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【小説】 「はじめてのおつかい」



5歳児なのにIQが180以上あることを母は知らない。

母だけじゃなくて、ディレクターもプロデューサーもカメラマンも知らない。

ADの酒井さんだけは知ってるけど、黙っててもらう取り決めになっている。撮れ高的には、僕がふつうの幼稚園児のほうが視聴者にはウケがいいからだ。

IQ以外はまったくもって、ふつうの幼稚園児だ。顔はあどけないし、身体は病弱で小さいし、靴は「きめつのやいば」のスニーカー。

なまじIQが高いせいで、幼稚園児にあるまじき発言をしちゃったら、見るほうも作るほうもドン引きだろう。

たとえば僕の趣味は南欧を中心としたケッペンの気候区分を覚えることなんだけど、札幌と南仏マルセイユは同じ緯度だけど片方はDfaで片方がCsaなのはなぜかといえば、海流、つまり海水温が大きく影響している。

水は熱しにくく冷めにくいのだ。ちなみに僕は熱しやすく冷めやすいので地塊に近い。

海流のせいで、片方は極寒の猛吹雪のダイヤモンドダストで、片方はゴッホのひまわりのコート・ダジュールなのだ。

ああ、ずっとケッペンの話をしていたいけど、みんなは興味がないだろうからこの辺でやめる。

ほんとはブラタモリでタモリさんと地形と地質と地層の話をしたい。でも5歳児にブラタモリのオファーが来るわけはないので、仕方なく、おつかいのオファーを受けたというわけ。

さて、500メートル先の「八百屋」まで「トマト」を買いに行くとかいう、幼稚園児でもできそうなおつかいを頼まれたので行くことにする。

途中で犬に見とれたり、車のクラクションに立ちすくんだり、横断歩道で横断を躊躇したりしようぞ。三歩進んで二歩下がろう。ちなみに近所の信号は時差式なので要注意。

行ってきます、と玄関を出て、背後にいつまでも手を振ってる母を感じる。

振り返って投げキスをしてチャオと言いたいところだけれど、ここはグッと我慢する。テレビカメラはすでに回っているのだ。僕はリュックサックをかついだ5歳児。リュックの中身はお金と、あとは命の次に大切なものが入っている。

小型カメラを買い物カゴに仕込んだADの酒井さんが後ろからついてくる。ちゃんと録画ボタンを押してるのか心配になる。リハーサルのときは忘れててディレクターにめっちゃ怒られてたから。酒井さんはいい人なんだけどいつも抜けててハラハラする。

母を気にしてるふうを装って、振り返る。酒井さんの買い物カゴから赤い録画ランプが見えたので大丈夫。

僕はふいに立ち止まって、見上げて、見とれる。青空にひとすじの白い飛行機雲がまっすぐのびていたからだ。

飛行機雲を見たのは人生で2回目。もう少し年齢を重ねたら、僕も羽田空港国際線ターミナルから飛行機に乗ってリオデジャネイロに行きたい。ちなみにリオはサバナ気候でAw。

トマト、トマトとつぶやきながら歩いていると、女性の叫び声が飛び込んできた。

人生で一度も聞いたことのない、キンキンと響く悲鳴。

二車線の道路を挟んだ向こう側。大人の女性がよろよろと歩いている。少し後ろに男がいた。男は手にナイフを持っていた。

ふらふらとおぼつかない足取りで、でもナイフはバタフライナイフで殺傷力は抜群っぽい。手首を返して握っている。刺す気満々だ。

女性も普段なら走って逃げられるんだろうけれど、なぜかよたよたと男の前を歩いている。夢の中で走ってるみたい。全力を出しているのに、いっこうに進む気配がない。

なにかの撮影、ではなかった。

男から冷たい空気が伝播する。ナイフを握った手を前にだした。女性の背中に触れる。また悲鳴。白いキャミソールが赤くなる。女性がうずくまる。男がまた振りかぶる。

僕はリュックサックを下ろしながら後ろを向いて、まだ状況を飲み込めていない酒井さんの目をまっすぐに見る。

酒井さんは身長が185センチあって高校時代に国立を目指していたサッカー部の元エースストライカーで、Jリーグには惜しくも入れなかったけれど瞬発力とキック力と正確性は本田圭佑以上だったと、テレビ局の控室で紙コップを蹴りながら自慢していた。

紙コップはクルクルと回って部屋の隅にあるゴミ箱にすこんっと収まった。しかも3個連続で。天才は32歳になっても衰え知らずだ。

「ちゃかい!」

と僕は大声を出す。酒井、と言ったつもりだが、しかし幼い発声器官のためにチャ行に変換されてしまう。

酒井さんが反応する前に、僕はリュックサックの中から取り出した僕の大切な宝物を力いっぱい空に向かって放り投げる。

丸い地球儀だ。

高く浮かんで、白い飛行機雲に重なる。

5歳児の全力ではせいぜいが酒井さんの足元に到達させるだけの飛距離しかないけれど、それで十分だった。すべて計算どおり。

酒井さんは落下してくる地球儀を条件反射的にインサイドで擦りながら蹴り抜いた。

地球儀は低い弾道を描く。ビュルルルルと風を切って、男の頭めがけて飛んでいく。

一瞬だった。ダンッとにぶい音がして、地球儀は男の側頭部に当たり、台座の部分が砕け散った。

男は、あああああ、と奇声を発して、膝から崩れ落ちる。ナイフは歩道に落ち、軽く跳ねて、静止した。

酒井さんの全力のシュートだった。しかもあの大人用の地球儀だから、男の頭にはヒビぐらい入ったかもしれない。もしかしたら酒井さんの足にもヒビが入っているかもしれない。

一番近くにいた元柔道部で現在は痛風もちのディレクターが駆け寄って、男を羽交い締めにして確保した。

この一部始終を3台の隠しカメラが撮影していた。夕方のニュースで速報され、僕と酒井さんは一躍時の人になる。

男は7年間、自宅に引きこもっていた。ある日、通販で購入した狩猟用ナイフで、自分の祖母と両親と妹の家族4人を刺した。それから7年ぶりに外に出て、最初に目にした女性を刺した。

男のリュックサックにはナイフが全部で16本もあった。

刺された女性は救急車で運ばれた。たくさん縫われたらしいけれど、命に別状はなかったらしい。酒井さんの足は、案の定、ヒビが入って真っ黒に腫れた。男の家族がどうだったかは、残念ながら誰も教えてくれなかった。

テレビ局の控室でニュースを見ると、映像のなかの僕はちょっと泣きそうな顔をしている。怖かったよねえ、とAPのお姉さんが慰めてくれたけれど、違う、違うんだ。

怖くなんかない。

みんなには言ってないけれど、あれはただの地球儀じゃないんだ。僕が0.2ミリの細いポールペンで都市500個分のケッペン記号を夜な夜な手書きして完成させた唯一無二の宝物なんだ。

救急車が去ったあと、街路樹の根元に壊れた地球儀が転がっていた。

泥だらけで、激しく凹凸していた。水道水で洗ったら、予想どおり、ボールペンの文字は汚く濁って読めなくなった。

泣かないようにしても涙があふれる。

単純に地球儀がダメになったからではない。あの男が憎いだけでもない。なにかが悔しい。この世界のなにかが。うまく回っていないこの地球のなにかが。


いったいぜんたい、人類はなにを願って生きてきたんだ?


APのお姉さんが控室から出ていき、僕と酒井さんは二人きりになる。母が迎えに来るまで、あと20分あった。

「地球儀を投げたこと、後悔してんの?」

酒井さんは冷蔵庫からキレートレモンとカルピウオーターのペットボトルを取り出して、テーブルに置いた。片足を引きずっている。応急処置で湿布を貼ってあったけど、ものすごく腫れて、靴の代わりにスリッパを履いていた。

「成功に犠牲はつきものだ」と僕は強がってみせる。

酒井さんは飲みかけのキレートレモンを吹き出しそうになる。「おまえ、いくつだよ」

「失ったものを数えても、なにも成せない。なにかを成すやつは、前しか見てない。僕は、なにかを成すために、生まれてきた」

酒井さんは笑いながら言った。「そんなに肩にチカラ入れてたら、長い人生、しんどいぜ」

僕はカルピスウォーターのペットボトルを両手でつかむ。でも興奮しているせいか、手が震えてキャップが開けられない。見かねた酒井さんが大きな指で外してくれる。

「ナカムラくんの、成したいことって、なに?」

僕は一瞬、真剣に考える。あれもやりたい。これもやりたい。でもほんとうは、心の底からいつも思っていること、それは、「みんなが幸せに生きること。昼間に遭遇した、あんな酷い事件のない世界」

酒井さんは真顔になり、何度かうなずいた。「そのためには、どうしたらいいと思う?」

「時間がほしい」と僕は言った。「あと5年。それだけあれば、毎日図書館に通って、万巻の書を読んで、解決策をきっと見つける」

酒井さんの目尻にシワができる。嬉しそうに笑いながら、僕の頭をくしゃくしゃに撫でてくれた。

「でも」とか「にしても」とか「まあゆうても」とか、逆説をきっと使いたかっただろうけれど、酒井さんはなにも言わなかった。

それは小さくて弱くて一人ぼっちだった僕に対する愛情だったんだと、あれから30年経った今ならわかる。




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