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『親指の痛みと「普通」と「普通」に代わる未来』


(後半まで書いて、今朝のニュースを知って、年齢が近いのでとてもショックですが、、、記事を修正するか迷いましたが、このまま載せます。寝起きに書いたので、だいぶ真面目な内容です。)


昨日の昼間に外出先で派手に階段から落ちまして、階段の上から下まで落ちまして、かろうじて柔道の受け身みたいに頭部は守ったのですが、右手の親指を負傷しました。深い裂傷。血があふれていたのが、ようやく今朝になって止まったのでキーを打っています。

落ちた瞬間、落ちてる瞬間って、なにが起こったのかぜんぜんわかりませんね。走馬灯もなくて。全身に衝撃があって、全身が痛いだけ。とくに痺れていた右手をみたら、血が流れていた。「PC操作できるかな」というのが最初に思ったことでした。

幸いにも親指だったので、親指ってキーを打つときに使用しないって知ってましたか? マウスも親指を使わない。スマホの操作は左手なので、現代IT社会では右手の親指は不要だとわかって安心しました。「親は不要」ってなんだか現代っぽいですね。こじつけですね。



こうやって人生はあっけなく終わる場合もあるんだと、ふと思ったのです。

階段から落ちて死ぬなんて、めったにないだろうけれど、怪我をすることはあるだろうし、もっと歳をとったら骨だってバンバン折っただろうし、階段落下だけじゃなくて、交通事故とか、マンホールの蓋が外れてるとか、工事現場で資材が落下してくるとか、難病になるとか、災害とか(保険の販売みたいな文章になりそうなのでいったんストップします)、そうやって日常が止まってしまうことも普通にあるんだなと。

頭では理解していても、実際に自分の身体に衝撃が、傷が、痛みがないと、腹落ちしないなんて難儀な生き物ですね。でも物理的な痛みがあると、現実的になりませんか。「痛み」って理屈じゃないから。「痛み」は理論じゃないから。

さいきんずっと頭ばっかりで考え事をしていて、「痛み」がなかったのかもしれない。子供のころはよく怪我をしていて、血を流していたけれど、子供が元気なのは日々「痛み」を肌で感じているからなのかもしれない。

「生きてる」って実感するために、物理的に実感するために、「痛み」は必要悪なのかもしれない。美味しいものを食べた感動よりも、今回の「痛み」の方が、なんだか生をリアルに感じてしまった。全身打撲も悪くないのかも。お尻の蒙古斑みたいな痣も、なんだか愛しい。



で、ここまでが前置きで(長いな)、「考えていることを言語化する努力をしたほうがいいな」と思って筆をとった次第です。上の空になって階段から落ちないように。あっけなく人生が終わる前に。



大学を卒業して定職について、30歳までに結婚して、30歳前後で第一子が誕生して、家を購入して、60歳で孫にかこまれて赤いちゃんちゃんこを着る。

というのが平成時代の、いわゆる「普通」の、「幸せな」、「理想とされる」、「目指すべき」、人生のモデルだったと思うのです。

もう「普通」って言葉が死語になる(おいそれと使用できなくなる)と思うけれど、いったん今までの価値観という意味で「普通」と「」で書かせていただきます。

今でも「普通」に沿って生きていらっしゃる方が大勢いることは知っていて、周りでも多いし、なんとなくリアルが充実している方々は、上記の流れで生きていらっしゃるような気がします。

ここで私のスタンスを明確にしておくと、否定する気持ちはまったくないし、むしろ、「ああ、いいなー」と素朴に思うことも1日に2回ぐらい(街なかでベビーカーを押している若いカップルを見たときとか)あります。

羨ましいか、といえば、羨ましいのかもしれない。でも、自分の人生は「普通」とは離れてしまったので、時間が巻き戻せないことはこの世の数少ない「絶対的なこと」なので、嫉妬に狂っておかしくなる、とかはないです。

ただ、あったかもしれないもう一つの人生を想うこと、はあります。

僕はいま40歳を過ぎて、未婚で、子供がいません。このnoteのなかでは、多数派じゃなくて少数派に位置するのかもしれないけれど、どうなんでしょうか。団塊ジュニア世代と、その前後の世代では、珍しくないのかもしれません。(若い方のほうが「普通」を目指している人が多い印象です)



世界の流れとして、少数派、マイノリティの存在を認める方向になっているので、「普通」(今まではこうだった)という言葉は、どんどんなくなるのかもしれない、というのが本日の趣旨です。

・大学でミスコンがなくなったり(性の多様性、外見偏重への反発)

・ミス・ミスターの最終審査でウエディングドレスとタキシードを着ていたのが中止になったり(「幸せの終点が結婚」という価値観を植え付けるのがよくないそうです)

・母の日に「お母さんいつも家事ありがとう」が批判されたり(家事は男女ともにするもの)

そうこうすると、母の日、父の日もなくなるかもしれない。ひな祭りとか、性差を想起するイベントはすべて。



日本は履歴書に年齢を書くのが「普通」だけれど、アメリカは書かないそうなので、そのうち日本も書かなくなるかも。日本はめっちゃ年齢、学年、年次、先輩後輩を重視するけど(儒教が背景にあるとかないとか)、それも将来は薄らいでいくでしょう。

新卒一括採用も「普通」じゃなくなるだろうし、そうこうしているうちに、さっきの「普通」の人生モデルは表向きはなくなるでしょう。

「まだ結婚しないの?」とか「子供をつくらないの?」とか「子供は女の子?男の子?」とか言わない・言えない社会になってきました。

「結婚は女のしあわせ」みたいな昭和の演歌みたいな内容は歌えないだろうし、ゼクシィのCMも表現が難しいだろうし、ドレッシングのCMに出てくる「夫婦と子供」という理想的な家族像も減るかもだし、「やっちゃえ日産」も車は男だけの乗り物じゃないから方向転換したり、あらゆる「普通」が「普通」じゃなくなるから、ゼロから、みんなで表現を変えていく必要が出てくるかもしれない。

今までの「普通」がいっさい通用しなくなる未来。567の影響でそれは想像よりも早まるかもしれない。

そして、「普通」が「普通」じゃなくなったときに出てくる問題が、『自己責任』という重いキーワード。ぜんぶ個人の好きにしていいよ。でも、自己責任だよ。


『全部自分で判断してね。でもその責任は、全部自分で背負ってね』



ぜんぶ自由だから、逆にすべてを考えて、個人で決断する必要がある。

ぜんぶ自分で考えて、ぜんぶ自分で背負う、というのは、心理的にだいぶキツイ側面があると思っていて、

だからといってこの流れが戻ることはないだろうし、明確な宗教をもたない僕は、だから未婚であることも結婚することも子供をもたないことも子供をもとうとすることも、自分で考えて、決断して、責任をおう必要があって、

わかってるけど、なんだか素朴につらいと感じることがあったりします。

深く考えなくてもいい、という別の声も聞こえるけれど、今日はその声は小さめです。



これから「普通」がなくなった未来で、僕は僕のロールモデルをつくっていく必要があるんだろうな。

そしてこんな僕の話で、誰かの参考になったらいいなという淡い期待もあって、ここで、この場所で文章にしているのかもしれません。反面教師でも全然いいし。

未来はいまの価値観の延長線上にはきっとないからね。



(「普通」を目指して生きるのも辛いだろうし、「普通」じゃないことも辛いだろうし、畢竟、生きることは辛いことだ、というまとめになったところで、親指が痛みだしたので、このままアップいたします。こんな長い文章を読んでいただきありがとうございます。)

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