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小説 『黒い雨、死の灰、赤いクーペ』 #3/3


世界で一番きれいな場所はどこだろう?

雨の降ったあとのウユニ塩湖、朝陽に照らされたピラミッド、夕焼けのモルジブの海、コート・ダジュールの夏の日差し、シルクロードをすすむラクダの群れ、アラスカの白夜にうかぶ七色のオーロラ――。私はそのどれも見たことはなかった。

「『ブラウン・バニー』って映画があって」と、暗闇の中でミナミの声がする。「ウユニ塩湖は、日本だと雨季が有名だけど、乾季になると、地平線まで、まったいらな地面があらわれる。巨大な、ありえないぐらい巨大なグラウンドだ。自動車レースに利用されてて、360度どの方角に走っても、時速300キロで走っても、400キロで走っても、どこまで行っても、ずっと地面。ずっとずっと地面」

私たちは同じベッドの上で、川の字でくっついている。私、ナカムラくん、ミナミの順だ。4枚の毛布を重ね、互いに密着することで体温をたもとうとしている。

1周間前からなにも食べていない。発電機の燃料もないから、部屋を暖める手段も、明かりをつける手段もない。かろうじて充電式の非常灯が小さくついているけれど、あと何日もつかは不明だ。

ベッドと、洗面台と、トイレを手探りで往復するだけ。いまが何時なのか誰も興味を示さなかった。夜だろうと昼だろうともはや関係がなかった。

ミナミは太っているからダイエットになっていいけれど、小柄なナカムラくんは限界が近づいていた。私とミナミで温めても、体温が戻らない。白湯を飲ませて内部から加温したいけれど、もう水を熱する手段がない。

「地獄も、どこまで行っても地面だったら、嫌だな」ミナミはずっとくだらないことを話して、ナカムラくんの意識を底に沈めないようにしている。ナカムラくんは静かに息をするだけだ。

「もうすでに地獄だったらどうします?」と私もくだらないことを言う。寒いけれど震える気力もなかった。

ミナミがかすかに笑う。「ダンテだっけ、『神曲』のなかで、地獄めぐりするやつ。完全な暗闇の地獄って、あったっけな」

耳元で、かすかに空気が振動する。ナカムラくんがなにかを発しようとしていた。私は耳を近づける。「なに? ナカムラくん、なに?」と大声を出す。(そ)と小さく聞こえる。「そ、がどうした?」 ナカムラくんは、かすれる声で、とぎれとぎれに言った。


(そら みたい)


地下の研究所から地上に出るまで、556段の階段を上る必要がある。

私はナカムラくんを背負って、何度も転びそうになりながらも、階段の始まりまでたどりつく。ここから先は、見なくてもわかる。ひたすら、気が遠くなるくらい、階段がつづいている。私は、一段、一段、背中のナカムラくんをしっかりとおんぶして、上がる。

「食べ物の、しりとりするから、聞いててね。バナナ、なみだ、だえき、きんもくせい、いどみず、ズッキーニ、にぼし、しかのにく、くまのにく、くじらのにく、くじゃくのにく、くり、り……、り……、あれ、りがつく食べ物って、なんだっけ」

ミナミは、もう動けない、と言った。あきらめろ、と言った。無駄な努力だ、と言った。徒労だ、おまえまで死ぬぞ、ふたりで転んだらどうする、と。

階段の一段が、遠い。筋力の落ちた脚で、手すりにつかまり、腕の力もつかって、身体を必死に持ち上げる。一段。一段。やっとの思いで上がる。私は、肩をつかって、息をする。何度も、もうだめだ、と思いそうになる。でも私は、その言葉だけは、飲み込んだ。

(り……ん……)とナカムラくんが言った気がした。

「ああ、りんご、だ。一番メジャーなの、忘れてた。ナカムラくん、ありがとね。りんご、ごま、マシュマロ、ろ……、ろ……」

ロールシャッハテストとか、ろくでなしBLUESとか、ロシアの皇帝ニコライとか、食べ物以外ならなんでも浮かぶのに、私はくやしくて涙を流した。落ち着け、落ち着け。

背中のナカムラくんが、少しずつ垂れ下がってくる。もう私をつかんでいる体力も失いかけていた。「ナカムラくん……?」と私は呼びかける。「もうちょっと、もうちょっとだから。外に、出られるよ。そしたら、空が、空が、見えるよ」

ナカムラくんの上体が崩れる。私は最後の力をふりしぼって戻そうとする。でも、ここまでだった。もう、無理だった。私は背負う力も、動く力も、もう残っていなかった。

(ナカムラくん、ごめん。もう、ここまで)

動かなくなったナカムラくんを、冷たいコンクリートの階段におろす。私は、その場にしゃがみこみ、膝をついて泣いた。

倒れそうになった私の身体を、上から伸びてきた両手が、しっかりとつかんで離さなかった。


死んだはずの自衛隊員のサカシタが、私の身体をつかむ。左右から無数の腕が伸びてくる。ああ、天国か、と思った。ついに死んだか。そのまま抱きかかえられ、担架に乗せられる。拍手が沸き起こる中で、誰かが「酸素マスクをつけろ」と叫ぶ。「アイマスクもだ」と。私の口にも目にマスクが装着される。なぜ目にも、と考える余裕もなく、私の意識は泥舟のように深く深く沈んでいった。


信州大学付属病院の病室からも、高い山々の連なりが見える。今年は雪が少ないけれど、山の上方は白く覆われている。春のように暖かな太陽の光が、窓のカーテンを透かし、私の寝ているベッドまで届いている。

病室のドアが開き、ナカムラくんが点滴のぶら下がったバーを押しながら歩いてくる。隣りの誰もいないベッドに腰を下ろし、バツが悪そうに笑った。

「怒ってる?」

「ドラマでよかった」

私はため息交じりに答えた。サイドワゴンの上に、サカシタから手渡されたチラシが置いてある。

Netflixオリジナルドラマ『WWⅢ』
■全世界7ヶ国で同時配信。何もしらない一般人を起用し、極限のサバイバル状況をリアルタイムで生放送。■主人公以外は全員が企画内容を把握しており、医療スタッフも別室で24時間待機。■不測の事態が発生しないよう、万全の体制で放映していますのでどうぞご安心ください。


本来ならもっと手前で撮影は終了するはずだったらしい。医療チームはストップをかけていた。ミナミ(番組ディレクー)も、私の限界を察していた。でもナカムラくん(二十歳の役者の卵)が続行したいと申し出て、最後の階段のシーンまで続くことになった。

「ちょっと、おかしな、とは思ってた」と私はナカムラくんに言った。

「どのあたりで?」

「あの地震波、かなり作為的だし、ミナミさんは東大の准教授なのにボキャブラリーが貧弱だし、地震関係の知識はないし、それに……」と私は笑ってつづけた。「全然、痩せない」

ナカムラくんも笑って、二人で爆笑してから、明日退院することを伝えた。食欲は戻りつつあるし、検査の結果も異常はなかった。

話題は出演料の使いみちになった。驚きの金額だった。子供の頃から夢見ていた、赤いフェラーリも即金で購入できる額。でも――「世界を見てまわりたい」と私は言った。

「もうダメだと思って、世界のきれいな景色の話、したじゃない? 俺はぜんぜん何も見てないな、と思った。日本の景色だってきれいだけど、せっかくのチャンスだから、もっと海の外を見てみたい。写真や映像じゃない、本当の景色を、自分の目で見たい。研究所も長期休暇をくれるっていうし」

ナカムラくんは、今までありがとうございました、と言って病室を静かに出ていった。

世界のきれいな景色を見たい、というのは本心だ。でも本当は、旅をしながら、核兵器のない世界をどうしたら誕生させられるかを、ゆっくりと考えてみたかった。でも30歳を超えて、そんな夢見たいなことを言ったらきっとバカにされると思うので、私は誰にも言わない。



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