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【小説】「ブッシュドノエルには早すぎる」



非通知で携帯が鳴った。すぐに出た。昨夜のチャット相手のユミさんだと思った。

26歳の元モデルで、ガールズバーで働いている。掲示板でやりとりしてから、鍵のかかったチャットルームに案内して、2人でエッチな会話をするようになった。

ユミさんは言葉を打ちながら自分で触り、感極まると非通知で電話をかけてきた。いってもいい? と聞いてくるので、さんざん焦らしたあとで許可を与えるのが僕の役割だった。

通話ボタンを押して「はい、キクチです」と寝起きの低音でこたえる。カーテンの外が薄暗い。時刻は確認しなかったけれど、夕方に近いのだろう。もしかしたら雪が降っているのかもしれない。

予想に反して、電話の向こうはずっと沈黙したままだった。僕は眠気を我慢できずに目を閉じる。背中にかゆみを感じて、Tシャツに手を入れる。向こうの発声を待ったけれど、このまま世界が終わってしまうような長い沈黙がつづいた。

「ユミさん?」と僕は痺れを切らして確認する。でも静かな雑音が聞こえるだけだ。口のなかが粘着質の膜で覆われている。歯も磨かずに寝たのだ。目を覚まさないと。

「じゃあ、アリサ?」

横浜で知り合った大学生の名を口にした。露出の多い服を着ていて、まだ一回しか会っていない。沈黙。沈黙がつづく。僕は頭に浮かんだ女の子の名前を順番に伝えていく。3人目でやっと「違うよ」と笑い声がもれた。

女性の声ではあった。でも耳慣れない低い声。僕も笑いながら、申し訳なさそうに「ごめんね、誰だろう。わからない」と正直に言った。



将来に希望がもてないのなら、今を浪費するのが一番いい。

今、この瞬間に集中する。酒を飲んで泥酔したり、ゲームをして神経をたかぶらせたり、女性と抱きあって朝まで眠る。

でも、泥酔すれば二日酔いになるし、ゲームも負ければ尾を引くし、不特定多数の女性と寝ても後味の悪さは残る。

何をしているんだろうという自己嫌悪と、時間やお金や精神力や、あらゆるものを浪費している罪悪感。それらを忘れるために、また酒を飲んで、賭けて、抱きしめる。

僕は22歳で、渋谷の路上にいた。

何をするでもない、ただ道行く人を眺めていた。誰も僕のことを知らない。無数といってもいいくらいの人が行き交っている。ひとりひとりの顔を見て人生を想像するゆとりもなく、僕の目の前を大勢の人が過ぎ去っていく。

立っているのに疲れたらガードレールに腰をおろす。ハチ公の広場と歩道を分ける金属のパイプ。11月も夜になればとても寒い。金属は気温よりも冷たくて、触れた瞬間に身体に染みてくる。

この世界のことはわからない。地図もない。人が何を信じて、何を求めて歩いているのか知らない。でも、みんな目的地があるのだ。あるからこそ、ガードレールの上で立ち止まることもせずに、信号が青になった瞬間に歩き出す。

僕も立ち上がって、またスクランブル交差点を見つめる。

目的ができた、というよりも、寒さで凍えそうになったからだ。見失った彼女が見つかればいいなとは思っていた。でも、それはファンダジーに過ぎないのだ。再会できる可能性なんて、ほとんど0に等しいのだから。

あれから3時間以上が経過していた。終電が近くなり、横断歩道を通過する人の数も増える。全員を把握することは不可能だった。また青に変わる。人の波が押し寄せてくる。また青に変わる。

僕は時間を、若さを浪費している。でもどうすることもできなかった。奇跡なんて起こらないのなら、明日を見ないようにして生きるしかないのだ。明日なんて怖さでしかないのだ。



「どうして、いろんな子と寝るの?」

会ったら好きになって寝たくなるんだよね。

「誰かひとりでは満たされないってこと?」

もしかしたら本当に好きな子が現れたら、変わるのかもしれない。

「変わらないと思うな笑」

変わらないかな笑 じゃあ、若いから、本能なんだよきっと。

「人は、いつまで、若いのかな」

26歳はまだぜんぜん若いよ。

「ありがとう笑」

35歳ぐらいまでは若いのかも。

「35歳まで、いろんな子と寝るの?」


ここで回線が落ちる。僕は返事を打てない。



あの夜、あの人混みの中で、僕は彼女に再会する。彼女は驚きながら笑顔を隠さない。ふたりともテンションが上がる。連絡先を交換する。僕は紙もペンも持っていなかったから、JR渋谷駅の定期券購入の用紙とボールペンを借りる。彼女も酔っていたのだ。酔っていなかったら、たとえ再会できたとしても連絡先なんて教えてくれなかっただろう。

「運命だから教えて」と僕は催促した。単なる偶然を運命とか奇跡とか呼ぶのは、嘘だし、弱さだろうけれど、物語はすべて嘘なのだ。嘘でいい。嘘でいいから、僕は彼女と繋がりたかった。

気がついたら本当に好きになっていた。本当に好きになってしまったせいで、僕は彼女を口説くことができなかった。抱きしめても、偶然を装って唇に触れるのが精一杯だった。

どうしてそれ以上、先に進めなかったのか。壊したくなかったのか。彼女との関係を。彼女のことを。性的なことはほかで処理して、彼女は神聖な存在のままでいさせたかったのか。

僕が弱かったのか。



12月に入ると東京でも雪の可能性がでてきた。それぐらい寒い日がつづいていた。僕はジーンズメイトで買った生地の薄いパーカーだけで、下北沢の待ち合わせのカフェに向かった。窓際の席に彼女を見つける。電話をくれたことに感謝して、再会の喜びを伝える。

それまでにメールで何度かやりとりをしていたけれど、1ヶ月前に渋谷で出会ったときとは印象が異なっていることに気がつく。雰囲気が小さく、幼く、静かになっていた。でも相変わらず綺麗で、僕は緊張している自分を隠した。

彼女は冷たくもなく、温かみにあふれるでもなく、ただ存在していた。ただ綺麗に。誰もいない平日の午後の美術館で、たったひとりでお気に入りの絵を見ているような気持ちになった。

冷えた身体を温めるためにハーブティを注文した。しばらくして白い陶器のポットが運ばれてくる。中身はティーパックではなくて、本物の色鮮やかなグリーンが入っていた。コップに注いで口にふくむと、身体の芯まで温まりそうな優しい味がした。

「もしかして、ちょっと疲れてる?」と僕は彼女に聞いた。

「仕事が、忙しいから」と彼女はこたえた。

「なにしてるか、そろそろ知りたい」

「だめ。教えない。仕事の話はしないで」と冷たく拒否される。

「わかった、仕事の話はしない。かわりに、夢のなかの老人の話をしてもいい?」

「夢のなかの老人?」と彼女は僕の目を覗き込んだ。

あらためて間近で見た彼女の顔は、とても清潔で、僕はしばらく黙ってしまった。

窓の外は厚い雲で覆われていた。カフェのなかは温かかったけれど、枯れ葉をつけた木々が視界に入ると、寒さが伝わってきた。

「老人が、眠りながら、夢を見ている」と僕は言った。「若いころの夢。老人は夢のなかで若者として生きている。でも運悪く、老人は夢を見たまま死んだ。心臓発作かなにかで」

それで? と彼女は言った。

「老人は、自分が若者だと思ったまま、死んだんだ。それってつまり、その老人は若者だった、ってことになるんじゃない?」

「この世界も、夢かもしれない、ってこと?」

「それは誰にもわからない」と僕は答えた。「僕はほんとうは90歳のおじいちゃんかもしれない」

彼女が笑った。僕も笑って、それから、映画の話をした。渋谷のシネマライズで見たいと思っている映画。樹の根元から騎士が出てくる映画。犯罪者が女の子と逃亡する映画。電話ボックスで何度も過去をやりなおす映画。

「今度、いっしょに映画を見に行かない?」と僕は誘った。「タイミングが、合えばね」と彼女が答えた。「仕事だからね」と僕は言った。「仕事の話はしないで」と彼女が言って、またふたりで笑った。

カフェを出るころには街灯が淡く光っていた。そんなに遅い時間じゃなかったけれど、夜が早まったのだ。外は一段と寒さが増していた。僕は彼女のすぐ側を歩いた。距離を縮めても、彼女は離れなかった。

井の頭線で渋谷駅まで戻った。大勢の人であふれていた。キレイな女の人もたくさん歩いていたはずだけれど、僕は彼女しか見ていなかった。

センター街のはずれにある地下のバーに入った。店内は混んでいて、入り口に近いカウンター席に並んで座った。なにを飲んだかは思い出せない。飲むことが目的じゃなかった。酔わなくてもいい。僕は彼女の言葉が知りたかった。発することのひとつひとつを、ちゃんと受け止めて理解したかった。

「あなたは、似ている」と彼女が言った。

「誰に?」

「あたしに」

「どういうところ?」

返事はなかった。でも答えはなくてもよかった。僕も彼女とはずっと昔から知り合いだったような気がしていた。出会ってからまだ数時間しか経っていなかったけれど、幼い頃から、時間をともにしてきたみたいだった。

「今、好きな人はいるの?」と僕は聞いた。

「いるよ」

「付き合ってるの?」

答えるかわりに、彼女はグラスを両手で持ち上げて、一口だけ飲んだ。



誰かと誰かの出会いは、単なる偶然なのか。それとも運命なのか。

僕は毎日、渋谷の街で、ほんとうにたくさんの人とすれ違っていた。でも、ほとんど100%はすれ違うだけだ。たとえ接点をもったとしても、再会して、関係を続けられることは一度もなかった。

彼女が言ったように、ある意味では、僕らはとても似ていたのだ。それまで生きてきて、誰とも分かち合えなかった感情を、気持ちを、彼女となら細かい説明を省略しても伝えられる気がした。

逆に言えば、彼女の感情も、細かい説明を抜きにして、同じ空間にいるだけで痛いくらいに伝わってくるということだった。

それが、たまらなく苦しかった。

人は過去に対して、後付でしか解釈することができない。あの事象が良かったのか悪かったのか、偶然なのか必然なのか、それは最後の最後までわからない。

だから、僕は過去に対して、なにも断言することはできないのだ。それでも、なにも断言できないにも関わらず、僕はこれを書こうとしている。



路地に入ってから、手を引いて抱きしめた。性的なそれとは違う、ただ離したくないという思いからだった。ずっといっしょにいたかった。できることなら、このままずっと最後までいっしょにいたかった。

でも、そうするには僕が弱すぎたのだ。弱くて、ずるくて、これ以上の傷を受けたくないから、僕は彼女以外のほかの女の子を口説くことで、バランスを保とうとした。彼女を理解していく苦痛よりも、簡単な方に逃げたのだ。

「いなくなりたい」と彼女は最初から言っていた。「消えたい」と。

僕は混乱して、動揺して、無意味な慰めや、助言や、一般論を伝える。真剣に、一生懸命に。

僕は消耗していく。楽しい時間のあとで、やっぱり彼女は暗い声で「消えてしまいたい」と言う。

僕は否定する。好きな子がそういうこと言うの、どれぐらい辛いかわかる? と強い口調で言ってしまう。馬鹿なセリフだ。無理やり抱きしめて、嘘でも「大丈夫。大丈夫だよ。ずっとこうしていよう」と言えればよかった。でもそんな余裕なんてなかったのだ。彼女の声をかき消すことで、僕自身が安心したかった。他の誰かに逃げることで、彼女の占める割合を減らしたかったのだ。

事態は改善しない。重い膜のようなものが僕らの周りを覆っていく。何重にも、何重にも。彼女からの連絡が苦痛にすらなる。怖くなる。それはいつも深夜を過ぎていた。なんの仕事をしているのか最後まで教えてくれなかった。

真っ暗な部屋で、電話が鳴る。「メリークリスマス」といきなり彼女が言う。日付を逆算する。今日は23日だ。「ありがとう。でも明日がイブで、明後日がクリスマスみたいだよ」と僕はベッドのなかで伝える。

「仕事だから。明日も、明後日も」と彼女が言う。

「メリークリスマス」と僕は伝える。

「じゃあ、行かないと」と言って電話が切れる。

僕はひとり取り残される。暗い部屋のなかで。でも彼女が元気でいることに安心する。そして僕のためにクリスマスを祝ってくれたことにも感謝する。着信番号が表示されていない携帯を見ると、時刻は午前二時を過ぎていた。



渋谷駅の真上にある電光掲示板が、「21世紀まであと405日」と光っている。

来年は2000年。20世紀の最後の年。でも数字の2と、数字の0の羅列は、なにかの冗談にしか思えなかった。

2 0 0 0

そんな子供の落書きみたいな年が、本当に来るのか、よくわからなかった。

「あたしと会いたい?」とユミさんの文字が画面に流れてくる。「会ってエッチなことしたい?」

したい、と僕は返す。スカートのなかに手を入れて、濡れてるところを触りたい。

「どうして濡れてるってわかるの?」

指を入れて確かめてみて。

「すごいよ、ぴちゃって音がする」

聞かせて、と打ってる最中に電話がかかってくる。非通知で。「今から家に行ってもいい?」と甘くて荒くてせっぱつまった声。「車なら30分だから」

僕は場所を伝える。駅前のマンションで、一階がローソン。電話が切れる。僕は部屋を見まわす。何もないフローリングのワンルーム。窓際にセミダブルのベッド。この部屋で何人の女の子が泊まったのだろう、と考えてやめる。棚からマリブの瓶を取り出して、冷蔵庫のコーラで割って飲んだ。

20分後に電話が鳴る。今日はやっぱりやめておく、とユミさんが申し訳なさそうに言った。やっぱり怖いから、と。

ぜんぜん大丈夫だよ、と伝える。それから少しだけ小声で会話をしてから、おやすみなさい、と電話を切る。どこかでホッとする。これ以上新しい関係が増えるても疲れるだろうな、と頭の片隅に浮かんで消える。





2000、という奇妙な数字の羅列を迎えた。

勝手に向こうからやってきて、強引に押し付けられた気がしたけれど、いつの間にか慣れていた。こうやって何事にも慣れて、麻痺して、忘れていくのだ。違和感も繰り返せばそれが日常になる。

僕は毎月、渋谷の彼女に会った。律儀に、決まって月に一回だけ。会ってる時間は彼女しか目に入らなかった。そして帰りの電車の中で、ふたたびあの消耗が、疲労が押し寄せてくる。でも、また会いたくなるのだ。会って、二人にしか通じない言葉を使って、深い海の底にいるような場所で、話がしたかった。

僕の部屋でキスをしても、抱きしめても、それ以上、前に進むことができなかった。彼女は僕の宝物であり、畏怖の対象であり、ただ幸せであることを願ったはじめての女の子だった。

出会ってからちょうど1年が経過した11月に、僕から一方的に、関係を切った。



並行して付き合っていたアパレル関係の女の子と同棲をはじめた。広い部屋に引っ越して、二人で必要なものを買い揃えた。好きな食べ物の話をした。井の頭公園に持っていくお弁当の話、行きつけのラーメン屋の話、テレビ番組の話、雑誌の話、ファッションの話、お笑い芸人の話、結婚の話、今度の誕生日の温泉旅行の話。

でも、あの彼女と過ごした時間のような、自分の人生を全てかけたような会話は、一度もすることがなかった。

しばらくしてから僕が浮気をして、彼女も浮気をして、ふたりの関係は半年ももたずに破綻する。そして僕は、また違う誰かと付き合い始める。また別れて、また違う誰かと。

ある日、非通知で電話が鳴る。電話口で沈黙がつづく。ずっと、長い間。僕はその沈黙を聞きつづける。声が聞こえるまで、僕はずっと待ちつづける。ふいに雑音が途切れた。



「明日が怖い」と僕は伝える。

「あなたは考えすぎなの。何も考えずに、ゆっくり眠ればいい」と彼女が言う。

「でも、ひとは死んだら骨になるだけだ」と僕は思わず口にしてしまう。「小さな骨になるだけだ。意味がわからない。何のために生きているの? 今が楽しければそれでいいの? 何かの宗教に入って、慰めてもらえばいいの? 神様を信じればいいの? 何も考えずに、日々を生きて、流されて、晴れたら喜んで、美味しいものを食べたら喜んで、ねえ、食欲がなくなったらどうすればいいの?」

彼女は沈黙している。何も言わない。何も発しない。

「今朝、僕のおじいちゃんが死んだ。骨になった。骨になって、家族のお墓に入って、ねえ、おじいちゃんは故郷のお墓に入るために生まれてきたの? 僕の父が斎場から車で運んでいったよ。骨だけになったおじいちゃんを。たったひとりで亡くなったおじいちゃんを」

外は雪が降っていた。季節外れの雪だ。雪にだって季節がある。意味もなくただ降っているわけじゃない。いや、意味はないのかもしれない。意味もなく降っているのだ。この季節に。雪は白くない。雪を白いなんてただ形容するのは、雪を見上げたことがない人の台詞だ。地面に落ちた雪だって白くない。降ってる雪だって白くない。積もった雪だって白くない。白くないけれど人は白いという。この季節に降っている雪を白いという。

「眠りなさい」と彼女が言った。「ゆっくり目を閉じればいい」

僕は目を閉じる。言われたとおりに。閉じてから深呼吸をする。深呼吸をしてから目を開けてノートPCの画面を見つめる。僕の書いた文字を見つめる。今まで僕が経験してきたことが、なぐり書きされている。事実のほんの一部分しか書かれていない。事実であったかどうかも、もはやわからない。誰のために書いているのかもわからない。僕は彼女のために書こうとしたのだ。でも、彼女はもう、ここにはいないのだ。





朝の6時50分に目覚ましが鳴る。起きてすぐにお湯を沸かす。マグカップにミルクティーの粉末を入れて、隠し味に黒糖をティースプーンで一杯投入する。熱湯を注いでから蜂蜜を混ぜる。スプーンで撹拌させて白いローテーブルに置く。窓から差し込む光がフローリングを照らす。そこだけまぶしく輝いている。Spotifyでチル系のプレイリストを選択する。音をJBLのスピーカーに飛ばして部屋中に広げる。少しだけ窓を開ける。心地よい風が流れてくる。冷たくもなく、温かくもなく、ちょうどよい風が。

他人に理解されない話はたくさんある。「いいね」も「好き」もつかない話。わかりやすい話が好まれるのは理解している。導入があって、山場があって、最後がハッピーで終わる話。読後感がよい話。明日に希望がもてる話。心が温かくなる話。

でも、と言い訳しそうになってやめる。僕が好きなのは、書きたいのは、本当の話なのだ。それが事実であるかどうかは関係がなくて、ただ本当の話なのだ。




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