる「ツッコミしろ」の多い作品だからだと思う。

この「ツッコミしろ」は、近年の考察ブームとの相性が良い。たとえば『VIVANT』が日本での大流行に反して、世界進出に苦戦しているが、それは無理からぬことだと思う。

喧伝されている予算額に見合うだけのルックになっていない以上に、支離滅裂なストーリーをなんとか成立させていたのが、「考察」というオブラートで包んだ受け手側の親切な補完だったからだ。

そもそも映画・ドラマの撮影には、作り手が予期しなかった「偶然」が必ず収められるし、現場では理想と現実の間にある「妥協」が必ず発生する。考察に真剣に熱中する人には申し訳ないが、作り手が神のように画面内の情報の全てをコントロールしているという幻想に付き合うのは時間の無駄だ。

だから「考察」と作品の評価は全く別のところにあるが、人気作にするためには、いかに視聴者の能動的なアクション(ネットのバズ)を誘発するかが肝になっている。ファンダム作りに躍起になっているのだ。その点、宮藤官九郎は、すでに確固たるファンダムを形成している。彼や坂元裕二のようなビッグネームが「テレビ離れ」から日本人を繋ぎ止める「最後の希望」であることは間違いない。

”一定の誠実さ”は評価できる


だから「議論してもらうこと自体に意義がある」ことにゴールを置くなら、本作『不適切にも〜』はすでに大成功だと言っていいと思う。視聴者に能動的に補完させるものが、ドラマの筋書きを超えた社会的トピックで、そこから議論を広げているのだから。


また、舞台をテレビ局に設定していることは、表現をめぐる難しさにクドカン自身が悩んでいることや、「個人に出来る限界」に自覚的なことも意味しており、「一定の誠実さ」を感じ取ることが出来るからだ。

朝井リョウの『正欲』は、「多様性や価値観のアップデートを声高に叫ぶ人」にも、知らず知らずの間に形成された無自覚で凝り固まったバイアスがあることを、チクチクと刺すように読者に気づかせる傑作だった。極論に極論で抗う分断はどちらも「自分の言い分」しか認めない点で、本質的には個人主義の域を出ない。

どんなに気に食わない相手でも、相手の顔を見て、同じテーブルについて議論しなければならないーーいまのところ、多様性をめぐる問題について最良の方法はこれしかないし、そこに効率を求めるものでもない。『不適切にも~』にも、概ねこうした考え方が通底しているように感じられる。

「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」

ブレイディみかこ『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』より


ただし、本作に個人的に指摘したい箇所がたくさんあるのも事実だ。
それは主に3点あり、

①.「ありき」設定で起こった齟齬
②.ご都合主義のズルい展開と、Z世代の不在
③.作家性とテーマの食い合わせの悪さ

である。前置きが長くなったが、順を追って説明したい。

問題①.「ありき」設定で起こった齟齬

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(以下BTTF)の日本公開は1985年12月7日。『不適切~』では、BTTFに感化された中学生がタイムマシンを発明することが話の肝になる。1986年という時代設定はBTTFありきであり、そこには2つの理由があると思う。

1つはBTTFが「タイムリープもの」の最大公約数だからである。ライフスタイルや娯楽の多様化が進み、異なる世代が「共通の話題」を見出しにくいからこそ、名前くらいは誰でも聞いたこがある作品の必要があった。

もう一つの理由、個人的にはこちらの方が大きいと思うが、BTTFではデロリアンというカッコ良いスポーツカーがタイムマシンだったのに、それを「あえて」凡庸なローカルバスに変換する「ハズし」がクドカンには「面白い」からである。

いずれにせよ、「1986年」は大事ではく、「BTTFのパロディ」ということの方が重要だった。だから多くの人が指摘しているように、時代描写はそれこそ「不正確にも程がある」状態だ。

不正確にも程がある1986年

小泉今日子の『渚のはいから人魚』は1984年のシングルだし、デビュー40周年は2022年なので、喫茶店のトイレに貼ってあるものはどちらも2年早い。1986年には近藤真彦の人気は既に下降気味だった。
第1話で使われる小道具「写ルンです」の発売は1986年7月だが、5話で出てくる「大沢悠里のゆうゆうワイド初回放送」は同年4月である。

「揚げ足取り」だと思われるかもしれない。私もそう思うし、何よりクドカン本人がそう思っているだろう。リアルタイムに80sを生きてきた彼が、「花の八二年組」を知らないわけがないし、ここまでの指摘は釈迦に説法のようなものだ。つまり彼は「80年代の日本」と「いまの日本」をふんわり比較→問題提起したいのであり、ピンポイントに1986年という時代にこだわりがあるわけではないのだろう。

だが、それで本当に良いのだろうか?「神は細部に宿る」というが、この「ざっくり80s」でひとまとめする姿勢について、以降も検証しよう。

「ありき設定」が見受けられるのは、主人公小川市郎の年齢設定だ。市郎は86年時点で50歳となっているが、これは演じる阿部サダヲが現在53歳なので、いわば「キャスティングありき」である。
私はこっちの方が、些細な1986年の時代描写ミスよりよっぽど問題だと思う。市郎は1935年(昭和10年)生まれということになってしまうからだ。

戦前→戦後を超える"アップデート"はない

1935年生まれの主な有名人は例えば、美輪明宏、大江健三郎、小澤征爾、高畑勲である。恣意的に選んだ4人だが、いずれも強い「反戦のメッセージ」を表明してきた。終戦時に10歳だった彼らには、戦前と戦後の価値観の大転換を経験している。それに比べれば、昭和から令和の変化など取るに足らない。

ところが市郎は、戦後の「アメリカをインストール済みの日本」を体現したキャラクターになっている。もちろん、同世代のほとんどの人が市郎のようにアメリカナイズされたから今がある。ただ、彼の戦争体験が描かれないのは少々もったいなくはないだろうか。

なぜならネット上の「議論」の多くは、観念論に終始しているからだ。誰もが右・左に分かれて頭でっかちになっている。
一方で、戦後しばらくの日本はイデオロギーを超えて誰もが戦争という体験を共有していたはずだ。ドラマの中で「昭和」と雑にまとめられる時代には、戦前があり戦中があり戦後がある。60余年あったそのグラデーションが、ここまでの放送では今ひとつ感じ取れない。どうか私のこの指摘が、杞憂で終わるような展開を今後に望みたい。

問題②.ご都合主義のズルい展開と、Z世代の不在

第1話は、秋津(磯村勇斗)からハラスメントを受けたと訴える女性社員が、会社に来れなくなってしまう。そこで上司たちが居酒屋で秋津から聴取を行うのだが…という話だった。

最後には自分だけ秋津に叱ってもらえないことが苦しかった女性社員が、自分に「かまって欲しかった」のだということが分かり、和解する2人。腹を割って話すことが大事だね~めでたしめでたし…
って、これ本当にハッピーエンドなの?

会社を休むレベルの状態にいる人と、加害者の可能性がある当事者を引き合わせることはNG。たまたまこの後輩社員は秋津にほのかな好意を寄せていたから解決したが、それは相当にご都合主義というものだ。

それ以上に違和感を感じたのが第2話で、渚(仲里依紗)が復職する回だ。
育休から復職した渚のため、上司(インパルス板倉)は仕事をセーブさせたり、後輩に仕事の一部を引き継がせようとするが、渚はバリバリ働きたいし、「自分で抱えた方が楽なこともある」と主張する。

だが、時短中は「子育て第一」の人だってたくさんいる。ここでも「都合の良い人材」(すぐに復帰して、今まで通り働いてくれる女性社員)を、渚に背負わせていると感じた。

特に渚の元夫(柿澤勇人)が、非常にアンフェアだ。
フリージャーナリスト兼Youtuberの彼は、「環境問題について」という動画内でこう発言する。

「ゴミ捨て、めっちゃ大事」

いかにも「意識高い系の若者」をくさすボケだ。大上段に構えてるのに当たり前のことしか言わない教養系Youtuberもだが、その信者になってしまう若者たちへの冷ややかな笑いを、そこに感じ取れる。

だが、急激に温暖化や災害の激甚化が進んでいる現代において、若者たちの問題意識が高まるのは当然のことであり、大人こそ恥ずべきではないかと私は思う。つまり冷笑する方がダサい

さらに元夫は渚の提案に、「また過労死が起きる」と冷ややかに言う。だがその言い方は、本気で労働者の健康を心配するというよりは、「今時の若者は豆腐メンタルだから」的な「決めつけ」に満ちている。

マスメディアで過労死と言えば、電通の高橋まつりさんの事件が記憶に新しい。仕事を一人で抱え込んでしまった結果、起こる悲劇もあるのだ。

ここでの問題点は、元夫が管理職と若手社員の両方を代弁する存在ということだ。しかし、彼は若手社員たちを「あいつらこういう世代だから」とステレオタイプに押し込めてしまう。当事者不在の空中戦が行われているのだ。

当事者のZ世代、キヨシ(吉田羊の息子)は1986年にいる。
表層的には豊かな2024年が、実は空虚だとテーゼを投げかける重要な存在なのだが、やはりそれは昭和世代の土俵の中での話なのだ。このドラマには、現実同様にZ世代にとっての構造的不公平さがある。

問題③.作家性とテーマの食い合わせの悪さ


第2話で、元夫が自身の動画内で「育休取得」を公表したせいで、保育園に落ちる展開があるが、これは明らかに事実誤認だろう。両親とも育休を取っていても、復帰時期を就労証明などの書類で説明すれば、2024年現在、それが理由で落ちることはまず考えられない。

クドカン作品にはしばしばこうした「雑さ」が散見される。それらは基本的に「ならではのオフビートな笑い」として正当化されることが多く、私だっていちいちツッコむべきものではないと思っている。

だが、それが行き過ぎるとノイズになってしまうこともある。
例えばあのミュージカル演出。いくらこのドラマに好意的な人でも、あれが心底笑えて全面的に支持出来るという人、いるだろうか?
これはクドカンというより、もしかすると演出(監督)側の問題なのかもしれないが、「あえて」ここでいきなり歌い出したら「面白くない?」程度のこころざしに感じられるから醒めるのだ。いくら本物のミュージカル俳優をキャスティングしたところで、これは「ハズし」の演出だから、本気でやる必要はない。そんな意図が見え隠れする。

そして、これがクドカンをクドカンたらしめる彼の最大の作家性だと思う。一言で言えば、彼はタランティーノ・ワナビーなのだ。いかにタランティーノが彼の脚本に影響を与えているかについては、今さら説明不要だろう。ただ、タランティーノの宮藤官九郎の決定的な違いは、タランティーノは作中の固有名詞を本気で愛しているのに対し、クドカンはそれをシニカルにイジっているところにある。

タランティーノは「あえて今」とか「あえてハズし」で、過去のヒットソングや旬の過ぎた俳優を使っているのではない。心からリスペクトしていたり、本当に自分が好きだと思っているから使う。そこで生まれる「オフビート」は結果論に過ぎない。

だがクドカンはそのフォロワーなので、戦略的にオフビートをやっている。視聴者に「なんで主人公の憧れのスターが川崎麻世なんだよ笑!」とツッコミを入れさせるためであり、川崎麻世当人への思い入れも愛もあるはずがないのだ。

今回の『不適切にも~』も、クドカンが80sカルチャーに特別な想いを持っていないことが透けて見える。これがタランティーノだったら、病的に時代設定にこだわるだろう。何月何日になにが起きたかまで調べて、それをもとにシナリオを書くだろう。

誤解しないで欲しいのは、別にそれをしないから宮藤官九郎がダメだと言うつもりは全くない。テレビと映画では全然違うし、ある意味で「雑になれる力」によって、クドカンはタランティーノとは違う個性を獲得し、何十年に渡りトップランナーとして走り続けているからだ。


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