ブラジル野球と日本の繋がり さわやかNo,3
今回は私が携わるブラジルの“野球”について。
よく『ブラジルの野球はどうなん?』『そもそもブラジルに野球する人はいるの?』と,いろんな人に聞かれます。
それもそのはず。“ブラジルのスポーツといえば?”と聞くと,90%以上の人が“サッカー!”と答えるんじゃないかなと思います。
まさに!ここはサッカーの国。
公園はもちろん,なんでもない道の真ん中やビーチでは,サッカーボールを持った子どもがたくさん。
子どもだけでなく,老若男女問わず幅広い世代が公園でボールを蹴っている姿をよく目にします。
この光景に,“当然野球あるの?”の質問が飛んできてもおかしくないですね。
ただこのブラジル,日本ではあまり知られていない野球の歴史があるんです。
1. ブラジル野球の歴史
ブラジルは世界で一番多くの日系人が生活する国であることはご存知ですか?
現在も約190万人の日系人の方がブラジルで生活しておられます。
では,少〜し歴史の話にお付き合いください。
日本人のブラジルでの生活が始まったのは,今からちょうど110年前の話。
1908年(明治41)4月28日,第1回目の契約移民781名が笠戸丸に乗り,神戸港を出港したのを皮切りに,これまで多くの方がブラジルに移り住まれました。
ブラジルは元々アフリカ大陸から送り込まれる奴隷をつかい,コーヒー農園等を運営していましたが,1888年に奴隷廃止制度を行ったため,農業労働者が不足し,世界各国から募っていました。
一方そのころの日本はというと,1904年に起こった日露戦争で日本は勝利したものの,賠償金がもらえず,経済が厳しい状況に。
不況であった日本政府は海外に目を向け,移民の受け入れ先を探しました。
ここでブラジルと日本はプッシュアンドプルの関係に。
そこで実際に日本から移民を送る事業を担った“皇国殖民会社”が,移民希望者を募る際に,ブラジルでの高待遇を宣伝したのです。その宣伝に希望を見出した移民のほとんどは数年間契約労働者として働き,お金を貯めて帰国するつもりでした。
が…しかし,故郷を離れ希望を持った移民の方たちに待っていたのは,思っていたものとはかけ離れた労働環境・感染病の流行・そして世界大戦中,戦後に生じた日本人としての孤立と生き辛さ,といった予想以上の苦悩の連続だったのです。(もちろん中には努力の末,成功された方もたくさんいらっしゃいます)
そんな大変な思いを抱えながら,生活をしていた人たちの娯楽の一つとして行われていたのが,野球。
日本から持ち込んだグローブと,グァバの木で作ったお手製のバットを持ち,空き地で野球を楽しんだのだと。
入植者がうなぎ上りに増えていった1930年代後半には,『全伯野球大会』という日系移住地対抗のトーナメント大会が開催されるほどの規模にまでなったのだそうです。
その後も,野球人口は増加し,日本の実業団がブラジルに進出したり,日系人の憧れであった早稲田大学・慶應義塾大学野球部を招待し,ブラジルの地で早慶戦が行われたりと日本とブラジルを野球が繋いだ歴史があるのです。
2. “Baseball” ではなく “野球”
実際にブラジルに野球を持ち込んだのはアメリカの電力会社や電気会社の技師だと言われています。
しかし,その野球をブラジル内に広めたのは日系移民の方々。
各地で,農作業の傍ら仲間を集め,空き地だった場所を農具で整備し,芝を敷き,球場を作ったそう。
そんな異国の地で自分たちの文化を守り,継承された方々の影響は現在にも強く残り,ブラジル野球では多くの『日本』を感じることができます。
その例として,名前が日本名の選手がたくさんいるのが大きな特徴の一つ。また,ブラジル野球に尽力した方の名前がついた大会が行われたり,球場が建てられたり。
それだけでなく,グランド内も多くの日本語が飛び交っています。
監督・コーチのことを『Sensei』とよび,練習・試合前後の『Onegai shimasu』『Arigatou gozaimashita』という挨拶はもちろん,『Tourui』『Sanshin』『Naiya』『Gaiya』等の用語も日本語が使われています。
じゃあ,ブラジルの野球人口は日系人だけ?というとそうではありません。
日系人だけでなく,多くの非日系の選手も野球をしています。
私の所属するチームも,日系50:非日系50。
ブラジルの文化で育ってきた子どもたちが,日本の文化が残る野球をしている。
こんなにお互い距離の離れた国同士であるにも関わらず,野球を通じて強い繋がりを感じます。
3. 教育的ツールとして日系社会に残るブラジルの日本式野球
また,時にこんな嬉しい話も耳にします。
先日,私の所属するチームの選手が通う学校の先生が『あの子は野球を始めてから,学校での姿勢が見違えるほど変わった。野球の持つ教育的な側面に期待している。』とおっしゃっていました。
(そうした話を受け,地域の学校にお邪魔し,体育の授業時間の一部をもらい,野球の普及活動も行なっています。上の写真がその時のものです。)
ブラジルにおいて,もはや娯楽をこえて教育を兼ね備えた『野球』。
そんな日系移民の方々が育てたブラジル野球が今後どうなっていくのか。
日系人が教えてきた日本式の技術と教育,それにラテン系のパワーがミックスされた,繊細かつ豪快な野球。
これからもサッカーが一般的なこの国で,野球を選んだ子どもたちが世界で活躍してくれる日を楽しみに,今後も携わっていきたいと思います。
2020年の東京オリンピックで復活する野球。そうした背景を頭の片隅に置きながら観戦をすると,また面白い発見があるかもしれませんね。
日本代表の応援はもちろん,ブラジル代表にも期待です!!!
※参考資料および参考お話
『ブラジル移民の歴史』『100年目のプレーボール』こちらをインターネットで検索すると,詳細が見られます。
アリアンサ・弓場農場の方々の話
インダイアツーバ日伯文化体育協会 グランド建設に携わった方の話
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