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言葉のインスタ映え。


写真は現実を描写しない、と初めて知ったのは19歳の北海道旅行のときだった。

パンフレットの表紙に載っていた札幌の時計台。僕はイメージをふくらませていた。緑色の草原のなかで、白い木造の建物がみえる。鐘の音がきこえる。ひげをはやしたお爺さんがベンチに腰掛けて、足元では小さな女の子が幸せのクローバーを探している。雲の隙間から光がさしこんでいて、大地がそこだけ眩しく輝いている。

探しても探しても時計台がない。

僕は札幌駅で入手したパンフレットをもとに、大通りのあたり、十字路のあたりを懸命に歩き回る。ビルディングしか見えない。草原がどこにもない。地図上で、時計台がある、と思われるポイントに立っているけど、どこにも見えない。

顔を上げて、時計が視界に入るけど、まさかこんな時計のはずがないと、さらに探し回る。看板を見つけて読むと「ここが時計台です」と表記されていた。

僕は驚きながらパンフレットと見比べて笑いだす。たしかに写真は嘘ではなかった。このアングルで、望遠で、周囲のビルが入らないようにして、木を重ねれば、たしかに同じように見える。

写真は嘘ではなかった。でも腑に落ちかなかったのは、誠実じゃない、と思ったからだ。


***

当時は十代だったから納得がいかなかったけれど、今ならわかる。表現というのはすべからく製作者の意図が入り、現実をそのままには描写しない。それは編集とか加工とかよばれる。そもそも写真は四角い枠という限定があるから、そこに入らないものは映らない。映画もそう。そして、きっと文章もそう。

文章が上手なら、現実を加工して読者を感動させることができる。不要な項目を削除して、あるポイントを抽出拡大し、色付けする。順序をいれかえ、表現を変更し、印象を最大化する。

そもそも言葉という枠があるから、世界をありのままには描写できない。

きれいな写真の列挙のように、きれいな文章を羅列させることもできる。そうなってくると、あとは作者が誠実であるかどうかが重要な気がする。

誠実じゃなくても人を感動させれば良い、という考えもある。誠実にこだわりすぎて何も書けなくなる、ということもある。文章ぐらい好きにいさせて、ということもある。

いずれにしても確かなことは、言葉の向こう側にほんとうの世界がある、ということ。

僕はあたまだけで考える癖があるから、あらためて肝に命じる。今日は書を捨てて街に出ます。



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