5.【やってみた】夜の世界で働いたら人生が変わるのだろうか?(後編)
結果として、僕は殴られたことは一度もなかった。
殴られそうになったことはあったけれど、すぐに察して頭を下げて謝罪した。「ヒロセ、わかってんの?」と上司の目が、一瞬で人を●す目になった。半身がわずかに後退する。来る、と確信した。上司は空手の有段者だ。殴られたスタッフもいると聞いていた。
「なあ?」
ここで、僕が逃げたり、突っ張ったりしたら、即座に殴られただろう。半身になった瞬間、逃げるのではなくて、一歩前に出た。相手のふところに入って、「ごめんなさい」と頭を下げた。
上司にしてみれば、距離を縮められたほうが殴りにくいはずだ、という計算もあった。もちろん即座に謝ったほうが、事態が丸く収まるとも思った。僕にも言い分はあったけれど、突っ張るほどの理由でもないのだ。
怒ってる相手から逃げたら、事態は悪化する。
これは人生訓として頭の片隅に残った。夜の世界で1年近く働いたけれど、一瞬ヒヤッとしたのは上記のエピソードだけだった。
上司が激怒した理由は、営業開始後に固形物を取るのはNG(飲み物はOK)という暗黙のルールがあって、僕がウィダーインゼリーを飲んでいたからだ。「これは飲み物です」と言い訳したが最後、めちゃめちゃに殴られただろう。おそらく、その時の上司は機嫌が悪かったのだ。
*
言葉にすると重みがなくなってしまうけれど、出会ったスタッフはみんないい人ばかりで、感謝しかない。
「命以外に惜しいものはなにもありません」という自暴自棄だった僕も、たくさんの人に可愛がられて、優しさや温かみにふれて、1年後には少しだけまっとうな人間になった気がした。当時付き合っていた彼女も「出会った頃は目がやばかったけれど、今は穏やかになった」と言っていた。どんだけやばかったのか。まあ、自覚はあるけれど。
キャバクラに入ったばかりでお金がなかったころ、毎晩飲みに連れて行ってくれた先輩がいた。1ヶ月間、毎晩だ。ちょっと考えられない。全部おごりだった。おかげさまで、ひもじい思いだけはしなくて済んだ。毎晩、腹いっぱい食べて、飲ませてもらった。
1ヶ月後に、僕も給料が入って安定するようになったころ、「おまえのせいで、貯金がなくなったわ」と先輩は笑った。いま考えても、僕は後輩に同じことはできない。この先輩には頭が上がらない。本当にお世話になった。
ちなみにキャバクラのスタッフは、19時が営業開始なんだけど15時には集合している。そんなに早く集まってなにをするかというと、駅前での募集活動だ。
お店で働いてくれる女の子のスカウト活動。
一人入店させて一定期間働いてくれると、その子をスカウトした男子スタッフにスカウトバック(現金5万円)が入る仕組みだった。お金がない新人は猛烈に頑張る。
もちろん僕も無我夢中で声をかけた。駅前でお店の名前入りのテッシュを配ったり、名刺を片っ端から渡したり、電話番号を聞いたり。
(『新宿スワン』というスカウトマンを題材にした映画があるけれど、あれを見るとわかりやすいです)
はじめてスカウトバックが入った夜、僕は先輩を飲みにさそった。「今日はおごらせてください」と笑顔で言って。先輩も嬉しそうだった。食べて飲みまくったら、あっという間に一晩で5万円がなくなったけれど、とても満足した。
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それからもスカウト活動は真面目にがんばって、女の子を次々と入店させた。その業績が認められて昇進したり、スカウト専門の部隊の一員になって、渋谷のスクランブル交差点や、歌舞伎町のアルタ前でも声をかけられる機会に恵まれた。
今もそうだと思うけれど、スカウト活動は縄張りが決められていて、勝手に自由に好きな場所で声をかけられるわけではなかった。他の組織と揉め事になるからだ。はじめて歌舞伎町で活動するとき、先輩から大事な訓示をうけた。
「他のスカウトマンに何か言われたら、『●●に話が通ってます』と必ずいうこと」と。
「それ、忘れたらどうなるんですか?」
「うん? 瞬時に消されるよ」
僕は必死でメモって、暗唱した。
ちなみにそのメモ帳は今でも残っている。当時は意味不明だった●●をGoogleで検索してみたら、歌舞伎町を仕切っている●●という方たちでした。実際に当時、「誰の許可もらって声かけてんの?」と輩に絡まれたことがあったけれど、「●●に話が通ってますんで」と言っただけで、相手は無言で去っていた。
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僕を殴ろうとした上司は、業務に対しては度が過ぎるぐらい真剣で融通がきかなかったけれど、勤務時間外になれば、笑顔でざっくばらんに「昨日ひさびさに風俗いったらさ~」とか「この黒靴いいだろ? 靴のダイワで6000円だった」とか、まあ普通の人だった。
そういえば、路上で客引きをするときに、この上司からきつく言われたことがあって、それは「公安には気をつけろ」だった。「客を連れてきていいのは、その角まで。店の前まで連れてきたら、客引き行為で捕まるから」
実際に、公安警察とは知らずにサラリーマンだと思って、店の前まで連れていってしまったボーイがいて、現行犯逮捕&営業停止になったらしい。僕が入店するちょっと前の話だ。
毎晩毎晩、繁華街の路上に立って、サラリーマンに声をかけていたら、直感でピンっとくるものがあった。この三人組、ちょっと違うなと。
なにが違うのかは、わからない。セット料金を確認してきて、サービス料とか、消費税とか、総額でいくらになるとか、飲み物はどうとか、一般的なサラリーマンと同じような質問をしてくる。でも、なにかが、違った。
これからキャバクラで飲むような雰囲気じゃなかった。なにか、隠しきれない緊張感があって、第一、姿勢が良すぎたのだ。
「じゃあ、飲みにいくよ。お店どこ?」とひとりが言った。
「ありがとうございます。その角を曲がったら、すぐです」
「え、わからないから、連れて行ってよ」と、もうひとりが言った。
「すみません、ここまでしか案内できないんで」と僕は謝った。「むこうで手を振っているのが、同じ店のスタッフになります。そのお店になります」
店の前に立っていたスタッフ(フロント担当)が、「公安には気をつけろ」と言っていた、あの上司だった。
三人組はそのまま歩いていき、その上司と路上で話をしてから、店には入らずに去っていった。直後にインカムで「ヒロセ、いまのが公安だ。危なかったな」と言った。
*
最後に、グループ企業の社長の話をしたい。
僕が働くことになった店は、グループ会社の一号店だった。社長はこの席数13の小箱から水商売をスタートして、上野、蒲田、横浜、八王子、渋谷、歌舞伎町にも進出。東京中のあらゆる繁華街で、あらゆる種類のナイトサービスを提供していた。
他の業界と同じように、夜の世界も狭いので、具体的な店名は出せない。上記の情報だけで「●●グループ?」みたいに分かる人には分かるだろうけれど、秘密にしていただけるとありがたいです。
一号店のすぐ隣のビルに、グループ会社の本社の事務所があった。
お店に入店希望の女の子がくると、身分証明書をコピーする必要がある。コピー機は事務所にあった。必然的に、僕はほとんど毎日、その事務所に通った。
事務所内は、こじんまりとしていて、蛍光灯の明かりが眩しかった。夜の世界の空気感は微塵もなくて、単なるオフィスだった。一点だけ、異様だったのが、壁に貼られた無数の顔写真だった。
そういえば入店のとき、ポラロイドカメラで写真を撮られていた。そのときの写真だ。おそらくグループ企業の全従業員と、全女子スタッフの顔写真が、一面に貼られていたのだ。部屋の奥までずっと。圧巻だった。どんだけ店の数が多いんだとも思った。
「コピー機をお借りします」
コピーをとってから事務所を出ようとしたとき、背後から大声で「ヒロセ! おっぱい好きか?」と声をかけられた。社長だった。一気に緊張した。
「はい、大好きです!」という回答以外に正解があるのだろうか?
「じゃあ、今日からおまえ、おっぱいパブな!」
笑顔で言われて、僕はキャバクラの従業員から、本日付でセクシーパブの従業員に異動になった。社長が名前を覚えていてくれたのも嬉しかったし、会話ができたのもの嬉しかった。
夜の世界はスタッフの出入りが激しい。男子スタッフも次々に変わる。多くの人が、1ヶ月も続かずに飛んだ。
仕事は立ちっぱなしできついし、昼夜逆転の生活だし、休日も週1だし、給与も下っ端なら多くはない。日給1万円×26営業日で26万円。僕が続けられたのは、家出をして他に行く宛がなかったのものあったけれど、周りのスタッフが気遣ってくれたのが大きかった。
セクシーパブと、歌舞伎町の店で、男子スタッフに欠員が発生した。当初は、僕が歌舞伎町の大箱に異動になる予定だったらしい。それを止めてくれたのが店長だった。「ヒロセは性格的に歌舞伎町は無理です。移ったらすぐに飛びますよ」と進言してくれたのだ。たしかに、田舎者の僕は、あの歌舞伎町の環境で、大箱だったら、務まらなかっただろう。怖すぎる。
店長の進言もあって、僕はセクシーパブに異動になり、そこで半年以上働いて、当初の目標だった百万円を貯めて、円満に退社した。
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路上で客にティッシュを配るためには、路上使用許可を取得する必要がある。
ある下っ端の男子スタッフが、その継続申請を忘れてしまい、機嫌切れの許可証のままでティッシュを配っていた。駅前の交番(あの地域密着型の交番)の警察官が見回りの際に発覚したらしい。場合によっては大事になる事案だった。
すぐに動いたのが、そのスタッフの上司や、店長や、部長ではなくて、先程の社長だった。
年商がいくらなのかは分からないけれど、民間企業だったらちょっとした企業の社長ぐらいの権力はある。小箱でも売上は一日で百万、大箱なら数百万だ。キャバクラ以外にも、風俗店を多数経営しており、一日の総売上は計り知れない。男子スタッフだけで百名以上はいた。
その社長が、下っ端の男子スタッフと二人だけで、交番に行って、頭を下げていたのだ。
僕は横断歩道の向こうからその光景を見ていて、この人にならついていってもいい、と思った。
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暴力や報酬だけで人はついていかない。
人がついていくのは、その組織の長に、愛情があるかどうかだ。
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けっきょく僕は、夜の世界で働くことで、人生が変わったのだろうか?
今、僕が曲がりなりにも生きながらえて、これを書き残しているというのが、その答えになると思う。
あのとき拾ってくれて、優しくしてくれて、本当にありがとうございました。
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