【ワンス・アポンアタイム・イン・オニガシマ】 #眠れない夜に
2年前に書いた小説のリライトです。「なんのために書くのか?」という問いがあります。「楽しければいいじゃない」という考えもあったけれど、気がついたら2年が経過していました。僕は進んでいるのか? 違う地点に到達できるのか? 「鬼退治を終えたあとの桃太郎」というテイで、僕は僕の問題を語ろうとしていたのかもしれない。いずれにせよ、僕をひきつける物語には、僕自身が含まれている。1万字あるので、眠れない夜にもどうぞ。
めでたし、めでたし、で終わると思っていた。
桃太郎は苦心惨憺のすえに鬼を退治し、村を見下ろす峠に帰ってきた。
喜び勇んで「おじいさんとおばあさんに会ったら、なんて言おうか? 金銀財宝を見たら、さぞかし嬉しがるだろうな!」と興奮した彼が見たのは、
絶望だった。
村への細い道のりを、鬼が100体も歩いていたのだ。イヌ、サル、キジを従えて、やっとの思いで成敗した鬼。それが100体。
「逃げよう」と真っ先に言ったのは、頭のかしこいイヌだった。
「どう考えたって、かなうわけがない。おれたちは、はめられた。鬼が島はダミーだったんだ」
単細胞のサルは、顔を真っ赤にして叫んだ。「全身の血潮の、最後の一滴まで、余すところなく鬼にくれてやろうぞ!」
今にも走り出さんとするサルを静止したのは、美少年のキジだ。「落ち着け、早まるな。頭に血がのぼったほうが負けだ。戦も、恋愛も」
「村にいる、おまえの恋人も、ただではすまんぞ!」とサルが叫び返した。
「恋人は、またつくるさ。世界の半分は女だ」とキジは上空を八の字に旋回している。
「ありとあらゆる性病にかかっちまえ! おまえのその冷めた心で、鬼も震えあがるわ!」
サルが両手を突き上げてキジに飛びかかろうとしたとき、桃太郎が何かをつぶやいた。
よく聞きとれなかったので、イヌが近寄り、「兄貴、もう一回、お願いします」と嘆願した。
「プランEだ」と桃太郎は震えながら言った。「村ごと爆破する」
*
戦を始める前には、必ず作戦を立てる。
すべてが順調にいくのがプランA。現代に伝わる桃太郎はこのプランAだ。
プランBは仲間の誰かの負傷、または死亡の場合。事前に互いの同意のもと、遺体は放置する取り決めになっている。鬼を退治さえできれば良しとする作戦。
プランCは仲間の半数の死傷。つまり作戦自体が続行できない場合だ。即刻中止し、撤退戦に移る。
プランEは、あってはならない、最悪の事態を想定したシナリオ。桃太郎チームが全滅、そして逆上した鬼が村を襲ってくるケースだ。
今回がまさにプランEだった。大量の鬼が襲撃してくる――。
「納屋に隠した『桃』のなかに、300貫のTNT爆弾をしかけてある」と桃太郎は静かにつづけた。決意のこもった口調だが、少しだけ涙ぐんでいた。
「その『桃』を爆発させる。爆風は一里四方をなぎ倒すだろう。村ごと、鬼を成敗する。死なばもろとも! すべてを犠牲にしても、鬼を倒す!」
「兄貴、泣くのはあとだ」とイヌが冷静にさとした。
桃太郎は『きびだんご』を包んでいる笹の皮で、涙をぬぐった。
深呼吸を3回してから、立ち上がり、みなに向かって段取りを説明した。米軍でいうところのブリーフィングタイムだ。
「時間がない。キジは先に村に飛んで、村民を全員、退避させろ。決して爆発に巻きこんではいけない。サルはこの山に残って、鬼の隊列を挑発してくれ。得意の『べしゃり』で敵の進路を変えるんだ。イヌは村にかかる橋を爆破してほしい。鬼を足止めしろ。危険で頭も使うが、イヌならきっとやれる」
4人は目くばせする。
「で、兄貴は?」とサルが言った。鋭いツッコミだった。
「まさか何もせずに、一人だけ逃げないですよね?」とキジが笑った。笑った顔もイケメンだった。
桃太郎もつられて笑ってから「僕は村に戻るよ」と言った。
「戻って『桃』の起爆装置を押す。桃から生まれたんだ。最後は、桃のそばで死ぬよ」
*
イヌはまだ童貞だった。
女性を知らぬうちに死ぬのは嫌だった。今までその機会がないでもなかったが、しかしほんとうに大好きな女性としか行為をしないと決めていた。
思春期によくある思想だが、しかし笑うことはできない。若人の考えは生命にとって、きらびやかな理想の結晶化したものだ。イヌは思考しながら橋に向かって走り続ける。
キジが真っ先に飛んで行くのか見えた。(あいつなら事情をうまく説明して、きっとみんなを隣村に避難させるだろう)とイヌは思った。
サルの挑発が山の上から聞こえてきた。
「身長と、体重だけが取り柄の、デクノボウどもよ! 百戦錬磨のこのおれが、おまえたちを地獄の豪華な業火で」
と言ったところで、金棒がドスッドスッと何本も飛んできて、沈黙する。
丸太のような巨大な鉄の棒だ。たとえ直撃しなくても、地面をえぐって付近の生物を死滅させるだろう。
安否が気になったが、振り返らない。
*
イヌは橋のたもとにたどり着く。
計算では2分20秒後に、鬼の第一陣が到着するはずだ。
イヌは起爆装置をチェックする。大丈夫、電池は切れていない。ずうん、と大地が震える。鬼だ。もう来た。ずううん。ずうううん。響きが近づいてくる。心臓が痛い。耳鳴りもする。早く爆破させて逃げたい。でもダメだ。まだだ。1鬼はおれが倒す。橋を渡っている最中に起爆させるんだ。
イヌは目を強く閉じて、その瞬間を待った。
ずううううん。
ずうおおおおおおおおおおおおおおおおおおおん。
今だっ! と思って目を開けたら、鬼の口が目の前にあった。
*
桃太郎は走りながら決断に迷いを生じさせる。
プランEは、しかし犠牲が大きすぎる。故郷の村は跡形もなく消え去るだろう。むこう30年は草木も生えないかもしれない。
みんなの楽しい想い出のつまった村が、消滅する。二度と戻れない。でも、鬼に襲われたら、結局は同じなんだ……。
山からの近道を走った桃太郎は、鬼に先回りして村に到着する。村人の姿はどこにもなかった。キジが逃がしてくれたんだ。
夜になろうとする黄昏の中で、静かに風が吹き抜けていく。実家の軒先にある柿の葉が、小さく揺れた。遠くから、鬼の地響きが、かすかに聞こえてくる。
急がないと。
*
桃太郎が玄関の扉を開けると、囲炉裏のそばに、おじいさんとおばあさんが転がっていた。両手両足を縛られている。
「スタッタロー!(来るな!)」とおじいさんが叫んだ。
背後から桃太郎の頭上めがけて、金棒が振り下ろされる。桃太郎は叫びもせずに土間に倒れ、頭から赤い液体を流した。
「鬼が、いつまでもデカくて、バカだと思ったら、大間違いだぞ? 桃太郎」
男の低い声が、桃太郎の頭上から響いた。
「人間が進化するように、鬼だって進化する。いや。おれたちも昔は、人間と同じ大きさだった。いや違う。正確にいえば、おれたちは、かつて、人間だった」
桃太郎と同い年くらいの、同じ背格好の青年が、桃太郎を見つめている。
長身で、細身で、青いモッズスーツを着込んでいた。
桃太郎は混濁する意識のなか、隣で横たわっているおじいさんに、小声で聞いた。
(みんなは?)
(エスケプ(逃げたよ))
桃太郎は安堵する。おじいさんは顔を動かさずに、付け加えた。(ドンビ・アフレイ・メクアディスジョン(怖がらずに決断しろ))
モッズスーツの青年が、ゆっくりと桃太郎に近づいてくる。髪を鷲づかみにし、頭を持ち上げた。毛髪がブチブチと千切れる。桃太郎は低いうめき声をあげた。
「人間のような鬼は珍しいか? おまえらの頭の中では、鬼は巨大で、赤ら顔で、ツノがあって、しましまの黄色いパンツで、金棒振り回すだけの、バカみたいな生き物だからな」
青年は桃太郎の顔にツバを吐いて、手を離した。桃太郎は土間に崩れ落ちる。
「外のでかい鬼たちはな、おまえら人間に虐げられて、虐げられて、あーんなに大きくなってしまったんだぞ?」
言ってから、青年は桃太郎の顔面を、力いっぱい蹴り上げた。
革靴のつま先が、桃太郎の頬にめりこむ。口内がズタズタに引き裂かれ、赤い液体といっしょに、歯が何本も吹き飛んだ。
「アウ! マイガッ!(なんということでしょう!)」とおばあさんが絶叫した。
「ばあさん。ちょっと、黙っててくださいよ?」
青年の隣にいた黒いジャージ姿の眉毛の薄い男が、出刃包丁をちらつかせた。おばあさはそのまま気を失う。
黒いジャージは、桃太郎の頬に出刃包丁をペチペチとあてて、低い声でささやいた。
「おまえの耳をそぎ落として、耳なし芳一にしてやろうか? それか、三年寝太郎じゃなくて、百万年寝太郎にしてやろうか?」
*
桃太郎の眼はうつろで、もはや正気ではなかった。
土間の上で痙攣している桃太郎の背中めがけて、モッズスーツの青年がフルスイングで蹴りを入れる。
一発。もう一発。足が食い込むたびに、肋骨の折れる音が、茅葺の屋根まで響いた。
「鬼も悪い。人間も悪い。さーて、最初に悪かったのはどっちでしょーか?」
最後の一蹴りで、桃太郎の肋骨がすべて粉々になり、完全に意識を消失させる。
「黒」と青年が黒ジャージを呼んだ。「川に捨てろ」
黒ジャージは、壁に立てかけてあったリアカーを引っ張りだした。「恨むんなら、おめーを川で拾った、この婆さんを恨むんだな」と言いながら桃太郎を積んだ。
そのとき、玄関の扉が開いて、赤いジャージ姿の小太りの男が、のろのろと入ってきた。
「ジェラート様! 納屋でこいつを発見しました!」
赤いジャージは、両手で巨大な『桃』を抱えていた。おじいさんはそれを見て、誰にもわからないように、ニヤリと笑った。
外から響いてくる100鬼の足音は、すぐそこまで迫っていた。
*
キジのファーストキスは14歳の秋だった。
女の子の唇がこんなにも柔らかいと初めて知って、股間がふくらむ前に脳内で感動と感激が破裂しそうで、「14年間生きてきて一番嬉しいです」と言ったオリンピック選手と同じセリフが口から出て笑われた。
井戸のそばでキスをした翌日、彼女には彼氏がいたことを知る。
自分だけのキスだと思っていたのは大きな勘違いで、彼女はたくさんの男とキスを、いやキスだけじゃなくてその先のたくさんのことを行なっていた。
彼女が色んな男と寝てる姿を想像し、キジは発狂する。
涙も枯れた1週間後の満月の夜、6Bの鉛筆で翼にタトゥーを入れた。フランス語で「女を信じるな」という一文だった。
女性不信はあっという間に人間全体の不信につながる。キジは2年後にもう片翼に「人間を信じるな」と彫った。ヌ・クル・パゾ・ジュマン。
両翼の美しさに惚れて寄ってくる男女を片っ端からだまし、金を巻き上げる享楽的な生活を続けたある日、桃太郎と出会う。
「僕のことは信じなくていい。でも僕は、キジのことを信じるよ」
その言葉が全てではなかったけれど、キジは桃太郎と旅をすることに決めた。
*
赤いジャージ姿の男は、納屋から運んできた『桃』を土間に置いた。正確に言えば置いたのではなく、あまりの重さに耐えきれずに落としてしまったのだ。
どもおおおおん、という低い音と、土煙が舞った。
「ふう。ジェラート様、これが探し求めていた《永遠の愛》ではないでしょうか?」
ジェラートと呼ばれたモッズスーツの青年は、『桃』に近づき、片膝をついて、鼻をつけた。
たしかに熟女のような芳醇な香りがする。頭が痺れそうだ。でもその奥に、金属の冷たい臭気を感じとってしまう。
ジェラートは表情を変えずに立ち上がって苦笑した。
「トリ・ニトロ・トルエンだ。してやられたな」
桃の大きさからして、爆弾はこの家ごと、いや、村全体を消滅させるに十分な破壊力があることは明白だった。
黒ジャージがリアカーを蹴飛ばして叫んだ。
「クソったれ! 起爆装置はどこだ?!」
はずみで桃太郎はリアカーから放り出される。意識のない桃太郎は、洋服屋のマネキンのように転がっていった。
得体の知れない静けさが土間にあった。
外から聞こえていた100鬼の足音も、いつの間にか止んでいた。村を完全に包囲したのだろう。しかし爆弾が爆発すれば、さすがの鬼も全滅する可能性があった。
ジェラートはここに来て、初めて脇の下に嫌な汗をかいた。それを悟られないようにして、刀を抜き、おじいさんの胸に当てた。
「一回しか言わない。正確に、答えろ。起爆装置はどこだ?」
おじいさんは笑みを浮かべて、ジェラートの顔にツバを吐いた。「ファ◯クュ」
*
ジェラートの眼球は、白目がなくなり、すべて真っ黒になった。
おじいさんの心臓めがけて刀を突き立てる。
その直後、飛来した何かが刀を吹き飛ばした。とっさにジェラートは飛び退き、壁際まで後退する。
飛翔体は箪笥の上に着地した。とてつもなく綺麗な顔をした、キジだった。
「カッコいい……」赤ジャージは思わず見とれてしまう。
しかし、ジェラートは黒目のまま、キジには目もくれず、脇差をおじいさんの心臓めがけて飛ばした。
黒ジャージも出刃包丁を投げる。慌てて赤ジャージも手裏剣を放つ。
一瞬だった。
おじいさんには避ける余裕なんてない。キジも2度目は間に合わなかった。
戦いの相手は自分だと思っていたのに、まさか執拗に、おじいさんだけを狙うなんて――。
キジは思わず顔を背けた。(桃太郎さま、あなたのことを、信じています……)と心の中で叫んだ。
おじいさんの心臓のただ一点に、脇差、出刃包丁、手裏剣が集結していった。
*
サルは風俗が大好きだった。
金さえあれば、村はずれの桃色サロンに通った。30分一本勝負。お気に入りは「駒子」ちゃんで、ショートカットの美人さんだった。
サルは興奮のあまり、駒子ちゃんの頭を両手で持つクセがあり、「お客さん! 女の子の頭を抑えないでくださいね!」と店員に毎回注意されていた。
10分でコトが完了すると、残りの20分はフリートークタイム。
「駒子ちゃん、お店辞めて、僕の彼女になってください」
「サルさんありがとう。でもわたし、このお仕事が大好きだから」
駒子ちゃんの回答が、本当か嘘かはわからない。オニガシマに向かう前夜も、同じように「サルさんありがとう」と言われて別れた。
サルはオニガシマから生きて帰って、駒子ちゃんにもう一度会いたかった。今度はちゃんと「結婚してください」とプロポーズしようと考えていた。
*
死んだはずの桃太郎が蘇って、おじいさんの前に立っていた。
手にした大剣で、脇差と出刃包丁と手裏剣を、ことごとく弾き飛ばしている姿を見て、キジは雄叫びをあげて泣いた。
甲高い金属音が3回響き、その余韻が鼓膜を何度も震わせた。
「いや、ほんとに気絶してたよ。危なかったなあ」と桃太郎は笑って、大剣を真正面にかまえる。
黒ジャージが思わず絶叫する。「おまえ! 肋骨がズタボロで死んだはず!」
桃太郎は鎧をめくりあげて、腹巻きを見せた。
おばあちゃんお手製の、鋼の腹巻きだった。「残念でした。折れたのは肋骨じゃなくて、鎖かたびらでした」
黒ジャージの目が充血する。両手に五寸釘を握りしめる。
ジェラートが「やめろ」と諭しても、黒ジャージにはもはやその言葉は届かなかった。
桃太郎が、一歩だけ、前に出た。「おまえを、浦島太郎にしてやろうか?」
セリフが終わる前に、黒ジャージは桃太郎に飛びかかっていた。
桃太郎は幼子をあやすように大剣を振るう。青い体液が噴水のように放出され、ジェラートの目にも入った。しかしジェラートはまぶたを閉じずに一部始終を見つづける。
「竜宮城から戻って、気がつけば、あの世でしたってね」
黒ジャージは目を見開いたまま動かなくなった。赤ジャージは焦って外に逃げ出す。
ジェラートは飛ばされた刀をゆっくりと拾い上げ、ため息をついた。
「ほんとに。ほんとに。切ないな、この世界は。怒りが怒りを呼んで、恨みが恨みを呼んで、復讐が復讐を呼んで。おれたちは、ただ楽しく暮らしたいだけなのにな。変わらない愛を求めることが、そんなに愚かなことか? 《永遠の愛》なんて、どこにも存在しないのか? おれを救ってくれるやつは、どこにいる?」
外から、どんっ、どどんっと、花火が上がるような轟音が聞こえてきた。
*
キジは窓から飛び出して呆然とした。
100鬼が破壊を開始したのだ。金棒が頭上を飛び交う。火の手が上がる。黒煙が立ち込め、家屋が次々となぎ倒されていく。
外の夕焼けは消えた。
桃太郎の生家にさしこむ光はなく、おじいさんの目から、桃太郎の姿はほとんど見えなかった。
土間の中央にある『桃』からは、かぐわしい香りだけが鼻にとどく。おばあさんは気絶したまま深い眠りについている。
「どちらが、生きる価値があるのか、確かめようぜ? 桃太郎」
ジェラートの黒目はもう何も見ていなかった。両手をだらりと下ろし、全身を脱力させて立っている。
一見して隙だらけだ。
しかし桃太郎にはわかっていた。自分が1寸でも近寄ったら最後、やつは命を捨てて襲ってくる。今度は桃太郎が、嫌な汗をかく番だった。
桃太郎は腰につけていた、最後の『きびだんご』を握りしめた。
これが『桃』の起爆装置だった。
*
このわずかな時間で、桃太郎は何十通りものシミュレーションを脳内でおこなった。
これが映画なら、刀と刀がぶつかり合って火花を散らし、なかなか決着がつかないだろう。でも実際の真剣勝負は一瞬で決まる。
右から斬れば左脇腹を突かれ、下から斬りあげれば肩から真っ二つにされる。想像上の勝率は、0勝22敗5相打ち。もちろん相打ちも、負けを意味する。
自分は死んでもいい。でも、おじいさんとおばあさんは、長生きしてほしい。それが桃太郎の本心だった。この躊躇が、ジェラートに勝てない理由なのはわかっていた。
たとえ『きびだんご』の起爆装置を押しても、みんな死ぬ――。
「ちょっとタイム。厠に行きたい」桃太郎は刀を下ろした。
ジェラートはうつむいたまま声だけで応えた。
「大か? 小か?」
「思いっきり大だ。朝からお腹の調子が悪い。どうやら鎖かたびらで、冷えたらしい」
「幼子のような腹だな」とジェラートは顔をあげた。黒目の大きさが普通に戻っていた。
土間で横たわっているおじいさんも「ミトゥ(わしも朝からお腹が痛くて厠に行きたい)」と懇願する。厠は家の外だ。
「好きなだけ出せばいい。どうせ外は鬼だらけだ。逃げようがない」
*
桃太郎はおじいさんの縄を解き、どさくさに紛れておばあさんも脇に抱えて、裏口から外に出た。
厠は柿の木の下にあった。
ジェラートもゆっくりと表玄関から出て、柿の木が見える位置に立った。万が一にでも、桃太郎に怪しい挙動があれば、三人とも串刺しにするつもりだった。
真っ暗な夜空に、星のかわりに火の粉が舞う。
どもおおおん、おおおん、という100鬼の地鳴りが、四方から迫ってくる。凄まじい破壊音で、おばあさんも目を覚ました。
桃太郎はおじいさんとおばあさんを抱きしめた。
おじいさんは、やさしくささやいた。「ドンビ・アフレイド(怖がらなくていい)」
おばあさんも目を細めた。「ビウィズユ(私たちはいつも一緒よ)」
「クソが漏れるぞ!」ジェラートは遠くからヤジを飛ばした。「くだらない家族愛は、クソ喰らえだ!」
桃太郎は両手を緩めた。おじいさんとおばあさんを両脇に立たせ、ジェラートに向きなおった。
そして、刀を投げ捨てた。
*
ジェラートはここにきて、初めて怪訝な顔をする。
「子供の頃、体が弱かったんだ」と桃太郎は話しはじめる。
「みんなと同じように外で遊べないから、おれはみんなとは違うんだと幼いながらに思ったし、ひとりきりで考える時間がたっぷりあったから、いろんなことをたくさん考えた。自分がこの世からいなくなったらどうなるんだろう、と考えた。おじいさんとおばあさんは悲しむんだろうな、って。どうしておれが生まれたのかはわからない。死んだらどうなるのかも、わからない。わからないけれど、死ぬのは怖い。それは、たぶんだけど、また一人ぼっちになるかもしれない、という恐怖だ。あっちの世界にいって、また一人ぼっちになるとしたら、今度はほんとうに一人になるとしたら、それはとても怖い」
「何が言いたい?」ジェラートは苛立ちを隠さない。
「痛みは怖くない。一人になるのが怖い」
ジェラートは刀をかまえた。
桃太郎は最後の『きびだんご』を右手でつかみ、頭上高らかと持ち上げてみせた。
ジェラートの目が一瞬で真っ黒になる。「キ・バ・ク・ソ・ウ・チ!」
「今回は、引き分けにしてほしい。今すぐ、鬼を引き連れて、帰ってくれ。それ以上近づいたら、爆発させる」
一人になるのが怖い桃太郎のそばには、おじいさんと、おばあさんがいた。
ジェラートは、深い溜め息をついた。そして、同じように右手を高らかとあげて、鬼たちを撤退させた。
しかし、ジェラートだけは、あとに残った。
*
むかし話の終わりにある、めてだし、めでたし、は私たちが安眠するための魔法の言葉だ。
ある物語が、その時点では幸福だったというだけで、その後がどうだったかは知る由もないし、知らない方が安らかに生きられるのかもしれない。
いずれにせよ、主人公が死ぬまでは、実際の物語は続いていく。
*
山の向こうが光り輝いた。
しばらく間があってから、夜空が真っ赤に染まった。
直後、縁側にいた駒子ちゃんのそばを、突風が吹き抜けていく。立っていられずに、思わずしゃがみ込んだ。
疎開先の雨戸がガダダッと激しく揺れる。何枚かはそのまま吹き飛ぶ。耳をふさいでいたのに、恐ろしい轟音が頭の中まで到達した。
故郷の壊滅を知ったのは、翌朝だった。
*
イヌはなんとか川から這い上がった。
と思ったら爆風をあびて、また川に落ちた。水面から顔を出すと、村の方角から巨大なキノコ雲が立ち上っているのが見えた。
プランEが実行されたことはすぐにわかった。起爆装置は、半径3間以内に接近しないと作動しない。つまり、桃太郎は……。
イヌは川に浮かんだまま泣いた。
*
キジは閃光が走った瞬間に翼を閉じた。
表面積を最小化して、衝撃波を逃すためだ。
でも嵐の中の小舟みたいに、あっさりと吹き飛ばされて、両翼が千切れて意識を失った。
落下する最中に、桃太郎のやさしい声が聞こえた気がした。
(いままで、ありがとう)
*
イヌは走った。
まだ真夜中だったけれど、イヌの目はよく見えた。村に近づくにつれて、家屋の残骸があちこちに散乱していた。
あのとき橋を壊していれば、とイヌはそればかりを思った。鬼を一瞬でも足止めできれば、最悪の結果には、ならなかったのかもしれない。
村には一軒の建物も残っていなかった。でも桃太郎の生家と思われる場所は、すぐにわかった。
大きなクレーターがあったからだ。穴は深くて底が見えなかった。イヌは外周を何度も何度もまわって、桃太郎の名を叫んだ。
*
やがて太陽が昇った。
何人かの若くて屈強な村人たちが、朝陽とともに戻ってきた。
手にオノやらスキやらの武器を持っていたが、そんなものを使う必要がないことはすぐにわかった。
「ワッツゴーオン!?(なんだこれは!?)」と何もない荒地を見て、呆然と立ち尽くした。鬼はただの一体も残っていなかった。
若者の一人が、村のはずれでキジを見つけた。
イヌが駆け寄り、キジの顔を叩いて、真水をかけた。(桃太郎さま)とキジは弱々しい声をだした。(どこにいるんですか)
「キジ、兄貴は、もう……」とイヌがまた泣くと、キジは目を閉じたまま笑って言った。
(そんな、暗い穴のなかに、いたんですね)
*
頭のかしこいイヌは思い出す。
桃太郎の生家のそば、柿の木の下に、古い井戸があったことを。
イヌは、はやる気持ちを抑えきれず、全力で走って大きなクレーターのそばに戻った。
斜面を滑り降り、かつて柿の木があった場所を探す。やっぱり小さな穴があった。石でできた古い井戸。
大声で呼んでも返事はなかった。
イヌは村人に頼んで、胴体を大縄で結び、降ろしてもらう。途中で何度も何度も縄を継ぎ足す。深く深く潜ったところで、太陽の光も届かない底の底で、なつかしい声を聞いた。
「いや、ほんとに死ぬかと思ったよ。危なかった」
*
起爆装置のスイッチを押して、爆発するまでに0.8秒かかる。
古井戸に、まずおじいさんを投げこむ。続けておばあさんを。最後は桃太郎自身が飛び込む。
落下中に爆発したが、その爆風のおかげで、全員があっという間に井戸の底に到達する。
長年の堆積物がクッションの代わりとなり、怪我もなかった。
イヌもキジも、桃太郎の生還を泣いて喜んだ。
キジの千切れた翼を見て、桃太郎は笑った。「翼を取り替えて、また新しいタトゥーを入れられるね」
おばあさんが更地になった村を見て叫んだ。「マイガッ!(新しい場所に村を再建する必要があるけど、そんなお金はどこにあるのかしら?)」
おじいさんは、おばあさんの肩を抱いた。「マイペンライ(なんとかなるさ)」
山から大声が聞こえてきた。
「意気消沈している、悲観主義者どもよ! この、まばゆいばかりの金銀財宝を、とくとご覧あれ!」
サルの声だった。鬼ヶ島から取り返してきたあの財宝を、リアカーで引っ張っている。隣には笑顔の駒子ちゃんが一緒に歩いていた。
*
それから桃太郎たちは、川の向こうに新しい村を築いた。
かつての古い村があった場所は、家屋の残骸に土がつもって、島のようにぽっかりと浮かんで見えるようになった。
いつしか、誰ともなく、オニガシマ、と呼ぶようになったそうだ。
めでたし、めでたし。
*
あの時、すべての鬼を帰したあとで、ジェラートは言った。
「愛されたかっただけだ」
桃太郎は意味がわからずに、『きびだんご』を握りしめたまま沈黙する。
「あるところに、桃がふたつあった。ひとつは村に流れ着き、もうひとつは海に流れていった。おれは海の向こうから、おまえをずっと見ていた。比較してもしょうがないことはわかる。憎いわけでもない。細かい傷なんてお互いにいくらでもある」
ジェラートも刀を捨てた。月の光がさしている。眼球も白目と黒目に戻っていた。微笑んでいるのか悲しんでいるのかわからない表情。「愛とか、幸せとか、そういう言葉が、そもそもなければよかった。おれはバカのまま、老いて死ねばよかった。なにも知らず、なにもわからず、ただ、いなくなればよかった」
桃太郎はジェラートをじっと見ている。
おじいさんは古井戸のなかにつるべを落とした。それにつかまって、おばあさんとふたり、静かにゆっくりと降りていった。
キジのいる上空からは、なにが起こっているのか暗くてわからない。
「おまえに殺されるのなら、おれは本望だよ」とジェラートが言って、一歩前に出る。桃太郎は動かなかった。
ジェラートがまた一歩近づいた。「もう疲れた。すべて終わりにしたい」
桃太郎はかすれた声で言った。「ふたりではじめたことなら、ふたりで終わらせてもいい」
ジェラートは笑った。「かっこつけても、誰も見てないぜ?」
「あなたが見てる」と桃太郎は言った。「あなたを自由にしないと、この先も、ずっと、何度でも、同じことになる」
ジェラートは桃太郎の前に立った。手のひらを差し出す。でも桃太郎は動かない。
キジは異変を察知して急降下を開始したが、間に合わなかった。
ジェラートの右手が桃太郎のあごに向かう。力いっぱい押し上げ、そのまま古井戸に投げ落とす。はずみで握力の弱まった桃太郎の手から、最後の『きびだんご』を奪いとる。
落下していく桃太郎に向かって、ジェラートは何かを言ったが、聞き取れなかった。
でも、キジの耳にだけは、かすかに届いていた。
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