見出し画像

「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」というお話(50)

2021年1月24日から始まったこの連載も、今回で最終回です。

自らが趣味で購入する自転車が「究極の一台」であって欲しいと期待する向きがあります。ママチャリのような実用車とは思い入れが違う…。
そこで、連載の最後に「夢の自転車」というお題で、思考実験的に、これまでの連載も振り返りつつ、あれこれ考察してみました。

途中、自由と思われるヒロセ車には、ヒロセ流オーダーメイドならではの不自由な側面があること等も記しています。

末尾にて、メディア毎に今後の方針を記しておりますので、ご確認頂ければ幸いです。



「夢の自転車」が欲しいですか?

オーダーメイドか否か、ハンドメイドか否かに関わらず、趣味の自転車は決して安い買い物では無いことが多いかと思われます。この連載をお読み下さっている様な方々は特に(高い安いは絶対値では無く、相対値。その人なりの金銭感覚において)。

何故そこまで「遊び」にお金をかけるのか? 乗っていない時は邪魔な置物になっているでは無いか、と冷たい目で見られることもおありなのではないでしょうか…。

それでも、いや、だからこそ、可能ならば、自分にとって「究極の一台」、「夢の自転車」を手に入れたいと、誰しもが願うものなのだと思います。
だって、夢や想いなんかが投影される「趣味」とはそういうものですから。

「夢のロードバイクが欲しい!」という本(ロバート・ペン著 高月園子訳 白水社)があります。
著者が各国の工場をめぐり、自分の目でパーツの製造工程までをも確かめながら、自分にとって最高のパーツを見定め、選び、それらで自らの「究極の一台」を作り上げるまでを記した本。

日本での出版は2012年で、私は廣瀬さんと出会って二年ほどたった頃、拝読しました。
この本について、廣瀬さんとも雑談をしましたが、「『究極の一台』ってのはなかなか難しいよね…。」というのが我々の結論でした。

なぜか? それは、趣味の自転車が「点」で捉えるのが難しい商品だからです。

特定のレースの為だけに組み上げられる競技用自転車と、我々が趣味で楽しむ自転車とでは、共に過ごす時間が違います。
競技車は舞踏会一晩の為だけに誂えられたドレスのようなもの。だから「点」で捉えることが可能かもしれません。
でも、個人の趣味車は、消耗品を入れ替えながら、五年、十年。人によっては何十年も使い続けることがあります。

ペン氏の著作は競技者用の自転車を作る話では無く、一般のサイクリストを念頭にした内容でした。そして作り上げた後の話は載っていない…。
「王子様と娘は、末長く幸せに暮らしましたとさ。」で終わるおとぎ話よろしく、「夢の自転車」を作り上げ、初乗りした時点で終わってしまっているのです。

もっとも、氏も趣味の自転車を「点」で捉えるのが難しいことなど、百もご承知のことと思います。
「『究極の一台』を組み上げるためのパーツを求める旅」というのは、そのバーツの歴史的意義や生まれた文化的背景。さらには自転車そのものの歴史・文化を紐解いていくにあたり、非常に優れたプロットとなっています。そして多少煽りの入った眼を引くタイトル…。見事な手法だな、と感心したものです。

以下、スポーツ自転車を「点」で捉えるのが難しい理由を、様々な角度から記してみます。


***


1  劣化という変化

タイヤ、ブレーキ周り(パッドやワイヤー)、駆動系(ギア板やチェーン)、バーテープ等、スポーツ自転車の多くのパーツは消耗品です。
徐々に磨耗、劣化し、その過程で性能は変わってしまう…。

フレームやフォークも劣化します。
クロモリでは一定の値までバネ性能が落ち、そこで下げ止まり、アルミは際限なく、右肩下がりに劣化していく。
劣化した時のフレームの反応の方が好きという方もいらっしゃるかもしれませんから、フレームやフォークの場合は、「劣化」では無く、「変化」と言い換えても良いでしょう。

転倒や衝突の衝撃などでも「乗り味」が変わってしまうことがあります。
ホイールやフレームやフォークの芯がずれたり、歪んでしまったり。
目で見てわかる変化は無くても、応力(ストレス)が残り、その影響が走りにあらわれる場合もあります。

ホイールは交換出来ますし、フォークやフレームがクロモリであれば、ある程度まで芯の修復は可能ですが、全く同じ状態に戻せるかというと、その保証はありません。
歪みを正すのに力を加えたり火を入れるだけで、フレームに残留応力が生じる場合があるからです。そして残留応力は走行性能に影響します。

衝突による残留応力を切断により解放したことで上下にズレたトップチューブ

また、劣化した消耗品を、新品に交換したとしても、正しく設置、セッティングしなくては、同じ性能、「乗り味」は実現できません。

適切な空気圧、油差し、ブレーキの位置決め…。
これら日常のお手入れは、作り手、売り手が意図した性能で乗る為だけで無く、消耗品の劣化を最小限にする為にも大切な作業ですよね。

つまり、どれだけ高価な自転車であれ、きちんと手を入れ続けなければ、完成時の質のまんまであり続けることは出来ない…。「乗り味」が自動的に維持されるものでは無いのですね。当たり前の話ですが…。

ヒロセでも、せっかくのオーダー車を自己流でメンテし、台無しにしてしまう例はいくつもありました。

だからでしょうか。ヒロセの昔からのお馴染みさんであればあるほど、ごくごく簡単な消耗品の交換であっても廣瀬さんにお任せする方が多かった…。正しい設置の意味、効果を深く実感、理解されていたからだと思われます。



2 素材やパーツの廃番等による変化

パーツが劣化したら速やかに交換すれば良い。
フレームだって同じ型番を買ったり、同じジオメトリでオーダーし直したら良い。
しかし、ある期間以上、その自転車に乗り続けていると、それが叶わない状況が生じます。

自転車のパーツは、時代とともに、その機構や、デザインや、素材の材質等が変わります。
例えば、ほとんど変化していないように思われがちなチェーンでも、段数が増えるに従って幅が細くなり、リンク方法も変わりました。
そして、古いモデルは生産数が減ったり、生産中止になったりで、年々入手が困難になっていく…。

メーカーは新しい規格やシステムに貪欲です。規格の変更、システムの入れ替えは儲かりもしますからね。

ディスクブレーキ隆盛の昨今、廣瀬さんが私のランドナーに採用した優れたカンティブレーキは、とっくにカタログから消えてしまいました。
リムブレーキ対応のホイールも減りました。

フレームのモデルチェンジも、カーボンが登場し、造形が自由になると、その頻度も、変化の幅も増したように思います。

全く変化の無さそうな鉄製オーダーフレームの素材であるパイプやラグも、長い歴史の中で、配合や製法の変化により、その質は変化して来たし、今あるモデルがいつまで市場に流通し続けるかはニーズ次第でしょう。

一世を風靡した、フレームメーカーやパーツメーカーが潰れてしまうことだってありました。

どんなに自分に相応しいと感じたパーツと出会えても、それが生産中止になってしまったら刷新は難しくなる…。
ヒロセのベテランオーナーさんの中には、それに備え、あらかじめ予備のサドルやハンドルを確保されている方もいらっしゃいました。
確かに、馴染んだものは、そうおいそれとはお取りかえ出来ないものです。「乗り味」が変わってしまうようなこともありますからね。

少々話がずれますが、こうした状況に対応する為、ヒロセでは可能な範囲で、生産中止となったパーツの部品を作ったりもしていました。
下のイデアル製サドルのヤグラはその一例です。

廣瀬さん、こうした部品を作る場合、単に全く同じものを作るだけでなく、オリジナルより精度やメンテナンス性の高いよう、工夫もされていました。

下は、既にそれを作った会社が無くなってしまった古いブレーキで、最新のシマノの舟を使えるようにした工夫。

ブレーキの「改良」の幾つかを記録した動画もございます。

ヒロセさんがオリジナルの変速機を作るようになったのも、元をたどれは、メーカーがそのモデルを作らなくなったり、潰れたりしてしまい、お客さんが困ったことに端を発しています。

壊れたパーツを一つ一つ作っていくうちに、システムまるごと作れるまでになっていた…。
そして、オリジナルよりも良い物を作るべく工夫をこらされた結果、オリジナルより段数が多いだけでなく、より変速がスムーズで、消耗部品の交換が簡単といった高性能、高機能な変速機が出来上がっていった…。

下は、そうした工夫の数々が詰まったヒロセのプルプル式リア変速機(九段変速)の接写と手書きのメモです。

プルプル式変速機製作時のメモ(2015年)

下は八段のヒロセ製プルプル変速機を組み立てている動画です。

メーカーが毎年のように産み出す、新しい素材やパーツ。
それら、「メーカーからすれば、進化した、より優れた素材やパーツ」が、誰にとっても相応しいかと言えば、必ずしもそうとも言い切れない…。

廣瀬さんは言います。
「素材の変化や、工作技術の向上で、パーツやフレームの耐久性や剛性なんかは時代とともに、右肩上がりに高くなっているけど、それがすなわち誰にとっても有難いかと言えばそうとは言い切れない場合があるよね。」と。

「一流ロード選手の酷使に耐えうるよう設計されたハンドル周りやクランク周り」は、私のようなポタリング愛好家には、剛性が高い故に疲れやすく、ちっとも楽しくなかったりします。
廣瀬さん、ゆったりのんびり自転車を楽しむ私のようなオーナーの発注においては、古い世代のハンドルモデルを採用されたりしていました。焼きを入れていない、あたりの柔らかいハンドルを。


自由自在と思われがちなヒロセ車の不自由さについて

話を「素材やパーツの廃番等による変化」に戻します。
メーカーによるパーツのデザインや規格の変更。さらにはメーカーそのものの消失。これらによりオーダー時に採用したパーツが市場から消えてしまう現象。
これらは、ヒロセ式のオーダー車にとっては、かなり深刻な問題だったりしました。

なぜなら廣瀬さん、「採用するパーツの設計、デザイン」を念頭に、フレームとフォーク、さらにはオリジナルパーツを設計されていたからです。

好きなパーツを指定し、思い通りのジオメトリと装備で作ってもらえるオーダーメイド車(もっとも廣瀬さんの場合は、その選択に剛性的な欠陥や安全性に問題がある注文は、どれほどお金を積まれても断わられていましたが)。
しかし、選んだパーツやバッグなどの装備に寄り添えば寄り添うほど、作り込みの精度を高めれば高めるほど、逆に不自由も生じてくるという矛盾がヒロセのオーダー車にはあったのです。

キャリアを例に、少し具体的にご説明します。

汎用向けに設計された市販のキャリアには、様々な大きさ、デザインの自転車に対応する為の調整機構が付いています。

その調整方法は様々です。ボルト用の穴が長穴(縦長の穴)だったりするものがあったり、バンドで留めるものがあったり。

持たせられる調整幅には限界がありますから、フレームとの相性によっては、キャリアの上面が地面と水平にはセット出来なかったり、使用したいバッグがうまく設置できない場合があります。

調整機構が付いた市販のキャリア

また重い荷物を積んで凸凹道を走れば、そうした調整部分が緩み、キャリアの位置がずれ、荷物がタイヤなんかに接触し、冷や汗をかくなんてことも。

廣瀬さんの作るキャリアに長穴のような調整機構はありません(そういう発注が無い限り)。ゆえに、一度セットしてしまえば、固定箇所がズレて位置が変わるようなことはありません。

また、輪行用や、メンテの為にキャリアを外しても、一つしかないネジ穴にネジを通し、そのまま固定するだけで、ピタッと正しいポジションにキャリアが決まる…。
この快適さはまさにヒロセ式オーダーメイドの真骨頂でしょう。泥除けなんかも同様です。

調整部分があると、その部分から不快な異音が出ることもありますが、そうしたことも起こりにくい。

これを可能にしているのが、そのキャリアを設置するフレームとフォークそのものを治具として、正立型治具上でキャリアを作るヒロセの製法です。

しかし、もしフレームが壊れてしまったらどうでしょう? 新しく作られるフレームに同じキャリアを使い回すのは、実は、けっこう難しかったりします。
フレームやフォークのパイプ寸法データは残っていても、ダボ穴の位置なんかまでは記録していませんからね。

フレームやエンドに設けられるダボ穴の位置は廣瀬さんの「目分量」で決められていました。

例えば、フォークブレード半ばに設けられるダボ穴の位置は、フォークの曲げ方によって上下しますが、そこに厳密な方程式のようなものはありません。「だいたい、このくらいが良いかな…。」という、感覚で決められていたのです。

壊れたフレームについていた古いキャリアを治具にして、新たなフレームを作るといった工程はありえません。

だから、古いキャリアを使い回すより、いっそ新しく作るフレームを治具に、新しくキャリアを作った方が楽で早かったりするかもしれませんね。

キャリア以外のパーツについても「専用設計の不自由さ」を考察してみましょう。

例えば、ステムの突き出し。
ここを変えると、フロントバッグの位置も前に出ます。あまりに長くすると現在のキャリアからバッグの先端がはみ出し、バッグの底が痛みやすくなる…。
逆にあまりに短くするとバッグがフロントキャリアの背にぶつかってしまい、設置すら出来なくなったり…。
こうした場合、キャリアの設計を見直すなり、アダプターなどで工夫しなければなりません。

さらに、ステム長が変われば、ブレーキワイヤーのルーティングも変わってしまいます。
当初は最高の位置に設置されていたアウター受けの位置が、相応しく無い場所になってしまうことだってありうる…。

これは、ブレーキレバーのタイプを変えても起こる問題です。

古いタイプのブレーキは昆虫の触覚のような角度でブレーキケーブルが上に向かって出ていますが、近年のものはハンドルバーに沿わせる設計です。
これらを交換すると、フレームのアウター受けへのケーブルの入力角度が変わりますし、相応しいアウター受けの位置も変わってしまいます。

ブレーキ本体の交換にも不自由な実例があります。

下は私の700Cのリアキャリア(=大型サドルバッグサポーター)製作光景。
フレームにパーツを設置した状態でキャリアを設計し、製作している様子です。

このキャリアは、両シートステーとリアブレーキ台座に伸びる3本のパイプでフレームに固定される設計なのですが、使用している2010年頃のシマノ・アルテグラのブレーキにピッタリ合わせて設計されているため、ブレーキ本体だけを少し後の105にかえようとしても、ブレーキ台座から伸びるパイプと、ブレーキ本体の上部が干渉してしまい、交換が出来ません。

上の写真の通り、左の105のブレーキは、真ん中あたりが盛り上がっているデザインのため、そこがキャリアを固定しているパイプと干渉してしまうのです。
特定の時代のアルテグラを使う場合において、(機能的・剛性的に)最適なキャリアを、とデザインされているが故に起こる不自由な現象です。

下の二つの画像のように、キャリアの固定にブレーキ本体を活用している場合も、ブレーキのモデルが変わるとキャリアが使いまわせない可能性が。

専用設計は、最適な剛性や乗り味を目指せる側面もあれば、僅か1ミリ以下の違いでパーツを交換できない等という不具合も生じてしまうこともあるのです。

ブレーキまわりでは、他にも似たような問題を記録した画像が残っています。
「ブレーキを変えたらヘッドパーツと干渉してしまった問題」。
ヒロセさんが応急処置的に施した解決策を記録したのが下の画像です(廣瀬さんは剛性を見極めての工作でしょうが、一般的に、部材を削ると剛性は落ちますから、こうした工作は危険ですよね)。

自分の夢を具現化したと思えるようなヒロセ車が実現し、それをオーダーした当時の装備、パーツのまま乗り続けられるのであれば、当面は幸せでしょう。

しかし、昨日まで完璧だったと思われていた自転車が、ちょっとしたパーツのモデルチェンジやメーカーの消失といった外部的要因によって不便や工夫を強いられるというのはヒロセ車において避けられない現実でした。

廣瀬さんがパーツと対話し、その機能や性能が最高に発揮できるよう設置位置を追求するヒロセのオーダーメイド車は、ある程度の調整幅を持たせて作られる市販品に比べ、この手の不自由さが顕著な商品なのです。

もっとも、こうした不自由さは何も自転車に限ったことではありませんよね。
ギターだって、今の弦の太さに最適なナットを作ってしまうと、太い弦に変えようとした時、弦が溝に入らなかったりしますし、カメラのレンズもマウントの規格が変わってしまったらそのままでは使えない。デジタル機器の専用設計のバッテリーにも悩まされますし、愛用のPCソフトだってOSの変更を受けていろいろ不自由したりもいたします。



3 環境の変化

趣味の自転車を「点」で捉えるのが難しい理由。次は環境の変化です。

親の引っ越しや自らの転勤等で、走る地形(山がちか平坦か)や、気候(雪の有無や降水量)や、人口密度(走る道の信号の数や道の混み具合)等が変われば、欲しい、必要と感じる自転車も変わることでしょう。タイヤの太さやギアの比率等が変わって来る…。

さらに、少し大袈裟な話になりますが、環境には国や時代も含まれます。
手にいれることの出来る自転車は、それらに少なからず影響を受けてしまう…。

フレームの素材ひとつとっても、この半世紀ばかりの間に、随分とその様相が変わりましたよね。鉄からアルミやチタン、そしてカーボン。その其々の質も時代とともに変わりました。

クロモリ一つとっても、手に入るパイプの質が低かった時代、どれだけ凄腕の職人さんが頑張っても作られる自転車の性能には限界があったことでしょう。熱を入れると硬く変質してしまうクロモリパイプなんかもあったそうですから。

「このビンテージ車、この年代の、この国の割には良く走る自転車だよね。ビルダーさんは頑張った。」
「確かに。でも、それだって昨今のメーカー品、下手すりゃ廉価なクロスバイクよりも『走る性能、変速する性能、止まる性能』においては低いけどね。」
といった会話がヒロセでも聞かれました。

国、時代によって素材やパーツ、加工の為の装置や道具などの入手性が変わってしまうことは、我が国においても、2020年からのコロナ、2022年からのロシアのウクライナ侵攻、金利差による為替の影響等で実感されている方も多いと思います。
(蛇足ですが、左翼メディア・政党のせいで、アメリカの収入は日本の2倍で羨ましいと思うべき、と信じ込まされている人もいらっしゃいますが、あちらでは食費、光熱費、家賃、医療費、治安の維持費等がそれ以上に値上がりしており、一部富裕層以外の生活は日本以上に困窮していたりします。自転車選択に限らず、一面的な見方に煽られ、自らの生活、環境を悪くする選択を下す様な愚かな過ちは、出来うる限り避けたいものです)。

戦争や経済の衰退による国の荒廃により、道路や水道や送電やネットといったインフラが現在のように機能しなくなってしまったら、作ることの出来る自転車も、入手できる自転車も、入手した自転車や走りやすい道などを維持、更新できるか否かも変わってしまう、というのは当たり前の話ですよね。
(これまた蛇足ですが、そういう時代にこそ、必要に駆られてか新たなメカニズムや運用等が考案されたりする事象もあったりするようです。下のライフルやマシンガンを搭載するようデザインされた1912年製と1914年製のイタリア陸軍歩兵用科自転車には悪路を走破する為のサスペンションや、背中に背負う為の折り畳みといった機構が組み込まれています。チェレステカラーの一台はビアンキ社製。)。

Fermo Galbiati, Nino Ciravegna  "LA BICICLETTA"   BE-MA Editrice
Fermo Galbiati, Nino Ciravegna  "LA BICICLETTA"   BE-MA Editrice



4 乗り手の変化

「2」の最後の方において「自分の夢を具現化したと思えるようなヒロセ車が実現し、それをオーダーした当時の装備、パーツのまま乗り続けられるのであれば、当面は幸せでしょう。」と記しました。

当面」と書いたその理由は、自転車において、もっとも重要なパーツである乗り手もまた、変化するものだからです(第38回からの「オーナーさんという最重要パーツについて」参照)」。

自転車の「乗り味」や「スタイル」といった個人の趣味趣向、つまり「好み」は変わることがあるものです。

例えば、平衡感覚や、スピード感覚という類の感覚は、体験を重ねることで、新たな領域が開拓されることがあります。
また、ハンドルまでの距離やサドルの高さなど、あれこれ試してみることで感覚が開拓されたりすることもあるかもしれません。

「脳のシナプスの繋ぎが変わるから。」といった難しい話は分かりませんが、誰しも味覚や音楽の好みなんかが変わることはありますよね。
子供のころ食べられなかったものを美味しく感じるようになったり、それまでちっとも良いと思わなかった音楽に、ある時、急に心を揺さぶられるような経験はどなたにもあるのでは無いでしょうか? 
逆に、痛い思いや酷い体験をすることで、動かそうとしても身体が動かなくなってしまうような事もある…。

なにも脳科学や心理学的な小難しい話を持ち出さずとも、単純に、成長や老化で体格はかわりますし、鍛え方、サボり方で筋力は変わります。これらも乗り手の変化と言えるでしょう。

上記は、半ば無意識的な領域での変化ですが、知識や経験によっても人は変わります。それまで知らなかったことを知ることで、同じ対象、事象に対する捉え方が変わったり…。例えば、仲間外れにならないよう、自分の感性をアジャストしたりするような事例はある…。それが本意、不本意かはさておき。
「好み」や「感性、センス」というものは決して強固で不偏なものでは無く、社会的規範や「周囲の常識」によっても変わることがありえるのです。

つまり、ある時点の自分の感性・感覚で、唯一無二の「究極の自転車」を創造しようとしても、それは決して普遍性を持つことが約束されているわけでは無いのですよね。個人の中でさえ。
世の中、評価が変わらぬものの方が稀。正義や真実でさえ、その都度変わる…。



5 変化を前提にした自転車との付き合い方

一台の「夢の自転車」「究極の一台」を探したい。作りたい。しかし、この思考法は、あまり現実的では無いのかもしれません。

その実現可能性を考えたり、作っている過程なんかはワクワク楽しいのだけれど、完成し、乗り始めた瞬間から劣化が始まりますし、様々な変化により、TPOが合わなくなることもある。

最高の仕立てのオーダースーツだって、着て行く場所によっては恐ろしく場違いになったりもするし、いただく「かき氷」や「坦々麺」への感謝量は気温湿度次第で変わるもの。溶けてしまったり、冷めてしまったらがっかりでさえある。

自転車にも旬があるし、人の感覚、感性は移ろいやすいということでしょうか…。

ではどうすれば? 
私たちはどう自転車を選んだり、付き合ったりするのが幸せなのでしょう?

わかりません。
その答えは人それぞれでしょうから、万人共通の正解なんてものは無いのでしょう。

ただ、スポーツ自転車に乗り始めたばかりの自分。
ヒロセさんにたどり着く前、生半可な知識と思い込みだけで「夢の自転車」的な視座に拘泥し、闇雲な自己流で右往左往。ひたすら失敗を重ねていた過去の自分自身にアドバイスできるとしたら、次のように言ってあげたいと思います。

「独りよがりに『究極の一台』を探すより、まずは自分と真摯に向き合ってくれるプロフェッショナルな自転車屋さんを探すと良いよ。」と。
その方が怪我も無駄な出費も少なく済むし、一人ではとうてい辿り着けないような理解、発見があって楽しいよ、と。

実際、私の遠回りはひどいものでした。過去(第28回他)においてもその一端は記しましたが、闇雲に雑誌を買っては、煽られ、振り回され、サドルやハンドルなんかを取っ替え引っ替え。
さらにはパーツを分解しては直せなくなったり、トルクを間違えてステムのボルトを捩じ切ったりネジ穴をバカにしたり、トライアルのトリックの猿真似しては怪我をしたり…。

私個人の体験はさて置いても、ヒロセの他のお客さんを鑑みるに、廣瀬さんの人生、ヒロセという店の変遷とあり方は、「夢の自転車」「究極の一台」というテーマ、自転車との賢い付き合い方において、幾つかのヒントを残してくれている気がします。


「点」と「線」と「面」

完成直後の新車を「夢の自転車」の実現、つまり「点」だと定義すると、ヒロセでは、「点」を実現したら、それでおしまい、という方が少なかったように感じます。

多くのオーナーさんが「点」に拘泥するのでは無く、長い時間軸の中で、それぞれの自転車ライフを、ヒロセという店と共に、廣瀬さんという職人を活かし、堪能されていた…。何年も、何十年も。一番長い方は半世紀以上も。

この理由の一つは、特に晩年の廣瀬さんに、圧倒的なキャパシティーがあったからでしょう。

人間が作り出し、多くの人、多くの時代が育ててきた娯楽、趣味というものは幅、奥行きがあるものです。自転車、サイクリングもその一つ。
そしてヒロセは、実に豊富な知識と、経験と、技術をもった、自転車屋さんでした。

過去に多くの人の「夢の自転車」話に耳を傾け、その実現と維持に加担してこられたということは、劣化や変化に対する対応力も高かったということなのだと思います。

例えば劣化を最小限にする手段や、乗り手の変化に車体を対応させ、満足を持続させるアイデアを豊富に持ち合わせておられた。

ポジションやパーツや装備の変更。
こぎ方やトレーニングの仕方やサイクリングコース選びのアドバイス。
たとえ専門設計故の不自由さが生じても、毎回、それを乗り越えるアイデアが出て来た…。側で見ていて、底知れぬ奥行きを感じたものです。

同じ車体に乗り続ける人は、廣瀬さんの助言で、乗り方や思考を変えることで新たな扉が開き、「点」が伸び、「線」になっていた。

また人によっては新たな車種のオーダーにおいて新たな夢を求めることもできた。

ヒロセでは、車体の定義さえままならないほど多種多様な、個性的なオーダー車たちと遭遇できました。
実際に具体例を目の当たりにすると、既成概念にとらわれず、自由に発想し、オーダーして良いと思え、夢は広がります。
どんどん新たな扉を開きたくなる。たくさんの「点」を求めたくなる(その実現には財力が必要ですが)。

お客さんによっては、「点」をいくつも設け、それを繋いだものが「線」を描いていた。

オーダー車の受け渡しという一つの「点」でお店とお客さんとの関係性が終わってしまうのでは無く、その後も持続する関係性の中で、オーナーの興味の移り変わりや、成長により「点」が「線」になっていく…。
「線」とは、そのオーナーさんと廣瀬さんの紡ぐ物語の軌跡と言えるでしょう。だから、これまでもヒロセでのオーダーのことを「変質の過程の物語」である、等と記したりしてきました。

「変質の過程の物語」のいくつかは、この連載の第46回から第48回にわたり、個別具体的にご紹介していますので、お読み頂ければと存じます(この3回は、当面無料のままで公開する予定です)。

そして、さまざまなオーナーさんたちとの「線」によって形成された「面」こそがそのお店の意味や価値と言えるのでは無いか…。私個人は、「お店」や「会社」なんかに対し、そんな見方をしています。


ヒロセ流自転車製作

ところで、そもそも廣瀬さんご自身は、ヒロセをどういう店であろうとされていたのでしょう?

当初、盟友の有吉さんと練ったのは「お客さんと一緒に成長する店」というコンセプトだったのではないか、ということを第40回で記しました。
オーナーさんと作り手がお互いに刺激し合い、共に成長していく感じ。

晩年のヒロセさんは「とにかく、まずは全ての希望を教えて下さい。」というスタンスでした。
共に成長するというより、全てを受け止め、柔軟に対応する横綱相撲的なスタンス。
もちろんお客さんから学びもするのですが、共に成長していく方向はかならずしも昔のヒロセのような、アスリート的な方向一つには限らない。お客さんが成長したいと思う方向に自らも合わせる…。そんな徹頭徹尾お客さん第一の自転車屋さん。

「そんなの当たり前じゃないか!」と思われるかもしれませんが、「自分の価値観や流儀を全く押し付けない。」「ひたすら忍耐強く、お客さんからの希望、提案を待つ。」「三つの事柄以外は、どんな希望、提案をも受けとめ、実現可能性を探る。」という方針を徹底する自転車屋さん、ビルダーさんというのは、案外珍しいのでは無いでしょうか? たとえ「オーダーメイド」を謳っているお店であっても。
実際、他所で断られ続けた人が最後の拠り所としてヒロセの敷居をまたぐというのは、よく聞く話でした。

三つの事柄というのは、お店が提供する自転車が「フルオーダーの鉄製自転車であること」「合法的で安全な自転車であること」「良く走る自転車であること」の三点です。

アルミ削り出しオリジナルLEDライト用キャリア工作

ヒロセでの自転車作りは、お客さんとの長い長い対話から始まりました。
それを通じ、お客さんの自転車に対する美意識や、その人の理想の自転車像など、その人の頭の中の「夢の自転車」を理解しようとされてた。
同時に、長時間の対話は、お客さんの体力や体癖を知るためのものでもありました。
このあたりのことは第38回にて詳しく記しています。

廣瀬さんの自転車の作り方は、オーナーさんを深く理解することで、その人の「夢の自転車」の完成図を頭の中に描き、必要な数値を計算ソフトに入力。導き出された数値でパイプを切削し、それを同じくソフトが導き出した数値通りに設定した正立型治具に配置し、実体化していく、というものでした。
サイズ以外の部分。例えば、剛性設計も「完成したオーダー車を操っているオーナーさんの姿」を頭に描き、その想像画の中のフレームのたわみ具合(応力、ストレスのベクトルや強さ)等からパイプの太さや厚み、ロウ付けのロウの量などを按配されていました。

イメージする力が大切。同時にイメージの裏付けとなる理論と観察力が求められる製作方法…。

適切な鞄やライトなどの配置、それを可能にするキャリアの設計等も、「完成車に乗り旅するオーナーの姿」を頭の中に描くことで、その設計に破綻が無いかを予見しようとされていた…。
「リアパニアがこの位置だと脚が当たってしまいよろしく無いかも。」「フロントバッグがこの位置だと重い荷物を積んだ時、車体が振られやすくて危険かも。この人は山越えが好きだし。」などなど。

つまるところ、ヒロセ車は、オーダーしたオーナーさん以外の乗り手を想定していない乗り物なんですね。中古品、転売品には限定的な価値しか無い商品(でもオーダーメイドって本来そういうものですよね?)。

この「完成車に乗ったオーナーという画像」を頭に描いて、それに向かって作るという部分が、ヒロセの自転車製作における最もオリジナルな部分だったのではないか…。そしてそれを可能にしていたのは、廣瀬さんの応力分析能力の凄さだったと私は考えています。

廣瀬さんには、乗り手の脚からペダル、クランク、フレーム、ホイール、地面に伝わる力のベクトルや強さが見えていた。撓みや歪みなんかのベクトルや量も。タイヤからリム、スポーク、フレーム、サドル、乗り手へと伝わる振動の強さなんかが見えていた…(第20回他参照)。

その能力ゆえに、単に芯が出た、「良く走る自転車」の実現というレベルに止まらず、そのオーナーさんにぴったりフィットした剛性感、「乗り味」の自転車を設計、具現化することが出来ていた。
私はそのように捉えています。


「我」の無い自転車屋さん

人は、そのジャンルに詳しかったり、自信があるほど「が、われ、自我」が出ることが多くなりがちです。
ついつい自分が良い、正しい、と思うものを勧めたくなってしまう…。

でも、趣味としての自転車は、レースの為の自転車より、もっとずっと幅が広く、奥行きもある。そして趣味や好みは他人が押し付けるようなものでは無い…。
多様なお客さんと出会う中で、その理解を深めていった廣瀬さんは、どんどん「我」を失くす方向に変わっていった…。

「それぞれで異なるお客さんの夢の形。それはお客さんの個性でもあるよね。それを、なるたけ、そのまま立体化してあげるのが僕、つまり自転車ビルダーのお仕事だと思う。だから、作り手に『我』なんて無い方が良いんだよ。僕なんて、お客さんの言うとおり、なんでも『はいはい』って従ってるだけだもん。」

半分おどけて話す廣瀬さんのこの言葉を聞くにあたり、私はそこから凄まじい自信を感じたものです。
「自分の価値観や主張なんて無い。」と言い切るってことは、「どんなオーダーに対しても、その狙いや意図を理解し、破綻が無いかの整合性を見極め、対応する知識と技術があるよ。」ってことですからね。

そして、実際、ヒロセさんの「引き出し」はものすごい数でした。

まるでヒロセさんがビンテージ専門のように喧伝する人に私が違和感や疑問を感じるのは、廣瀬さんのこういう側面を全く無視しているか、もしくは見ようとしないからです。

もっとも、ヒロセさんを雑誌や動画やネットで紹介、評論している方々のほとんどが、自ら(ヒロセを知る上で肝となる二台目はおろか一台も)ヒロセ車をオーダーしたことの無い人たちですから、どうしようも無いことだとは思いますが。


オーナーさんを共犯者に

「『我』の無い自転車屋さん」。これは「点」の話と何ら関係無いじゃないか、と思われてしまうかもしれませんが、私はそうとも言いきれないと思うのですよね。

ビルダーが「我」を主張しないことで、オーナー側はオーダーにおいて「自分で決めた」という充実感だけでなく、そのオーダー内容の責任も同時に負うことになるわけです。だって自分自身が言い出した希望なのですから。

もし後から自分の好みが変わってしまい、その自転車が「夢の自転車」では無くなってしまっても、その責任は自分自身にある…。

これが「この車種のフレームとパーツの組み合わせはこうあるべき。」「このパーツを使う事で、きっと仲間から通と評価されるよ。」「あなたの様な人はこういう車種が良いよ。こう言う自転車に乗るべき。」等と自らの思想や価値観を押し付けて下さる自転車屋さんの場合、そのいっ時は楽で良いかもしれませんが、後々、その自転車屋さんに恨み節を言いたくなってしまう局面があるかもしれません。
「お前の私に対する理解力の欠如のせいでちっとも自転車ライフが楽しく無い。言う通り高い金出して買ったのに損した気分じゃないか!」と。

つまり「我を滅す」という廣瀬さんの思想は、単にオーナーさんの為というわけでは無く「自分の価値観や正義を持たない売り手の方が、一人一人のお客さんと、より長くつきあえる可能性が高まるだろう。」というお考えもあったからなのでは無いか、と私は思うのです。
「お客さんとは心変わりするものである。自分に特定のスタイルや色が無ければ、その都度変わるお客さんを繋ぎとめておける可能性が高まる。」そういうしたたかな計算もあったのかな、と。

「ヒロセのオーダーメイドにおいて、お客さんは自転車製作の共犯であり主犯である。」

ヒロセでは多くのお客さんが「点」でお店との関係性を終わらせず、長続きしていた。その理由の一つが、この「共犯関係」という流儀にあったのではないか…。私はそう考えています。


多様な自転車屋さんの形

「夢の自転車」より先に、まずは自分にあった自転車屋さんを見つける事が先決かも…。そういった内容を綴ってきました。

でも、自転車屋さんを選ぶにあたって、必ずしもそこがヒロセさんのような、ハンドメイド車のビルダーさんである必要も無いのかな、と思います。

廣瀬さんもビルダーになる前はメーカー製のフレームにパーツをセレクトし、組み上げたものをオーダーメイド車として提供していました。

現代のパーツはその当時のものより格段に精度が良いし、フレームのメーカー数は勿論、ハンドルひとつとっても、その素材や種類やサイズは格段に豊富です。
なにもハンドメイド車で無くとも、当時のヒロセより質の高い、その人に合った完成車を手に入れることは論理的に十分可能だと思います。

また、選ぶお店が有名店、有名人である必要も無いと思います。ヒロセさんも創業当時は全くの無名でしたからね。

そして、経験の長さも必ずしも絶対条件とは言い切れない。
確かに晩年のヒロセさんの強みのひとつは、お客さんと相対してきた時間の長さ。その経験量、積み重ねでした。

でも、ヒロセさんも最初から経験が豊富だったわけではありません。だれでも初心者時代はありますし、若いからといって力量が無いということも無い。
創業前、アルバイト時代の廣瀬さんの自転車に関する知識や組み上げ技術は、すでに、廣瀬さんの師匠的存在だった鳥山新一氏(第49回参照)も認めるレベルのものだったようですからね。
もっとも、廣瀬さん、自転車屋さんで働く前に、恐ろしいほどの距離と時間、自転車に乗っておられたという強みはあったかとは思います。それも常に頭を使い、自ら様々な実験を重ねながら(第13回参照)。

同時にキャリアが長いことが必ずしも力量の証明にはなりません。

逆に、どれだけ高価な有名工房のオーダーメイド車であっても、それがハンドメイドであるということだけで、満足出来るものが仕上がってくる保証なんてありません。 
ユニークで、奇抜な、世界で一台だけのハンドメイドバイシクルを、「夢の自転車」として作って頂いても、それに乗って、ちっとも楽しくなかったり、良く走らなかったり、危険だったりしたら、高価な置物になりかねませんよね。
アホな散財をしてしまった自分自身が嫌いになり、自転車にすら乗らなくなってしまうかもしれません。

こんな仮定は全く意味ありませんが、晩年の廣瀬さん程の自転車と人体に対する知見があれば、市販メーカーのフレーム、フォーク、パーツを使い、それがよほど特殊な車種や装備でない限り、たいていのお客さんを満足させる自転車を組み上げることが出来たのではないでしょうか? 
自らがフレームとフォークから作るものには及ばないまでも。

さらに、PCに数値を打ち込むだけで3Dプリンターがフレームとフォークを作ってくれる時代になっても、優れたビルダーでいられたのでは無いか…。そんなふうに私は思います。

まずは、お店の担当者とお客さんとが互いに信頼関係をきずくことが大事なのかな、と思います。

体格や体力を無視し、吊るしをそのまま提供するだけのお店や、跨ってみることもできないネット通販は論外でしょう。
面と向かい、きちんと自分を診て、知ってくれた上で、相応しい自転車を選んで下さるお店が良いと思います。

まずは、あちこち、お店に足を運び、店員さんたちと、忌憚なく、様々な事柄について話してみることではないでしょうか…。
その店員さんが自転車について語る内容が正しいか否かの判断は、どなたにとってもなかなかに難しい課題だとは思いますが、話の内容より、その態度や姿勢に信頼、共感できれば今後もお付き合いできる店となりうるかもしれません。
もちろん、それ以前に、言葉や常識が通じることも大事。ここが異なると、後々、お互いに嫌な思いをしかねませんからね。

お店を決めると同時に、特定の個人を自分の担当者として定めることも大事かと思います。
複数人が携わる工房さんは、従業員のどなたが作るかによって出来上がりは変わるでしょうし、セレクト系のお店であっても、店長さんと従業員さんとで思想や哲学が異なる場合もあるでしょうからね。

実際、廣瀬さんが従業員として働いていた吉祥寺のお店のお客さんの多くが廣瀬さんを(密かに)自らの担当とされ、廣瀬さんが独立してからは吉祥寺では無く小平に通う様になりました。
彼らは「東京サイクルセンター」という箱では無く「廣瀬秀敬」という人を選んだわけです。

もっとも、こうした私の見解を、お店の経営者は嫌がるかもしれませんね…。

自転車屋さんで自らの担当店員を選ぶという作業は、自分の自転車ライフの楽しみ、豊かさを決定付ける重要事項だと私個人は思います。

流行り廃りや、また聞きの通説や、利益率だけで売る自転車を決めるお店では無く、自らの経験、探究から、構造的に、物理的に、合理的に自転車と買い手を解析、判断して自転車を売られている自転車屋さんが見つけられると楽しいですよ、と。

お店を探し、選ぶ作業に、自転車雑誌やネットを見て漠然と妄想を重ねる以上の時間を割く価値は、じゅうぶんあるかと。


上野継義氏が記された、鳥山新一氏に関する論文「わが国サイクリング史の一断面 〜鳥山新一のサイクリング哲学とその歴史的背景〜」の冒頭に、興味深い鳥山氏の言葉が載っています。以下、引用させて頂きます。

「サイクリングは本質的には『遊び』であるが、それを上手に利用し、生活を豊かにするいろいろな方面へ活用できるかどうかは、やる人の心がまえと能力の如何と言える。」鳥山新一

別に自転車に詳しいからって偉いわけでも何でもありません。ただ、「遊び」を本気で楽しむには、それなりの見識や努力も必要といったところでしょうか…。



6 作り手もまた変化するもの

さて、上の1から4の他に、もう一つ変化するものがあります。それは自転車屋さん(ビルダーさん)です。

ヒロセさん、創業当時は「素人はひっこんどれ」的な雰囲気があったようです。ひたすら走りを探求する求道者の集う場所といった趣のお店。

伊豆のトラック競技場を走る廣瀬さん(1970年8月)
上の写真の裏に記されていた撮影者のサイン

もし当時私がヒロセを訪れていたら、門前払いだったかも…。あるいは私の方が敬遠してたかもしれません。

自転車の提供者、作り手の価値観、能力もまた、時間の中で変化するもの。だから一層、お店の選択、作り手との出会いは難しいのですよね…。


「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」

晩年の廣瀬さんは自らの劣化を恐れ、日々それらと戦ってらっしゃいました。劣化とは、肉体的なものを指すこともあれば、探究心や感性の磨耗といった領域を指す場合もあったようです。
そして、そのことが、この連載のタイトルにも含まれています。

「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」という連載のタイトル。
これは、廣瀬さんと出会ってまだ間も無いころ、私がヒロセさんでオーダーするか否か悩んでいた時分に、廣瀬さんから伺ったフレーズの一部でした。

一義的には「オーダーメイドの自転車は、作り(選び)、組み上げる工房、職人の腕しだい。」というごくごく当たり前の意味でしたが、話の流れ的に、この「職人」の中に、廣瀬さんご自身のことも含まれたものでした。

「あなた(書き手である私)が僕に頼むか悩んでいるオーダー車だって、実際に出来上がってみないことには、良く走るか否かの確認のしようが無いんだよね。うちには決まったモデルや型番は無いし、毎回ゼロから作っているからね。それでも僕に頼んでみるかい?」
「ハンドメイドのオーダーメイドの自転車だからといって。また、僕が過去製作した自転車が良く走ったからといって、必ずしも、次作る自転車が良く走ることが保証されているってわけじゃないんだよ。」

これは後に知ったことなのですが、このフレーズの裏には、廣瀬さんご自身の体験も含まれていました。

自らがビルダーになる前、様々なお店で自分用の自転車をオーダーを経験した時の失敗例や、「東京サイクリングセンター」の店員として働いていた時分や、ヒロセ創業後、お店に持ち込まれる数々の「ちっとも良く走らない他社製、他工房製のオーダー車たち」の実例の数々も含まれていたのです。

ヒロセのフレーム(左)と海外メーカーのフレーム(右)のカットモデル比較

「なぜそれらオーダー車たちが良く走らなかったか?」という、廣瀬さんによる分析や解析は、この連載の前半の方でかなり具体的に記しておりますので、興味がおありな方は、お読み頂ければと存じます。
良く走らないのには、きちんと、それなりの理由があるのですよね。


廣瀬さんが感じていた恐れとそれへの対処

廣瀬さんは、自らの劣化により、ご自身が時代について行けなくなることを恐れていました。
「時代について行けない」という表現は少し曖昧ですね…。

「自分の子供より若い世代のお客さんにとって、自分の作る自転車が時代遅れになってはしまわないか。新しいパーツや道具と対話出来なく(構造や意味を理解出来なく)なりはしないか。」といったことを恐れていました。
お客様の期待を受け続けること。期待を実現し続けることが出来なくなることを恐れていた…。

歳を取れば誰でも視力は落ちるし、筋力も落ちます。これらはマイナス点。
一方、経験が増え、技術が向上する場合もある。これらはプラス点。
廣瀬さん、双方の足し算がプラスであることを目指されていました。とても冷静に。

こうした発想が出来るか否かは、天才型か努力型か、理想主義者か合理的な現実主義者かでも変わるものかもしれませんね。

前者は自らを客観的に分析、定義することが出来ない分、感覚や体力が落ちて、昨日出来たことが出来なくなってくると絶望してしまいがち。
廣瀬さんは努力型であり、かつ、徹底してリアリストだったように思います。

廣瀬さんは、天才型でない分、自分の自転車が良く走る(あるいは良く走らない)理由を、頭で、理屈で理解しようと努力することができた。

「才能」という言葉に逃げ、思考停止になるようなことがなかった。
「僕は才能が無いからダメだ。」と絶望もしなければ、「僕は天才だ。」と驕り、探求をサボることも無かった。

廣瀬さん、自らのロウ付け技術や、切削加工技術が、決して技術コンクールで優勝するようなレベルのものでは無いと自覚されていました。

と同時にコンクールで評価対象になるような技量が自転車製作において、必ずしも最優先のテクネとも思われてなかった。

見てくれが綺麗なロウ付けの練習や、見事なカーブを実現する為のヤスリ掛けといった職人芸的能力を伸ばすことに時間を使わなかった。
自転車の走行性能を落とすようなラグ成形やロウ削りなんかもされなかった(第12回他参照)。
最終目標である「良く走る自転車」を安定して提供する為に時間を使うことが優先されていた。

廣瀬さんは、職人技的なものに拘泥しない分、より広い視野から研究・実験を繰り返すことが出来、冷酷に技法や設計を見直し、「良く走る自転車」に必要な精度等を得る為の製法を磨き続けられた。

熟練した職人だけが持つ高度な技、腕に頼らなくとも、安定した結果が得られる、再現性のある製法を、一歩一歩着実に構築、煮詰めることができた。

晩年になればなるほど、ヒロセの治具の精度は上がり、製作システムは合理化されていた(その為の治具の創作、刷新等は、第46回第49回で、その一端をご紹介していますのでよろしければご覧下さい)。
そして、このことにより「劣化」への「恐れ」をも克服されていたのだろう、と私は捉えています。

廣瀬さんが構築した製法を辿ることで、私のような初心者でさえ、芯の出た、良く走ってくれる自転車を作ることができました。初めて作った自転車であるにもかかわらず、です。
何より、このことが、ヒロセの製法の確かさ、素晴らしさを証明していると私は思います(第9回第19回参照)。

上が私が初めて作った一台の画像です。
一部設計は廣瀬さんに手伝って頂きましたが、切削加工から、治具への設置、ロウ付け、組み上げまで、全ての工程において実際に手を動かしたのは私です。

この一台を作っている過程の様子は、下の動画の8分30あたりからご覧頂けます。

https://youtu.be/fecDB-uaXY0?si=FglKFZFSQzSkKHfq&t=508

完成後の細部については、下の動画の冒頭にて取り上げています。

https://youtu.be/iH_sUZftBsI?si=tYqtztd_vJbQ9RpW


廣瀬さんが設計から完成まで、他人をきちんと理詰めで指導したのはこれが初めてのことだったそうです。私がいちいち、しつこく質問責めにした結果です(私と並行するように、もうお一方、ヒロセの工房を使い、奇天烈なミニベロを作ろうとされている方がいらっしゃいましたが、彼は廣瀬さんから学ぶ必要を感じてはおられなかったようで、「まともな質問も相談も無く、ただただ自分の勝手な方法で作ろうとするばかりだったよ。」とのことでした)。

廣瀬さん、私との体験から、工房にて「素人さん向けの自転車製作教室」を開きたいという希望を持たれる様になりました。私とは、その為のカリキュラムを一緒に作る約束まで交わしていました。
しかし、この計画は、廣瀬さんのご病気やコロナ禍のせいで延期され、そのまま頓挫してしまいました。

上でも少し言及しましたが、廣瀬さん、デザイン的なもの。個人の好み、趣味によるとしか言えない領域に関しては、共犯者であるお客さんに丸投げてしまうことが合理的と考えられていました。

このデザインや、このパーツの組み合わせこそが、正しい、オシャレ、カッコイイ、いけてる、ナウい、といった評価は、個人の価値観、感想であり、本人意外に正解は出せない。故に作り手が探求するような領域では無い、と。

お客様に委ねてしまう。
そうすれば「僕には皆に共感される感性が無いからダメだ。」と絶望することも無いし、逆に「感性」という言葉に逃げこみ、そこで誤魔化したり、思考停止になるようなことも無い。
「俺様の感性に付いてこれないやつに買ってもらわなくても結構」等と驕り高ぶるようなことは無いわけです。

かように走行性能に悪影響の無い範囲で、デザイン、意匠といった領域をお客さんに委ねていたからこそ、ヒロセ車は「紋切り型」でも「奇抜」でも無く、多彩で個性的だった、と私は解釈しています。

もっとも、お客さんの趣味嗜好、その方向性をきちんと理解し自転車に落とし込むには、それなりの流行に対する見識なんかも必要なように思われます。
廣瀬さんはどうされていたのでしょう?

廣瀬さんと世間との接点は、お客さんとの雑談かテレビ程度でした。最新の自転車やファッション雑誌を読んだり、若者の街で人間観察するようなことはされてませんでした。

廣瀬さん、そういった時代についていくような努力では無く、偏見を持たないようにする努力で、時代に取り残されない様にされていた、と私はお見受けしました。

例えば、そのアウトサイダー的な思考・嗜好から、あえて破れたジーパンを履いている若者を見て「草臥れてる。見窄らしい。貧乏。」と評価してしまうビルダーと、共感は出来ないまでも、「本人はこの様をオシャレと思っているのだ。」と冷静に、時代的、社会学的考察が出来るビルダーとでは、後者の方が、その若者の「夢の自転車」を実現できる可能性は高い、と私は思います。

痘痕も靨。蓼食う虫も好き好き。人それぞれに趣味は異なる。
作り手としては、全ての趣味を網羅的に理解するのは大変だけど、偏見さえ持たないでいることが出来れば、誰に対しても、どんな趣味嗜好に対しても平等に、フラットに応対できるし、結果的にオーダーは増えるだろう…。
そういうスタンスだったように感じます。

時代によって、その自転車、工作の相対的評価は、より厳しく変わっていくものです。

廣瀬さんは、そのことを自覚され、高度な製造機械やコンピューターシステムから生産される近代の工業製品自転車に負けないよう、例えば年々フレームの芯の精度を高め、自作変速機の変速段数を増やし、構造を進化させていた…。

こうした弛まぬ努力がその時々のヒロセ車の価値を裏付けていました。

並行して、人間理解を深める努力も怠らなかった。人間工学的(西洋医学的)理解においても、整体的(東洋医学的)理解においても、心理学的な方面においても。
何よりそこがヒロセ車を作る上での土台であり、基準だから、と。

だからこそ1980年代のヒロセ車より、作り手の肉体は劣化したけど、経験を積み、治具の精度も上がり、人間理解も深まった2010年のヒロセ車の方が「良く走る自転車」になっていた、と私は確信しています。

時代、社会、環境、お客さん、さらに自分自身は、絶えず移り変わるが故に、ヒロセ流オーダー車実現の為の探求に終わりはありません。
廣瀬さん流の自転車ビルダーというのは、これさえ出来れば卒業という類のお仕事では無いのですよね。

ある時分のヒロセさんの技術の一部を真似できたから、それでもう、廣瀬さんと似た性能のオーダー車が作れると思われている技術者や、その取り巻きのような方々がいらっしゃったとしたら、それは大いなる勘違いであろう、と私は思います。


変わるもの 変わらないもの

ヒロセ車のオーナーさんは全国にいらっしゃいました。数年に一回程度しか工房に来ることが出来ない方もいらっしゃった。

でも、何十年ぶりであろうと、小平の大沼町の工房に行けば、そこに、相変わらず真摯に自転車を作っている廣瀬さんの姿を見つけることができた…。

外から中が丸見えの工房。
隠さず、開けっぴろげな作業に没頭する廣瀬さんの姿。
これはどんな雑誌も、HPも敵わない、最強の広告だったように思います。

工房の隣のショップには、仕上がったばかりのオーダー車やメンテ中の車体たちが並ぶ…。
それらは常に入れ替わり、様変わりし、廣瀬さんのキャパシティーの広さを物語っていました。

工房の方も、よくよく見てみると、治具や、装備が年々更新されていた…。

厚みの異なる鉄のパイプを、その都度自由な長さに切断し、組み合わせ、ロウ付けの量を加減して作れる鉄製ハンドメイド車は、その設計や加工の自由さ故に、現時点においては、カーボン車に比べ、作り手に能力があれば、多くのサイクリストの希望に応えやすいプロダクトであると言えましょう。
デザイン的な意味においても「乗り味」的意味においても。

また、小物やパーツの配置、キャリアの固定方等、既製のフレームより、細かな要望に対して融通が効く点も、これまで様々なヒロセ車紹介を通し、具体的に示してきた通りです。

廣瀬さんは既成概念、あるいは過去の自分に囚われず、年々、自らの技法、作風を広げていかれた…。
その変化の過程を見て、理解、心酔した多くのお客さんたちがヒロセに通い、その時々の自分が望む自転車たちを自由に発想し、発注し続けたことでヒロセは存続し続けられた…。

変わらないところと変わり続けるところ。両方あったからこそ、ヒロセ車のオーナーさんたちは、飽きることなく、長い間、ヒロセで自転車ライフを楽しむことが出来ていたのかな、と私は考えています。



7 今回のまとめ

「『まずは自転車屋さんを探すと良いよ』、というお前さんの主張は理解した。では、例えば、ヒロセのような鉄製ハンドメイドのオーダー車が欲しい人は、具体的に、どのお店の何方にお願いするのが良いとお前は考えているのだ? ヒロセが無くなってしまった今…。」

これも私にはわかりません。

私と廣瀬さんとの物語は、特定の年代の廣瀬さんという個性と、特定の年代の私という個性であったから成立したものにすぎません。たまたま、偶然の産物です。
どちらかが違う年代でも合わなかったかもしれませんし、私と全く同じような出会い方をしても、うまくはまらない方もいらっしゃることでしょう。

そもそも人の運、縁を予見、アドバイス出来るような能力など、私は持ち合わせておりません。

それに、私はヒロセ以外の工房、ビルダーさんについては、全くの素人、無知ですしね…。
せいぜいヒロセのお客さんの私物車数台に乗ったことがある程度で、自ら発注したことも無ければ、直接取材さえしたことさえ無いのです。

ただ、何かを「探す」「求める」、ということについて、思い出す廣瀬さんとの会話があります。
具体的な文言は忘れましたが、それは下記のような内容でした。

「あなた(筆者)が初めてうち(ヒロセ)に、自分のスポーツ車で来た時のことを、今でもよく覚えているよ。
あなたはその自転車に満足しきっていなかった。そしてポジションや自分の漕ぎ方にも疑問を持ち、悩み、正しい答えを探していた。
関連して、自転車のジオメトリやパーツの構造なんかについても、もっと深く知りたいと思っていて、自分でもあれこれ調べているようだった。
雑誌やネット情報に頼る稚拙な調べ方だったし、間違った知識や認識も多々あった。
でも、知ったかぶりはせず、その時点でのあなた自身の理解をきちんと言葉にして僕に伝え、さらに僕の話を真正面から聞き、理解しようとしていると感じた。だからこちらも真剣に、真正面から応対しようと思ったんだよ。」

私自身としては、当時の私は単に優柔不断でモラトリアムなだけだったような気もいたしますが…(汗)。廣瀬さんの記憶が改変されたのかもしれませんが、まあ、自分では気づいていない自分というものもありますからね…。

下の画像は以前もご紹介した、1973年1月号のニューサイクリングに掲載されたヒロセの広告です。

海外の方のため、下にテキスト化します。

あなたが疑問を持ち続ける限りヒロセはいつでもあなたのお役に立てるのです。

自転車が生まれてどれだけの年月がたっているでしょうか。
あなたがサイクリングを始めて何点たっているでしょうか。
あなたが自転車に関心を持って何年たっているでしょうか。
もしあなたが自転車に関して疑問を持ち続けるならば
その知識は現代にマッチしてゆくのです。

1973年1月号のニューサイクリング


廣瀬さん、自転車の提供の仕方や、作る自転車の種類や、お客さんへの応対の仕方に関しては、ずいぶんと様変わりされましたが、「疑問を持った人に応えられる店でありたい。」という部分だけは、ずっと変わらなかったように感じます。

そして客側の立場から考えるならば(5の最後で記した内容と少々ダブりますが)「あきらめずに探し続けない限り、求める対象は見つからないし、手にも入らない。物であれ、知識であれ、技術であれ、楽しみや喜びであれ…。」ということは言えるのだろうと思います。



******



連載全体のまとめ

今日は2024年3月25日の月曜日。一週間後はヒロセのお誕生日です。
54年前の4月1日、サイクルストアー・ヒロセは創業しました。
そこから50年もの間、廣瀬さんは、オーダーメイドの自転車を提供し続けました(第13回49回参照)。

この連載も今回でちょうど50回目。
最初に概要を書いてから3年以上が経ちました。

この連載、当初はこれほど長く続けるつもりではありませんでした。
ただ、日々、私を診て、知った廣瀬さんが、私だけの為に作って下さったヒロセ車で散歩してると「あのことも書いたら良いんじゃない?」とか「せっかくだからあっちの話も記しておこうよ?」と、(ソロ車に乗っているのにも関わらず)タンデムの後ろの席から廣瀬さんが呼びかけて来るような感じがあり、ちっとも終わらせられることができなかった、というのが正直な所です。

連載期間は、2010年ごろから書き殴ったままのメモや、撮り溜めたまま積み上がっていた映像資料を改めて精査する時間となり、昔の自分が廣瀬さんから教わったことを自ら追体験、再解釈し、レポートを提出しているような… あたかも学校に通っているような感覚がありました。
日々集中して文章を書くことも久方ぶりでしたから、どこかリハビリをしているような感じも。

連載が後半に行けば行くほど文字数が増えていくところなど、素人丸出し。私の適当さ、計画性の無さが現れてしまっていますが、「note」は締め切りや文字制限のある場所ではありませんし、途中からは「回を重ねるほどに内容が薄くなる連載よりは良いではないか!」と開き直っていました。

また、今は、下手をすると、すべての創作物がAIの肥やしになるような時代ですが、それならそれで、それもある種の貢献である、という捉え方もできましょうし、裏付けのある体験情報の流通は、間違った風説の流布の防止になるかとも思い、文字数から内容まで、制約を設けず、書きたいように書いてきました。

もちろん廣瀬さんの言説そのものや、私の聞き取り、理解には、間違い、勘違いもあるでしょうから、どうか内容の全てを鵜呑みにはせず、大切と思われることほど、きちんとご自身で検証して頂きたいと存じます。

noteのみならず、YouTubeやXにおいて、私の創作物や紹介物に「いいね」を押してくださった方々には大いに勇気づけられました。
いくら廣瀬さんとの約束が故に、趣味で書いているものとは言え、まったくの無反応だと萎えますからね。

そして、有料記事を購入して下さったり、noteにおける「クリエイターを応援」やYouTubeにおける「Thanks」機能で金銭的な援助を下さった方々には心からお礼を申し上げます。
文筆家でも、自転車の専門家でも、研究者でも無い私に対しての評価は、光栄ですし、実にはげみになり、助けられました。

この連載、さらにはYouTubeなど、私の作るヒロセ関連HP、「廣瀬秀敬自転車資料館(旧C.S.HIROSE博物館)」の一番の目的、狙いは、廣瀬さんという自転車ビルダーのお仕事を、一人でも多くの方に知って頂くことでした。

ご覧下さった皆様の記憶に、ヒロセさんの作った自転車たちと、そこに込められた廣瀬さんの意思や意図(哲学や思想)が多少なりとも残ってくれるようであれば、これまで頑張って作り続けて来た甲斐があると言うものです。

そして、もし、連載や動画等をご覧頂くことで、鉄製のオーダーメイド車に興味を持たれ、ヒロセさんのようなハンドメイドバイシクルの自転車屋さんを目指そうと志して頂く方が出てきて下さったならば、そんな嬉しく、有難いことはありません。


2024年3月25日
廣瀬秀敬自転車資料館 製作者



*******



今後の方針

以上で「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」の連載は終わりです。お読み頂き、ありがとうございました。

以下、ヒロセにまつわる今後の私の活動について、note、YouTube、Xそれぞれのメディア毎に、現時点で方針を記させて頂きます。


***


note

今回で終了した「オーダー車だから良く走る自転車とは限らないんだよ。」についてですが、当面の間は、消さずに、この場で、このまま公開を続ける予定です。
なお、シリーズまとめての値付けは行わないと思います。すでに個別回を購入して下さった方々に対し、申し訳ないですから。
また、マガジン化(「note」における公開形式)もしないと思います。これ以上、他の連載を執筆しないのであれば、する意味がありませんからね。

支払いがいちいち個別で、ご面倒な設定かもしれませんが、それなりの回数、ヒロセに通うことによってのみ得られる情報が記されているとは存じます。
ヒロセに見学に通った場合の交通費や、おしゃべり時に店の自動販売機で買う缶ジュース代とでも思ってお支払い頂ければと存じます。

ただ、廣瀬さんのことを全くご存知無い方々に、ヒロセさんのお仕事を知って頂く為に、無料のままの回も、いくつかは残すつもりでおります。

これまで記したものに対し、お断りなく、加筆したり、新たな映像を加えたりすることはあるかもしれません。
また、明らかに間違った記述等を発見したら、そこは(これまで通り)しれっと修正させて頂きます。

概要回や、ハンドメイドバイシクル展の回他で、「いずれ、ヒロセの製作技法に関するものも書ければ」と記してきました。
「廣瀬自転車教室」「廣瀬流自転車製作」といったタイトルの文章を。

しかし、改めて冷静に考えてみれば、連載を始めた当時と今とでは、あまりに環境が変わってしまっています。

書き始めたころは、まだ小平の大沼町に廣瀬さんの道具や治具が健在で、それらを、自転車教室文章用に、改めて撮影、精査することが可能な状況でした。

しかし、今や工房はすっかり解体され、治具や道具は根こそぎ持ち去られてしまいました。
工房の上に住まわれていたご遺族も他所に移住されました。

つまり技術的な文章をお伝えするにあたって必要なジグの採寸や、構造や仕組みを新撮映像でお知らせするといったことが不可能になってしまったのですね。

治具や工具がすっかり持ち去られてしまった工房

治具や工具といったものは、廣瀬さんが設計・意図した通りに設置されていなければきちんと機能しません。
たとえどこかに保管されていたとしても、それを撮影するだけでは、その意味や意図は伝わらない。

ですから、まずは、実質的な問題として「自転車教室編」の記述は難しくなりました。

外された万力の跡

また、これまでの登録者数や記事の購入数を鑑みても「自転車教室編」に対し、さほどのニーズがあるとは正直思えません。

私は資本主義社会での物事のニーズの評価は、売上高(noteで言えば記事の売り上げや「記事をサポート」の額)が多くを物語ると思っています。
売り上げが低いものは単純に価値が低い。
この連載も「無料だから読んでやったけど、読んだ後から金払うほどの内容じゃ無いわな。」ということだと理解しています(最近、ここを知って頂いた方はご存知無いかもしれませんが、この連載、公開からかなりの期間、全編無料で公開していましたし、公開当初から有料だった回もありません)。

これは愚痴ではありません。
そもそもがニッチで私的な内容ですし、儲けを期待して書いて来たものでありませんから、売り上げ額が低いことに関しては全く構わないのです。
どれだけマスコミがエコを煽ろうとも、本やCDのような形があるわけでは無いソフト製作の労力に対価を支払うことに抵抗のある人がまだまだ多いことは十分予期もしていましたしね。
もっとも、断りや出展の明示無しに、人の創作物を盗用、引用するというのは如何なものかと呆れますし、全く存じ上げない方のHPで私の撮影したものや作成した曲に遭遇するたび、吃驚もしますが…。

オーダー車やハンドメイド車に関心のある方の数に比べ、自分の手でキャリアや鉄製自転車を作ってやろうと考える人の数はあからさまに少ないことでしょう。
さらに、その中で、何ら権威も看板も無い者(=私)の「授業的」「技法指導的」文章に興味を持ち、記事を購入して下さる奇特な方がどれだけいらっしゃるか、甚だ疑問…。
ですから「自転車教室編」「廣瀬流自転車製作編」の執筆は今のところ予定しておりません。

この連載では、廣瀬さんの設計思想や哲学を中心に記してきました。
どういうバックグラウンドの人物が、何の為に、どういう心持ちで、何を楽しみに作るか、といったことはビルダーを目指す方の道標としても、それなりに意味があると思ったので。
他方、具体的な技法というのは、個人個人が各々が持ちうる環境の中で鍛錬と失敗を重ねながら会得するものなのだと思います。
誰からも自転車製作を教わったことの無い廣瀬さんはそうされていましたし、ヒロセさんのたどり着いた技法が必ずしも唯一の正解ということも無い…。
なので、今後、そのニーズを強く実感できる様な事態があれば再考するやもしれませんが、現状、なにも私ごときが具体的な技術、技法について記述することも無いのかな、と考えているしだいです。

さらに言えば、正直、三年にわたり、このnoteを書き続けてきて、私もいささか草臥れました。

ロードレースに例えるなら、毎日廣瀬さんに後ろからピタッとつけられているような圧迫感も感じていました。同じチームではあるのですが、私はエースの廣瀬さんを守る風除け役のような感じで…。
「上の方ではタンデムで二人三脚的なことを言っていたじゃ無いか!」と怒られてしまいそうですが、どんなにやりがい等を感じることだって、辛さや苦しさや倦怠なんかはあるものですから…。

とにかくゴール後の今はバテバテ。
今は「この連載の終了をもって、ヒロセの仕事をネットを通じて世間に伝えるという廣瀬さんとの約束は果たせたよね。」という達成感があります。

上の画像は私のevernoteに保存されたヒロセ取材メモの項目と数です。この連載は基本、これらのメモを編集、まとめたものです。
このうち「作り方、設計、こつ」以外、ほぼ重要なお話はこの連載で網羅できたように思います。
私の残りの人生も限られていますし、「廣瀬秀敬自転車資料館」に関しては、これでひと段落としようかな…、と。

ただ、この最終回を作成中、「私個人の『点』が、廣瀬さんによって、どう『線』になっていったか。」というお話や、「何故私が、ヒロセさんの作業を手伝わせて頂いている最中、廣瀬さんから、幾度か、そう促されたにも関わらず、ビルダーを目指そうとは思えなかったか。」といった内容の文章も記したのですが、実際にそれらを挟むと、あまりに長くなり過ぎてしまいましたし、手前味噌と捉えられかねない個人的な内容を混ぜると焦点がぼやけてしまうと感じ、外したのですが、いずれ、この部分だけを推敲し直し、連載全体の「あとがき」のような形でご紹介できれば、とも思っています。
いつになるかはお約束できませんが、何も変わり無ければ、次回の廣瀬さんのご命日(8月30日)までには。


YouTube動画

新規登録者も増えなくなりましたし、再生回数も落ちてきました。「Thanks」も僅かばかり。

とはいえ、カーボン車全盛の今でも、鉄製の自転車を作ってみたいという方々には、いまだに、それなりに参考になる映像素材だと思いますので、しばらくの間、私が元気なうちは、消さずに公開を続けたいと思っています。
視聴して下さっている方々の中には、自転車学校や工業高校が無いような国の方や、すでに鉄製自転車のノウハウが失われてしまった国の視聴者もいらっしゃるようですから。

何も、ナレーションやテロップによる詳しい説明や、「自転車教室編」のような文字による補助など無くとも、見る側に想像力さえあれば、映像だけでも十分に物語ってくれている、と思います。
例えば、ロウ付け作業における火を当てる距離、角度、時間などなど。

また、動画から学ばれたい方は、御自身の作業姿をスマホで撮影してみるというのも一興かと存じます。
廣瀬さんの姿勢と比べるだけで無く、ヒロセのタイムトライアルのように(第13回参照)、過去の自分の姿と比較してみると、無駄な動きを発見できたり、御自身の上達にも気付けると思うのですよね。
自転車のライディング同様、日々頭を使って練習を続けていれば、いずれ、その人なりの合理的な仕草やフォームが自然と身に付くもの。廣瀬さん、私に何の工程を任せるかの判断は、作業する私の姿、動作からも判断されていたそうですよ。

ただ、チャンネルを維持するのが苦しくなったり、嫌がらせなどで管理が負担と感じるような事柄があれば、さくっとチャンネルごと消させて頂きます(その時はnoteに貼ったリンクも無効になってしまいますが…)。

https://www.youtube.com/user/hiroseMuseum/


X(旧ツイッター)

今日現在、「Hirose’s bicycle photo collection」シリーズは第235回の公開を数えていますが、まだ公開していない手持ちのヒロセ画像を全て紹介し終わるまでは続けたいと思っています。

また、全て紹介し終わった後も、何かあった場合の告知用として、アカウントは残しておこうと思っています。

https://twitter.com/HiroseMuseum


***


以上、現時点での率直な考えを記させて頂きました。
至らない点も多々あるかとは存じますが、基本、「個人の趣味」で続けてきたことです。「趣味」だったからこそ、ここまで費用対効果を無視し、遊べたわけでもあります。どうぞ悪しからず。



最後に

最後に、お二人の方に感謝の意を表し、締めたいと思います。

御一人目は、廣瀬さんの奥様、廣瀬洋子氏。
廣瀬さんが保管されていた貴重な資料や写真の一部と、廣瀬さん私物のノートPCを私に委ねて下さいました。
また、有吉氏と廣瀬さんとのご関係や、廣瀬さんが亡くなられてからの諸々の出来事や心境など、忌憚の無いお話を伺わせて頂けました。


もう御一方はYさん。
Yさんは、展示会において、ビルダーさんたちのを見比べ、どなたが紛うことなき職人であることを見抜く、そんな聡明なひと。
Yさんの存在が無ければ、引き篭もりでオタク気質の私がヒロセの敷居を跨げることなど無かったでしょう。
また、このように文章を書くこと自体、Yさんからの影響、刺激があったからこそのように思っています。
第43回でご紹介した、東洋医学の暗喩小説を書いた時も背中を押して頂きましたし、お貸し頂いた他ジャンルの職人さんたちの本も、連載を記す上で参考、勉強になりました(本1本2)。
お陰様で、放送局のディレクター時代と比べ、少しは人様のお役に立てるような、意味のある取材、アウトプットが出来たような気になれました。

ありがとうございました。


YouTube動画も含めた私のヒロセへの取材とアウトプットに対し、ご評価を頂ければとても有り難いです。どうぞ、よろしくお願い致します。(廣瀬秀敬自転車資料館 制作者)