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【アイリッシュマン】(2019年)映画評:ヘンテコなようで実は王道なスコセッシ映画

<あらすじ>
かつて第二次世界大戦の兵士だったフランク・シーラン(ロバート・デ・ニーロ)はトラックの運転手で生計を立ていた。ある日、車の故障で立ち往生している時にラッセル・バッファリーノ(ジョー・ペシ) に助けてもらう。それを機にフランクは非合法な世界へ足を踏み入れる。やがてマフィアから殺しを受けるようになる。フランクの働きを聞いたジミー・ホッファ(アル・パチーノ) とも仲良くなり、着実に殺しの仕事をこなしていくが...


【 “思ってたのと違う” はむしろ褒め言葉】

 映画を観終わった時に、「思ってたのと違う」と思うことが良くある。予告編や雑誌などメディアの事前情報で、なんとなくの妄想を膨らませてしまうし、「あの『〇〇』の××監督最新作!」みたいな触れ込みがある時は、特にそれが顕著だ。
 ただし言っておきたいのは、「思ってたのと違う」は必ずしもネガティブなニュアンスを伴うものではないということだ。むしろ「思ってたのと違う」からその映画がつまらなかったという人は、根本的に映画を観ることに向いてないと思う。
 もちろん明らかにミスリードさせる予告編は沢山ある。主役だと思ってた人がチョイ役でしか出なかったり。
 しかし「思ってたのと違う」は、鑑賞前の自分が予想もしなかった映画体験をしたということであって、それを楽しめないのは単純に勿体ない。自分が面白いと思えるものだけで占められた世界は、自由でもなんでもなく窮屈に他ならない。

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【予想外のスローテンポ】

 なんでこんなことを言っているかと言うと、マーティン・スコセッシ監督の最新作『アイリッシュマン』がまさにその好例だったからだ。
 ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシでマフィア映画を撮ると聞けば、誰もが『グッド・フェローズ』的な饒舌・ギラギラ・スタイリッシュな映像作品を期待する。


 ところが、『アイリッシュマン』は全くそういう映画ではなかった。相変わらず全然説明をしてくれないまま、ガンガン固有名詞が行き交うため情報量自体は多いものの、とにかくテンポがゆったりしている。

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 映画館でなく自宅で観たこともあるだろうが、ジェットコースターのようにあっという間の3時間半というわけではなく、むしろ前半2時間ぐらいは正直冗長に感じたところもあった。もっとも、このスローテンポは意図的な演出だという事が最後に明らかになり、その点は後述する。


【ジジイたちに萌える "枯れ専映画" 】

 もう一つ期待を裏切られたのが、抑制的で地味なアクションだ。例えば『グッド・フェローズ』でギャンギャン吠えながら暴力を振るいまくったジョー・ペシが、本作では全く動かない。どころか、ドライブ中に助手席で昼寝したり、歯が無くてパンが食べられなかったりで、ジジ可愛いのだ。

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 全編に渡りジジイ達が時に若作りし、時に過剰にヨボヨボになってみたりのコントテイスト。ここまで「老化」というギャグだけで一点突破するとは予想外で拍子抜けしたものの、イーストウッドの『運び屋』然り、名優の老獪で愛嬌のあるジジイっぷりに萌える。「枯れ専」冥利に尽きるのだ。

 そしてストーリーも、スコセッシやデ・ニーロ、パチーノにとってのマフィア映画の総決算を期待していた人には意外だったかもしれない。勿論アメリカ近現代史の闇を描きつつ、スコセッシらしい宗教的な物語に収斂していくが、話の大半はワガママでコミュ障な上司たちの喧嘩に部下が困るという「サラリーマンあるある」だ。

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 「笑えるけども一体どこに連れて行かれるんだろう?」という疑問を抱きながら2時間が経過し、ようやくフランク(デ・ニーロ)とラッセル(ジョー・ペシ)の旅行の真の目的が分かった時に、思わず背筋が凍るような感覚に襲われる。見事にスコセッシの術中にはまっていた。

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【悲劇をより悲劇にするための喜劇】

 冗長に思われた前半には、実は意味があった。フランクが「大切なもの」を失って以降、物語のテンポは嘘みたいにスピードアップしていく。フランクはあっという間に堕ちていき、老けこんでいく。孤独な日々を過ごし、人生は苦痛に満ちているがなかなか死ねない。それは究極の罰だ。

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 退屈に思えた日常描写が、ここで強烈なコントラストとして機能する。一見安易に思えたジジイギャグも、悲劇を強調するための笑いだった。

【『仁義なき戦い』『ゴッドファーザー』との相違点】

 興味深いのが、日本とアメリカにおけるヤクザ映画の違いだ。『仁義なき戦い』では、毎回鉄砲玉となる若者は死ぬが、金子信雄演じる山守の親分は助かる。まさに「悪い奴ほどよく眠る」だ。


 『仁義〜』は、太平洋戦争と深く結びついている。多くの犠牲者を出したにも関わらず、戦争責任者達が責任を取らなかったことへの怒りが出発点となっているからだ。上司はことごとくセコくてスケベで汚い。だが奴らが罰を受けることはない。(残念なことにこのメンタリティは映画だけでなく、現実世界にも散見される)

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 アメリカのマフィア映画は違う。マフィアの存在そのものが没落していくため、悪い奴らは全員地獄に落ちる。『アイリッシュマン』も同様で、汚れ仕事を全部フランクに押し付けるマフィア達は、全員悲惨な死に方をすることがテロップで説明される。

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『仁義〜』なら真っ先に死ぬであろう鉄砲玉のフランクが、いちばん最後まで生きている。これはある意味で『仁義~』より残酷だ。悪の道に足を踏み入れた時点で、彼の運命が決まっていたかのように感じられるからである。

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 そしてそれはマフィア映画の金字塔、『ゴッドファーザー』シリーズにも通底する。『ゴッドファーザー』は、主人公マイケル(アル・パチーノ)がコルレオーネファミリーのドンにまでのしあがり、全てを失うまでの壮大なピカレスクロマンだ。


 元々はカタギだったマイケルだが、ファミリーを守るために人を殺めて悪の道へ。勢力を拡大する過程で冷酷無比になっていき、ついには実の兄弟までを手にかける。そしてビジネスを合法化しようと奔走していくのだが…

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 実は1作目で殺人を犯した時点から彼の運命は決まっていたように映る。さらに「家族を守るため」と正当化した暴力が連鎖を起こし、家族に牙を剥くというのも『アイリッシュマン』と共通する。

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 つまり『アイリッシュマン』は「思っていたのと違う」ようで、キチンと王道のツボも抑えている。何より、スコセッシの作家性と切り離すことができないキリスト教の倫理観と深く結びついた作品だと言えよう。

【映画そのものが罪の告白】

 この映画を簡潔にまとめるなら、友人を殺した男が、その罪を告白する物語と言い換えられる。

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 本作は、老人ホームで孤独に過ごす老齢のフランクの回想で語られる。劇中でフランクが誰かに罪を告白する場面こそないが、この回想(原作ノンフィクションの取材と思われる)によって語っているので、映画そのものが彼の告白という構造をとっている。

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 自らの口で罪を告白することで彼は解放されたのだろうか。フランクは自室の扉をほんの少しだけ開けておいて欲しいと神父に頼む。かつてジミー(アル・パチーノ)がそうしたように。

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 しかし彼を赦すことができる人は沈黙している。ジミーも娘のペギー(アンナ・パキン)も。その重い余韻を残して、静かに映画は閉じていく...

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