短編 「第173話 最終決戦」

※10年以上前に他サイトで発表した短編です。短編なのに第173話というのは、一種の洒落です。元になった話はだらだらと50話ぐらいまで書きましたが完結できず。とりあえず飛ばして最終決戦だけ書こうと試みたのが本作品です。セックスはいっさい出てきません。

(第173話までのあらすじ)
ある日突然、「白パンダ」になった僕。同じように「黒パンダ」になった親友の田中は、ずっと眠ったままだ。僕らは中国軍や国連軍に命を狙われるも生き延びる。僕は田中を背負い、かつての師匠だった「紫色パンダ」のもとに向かうのだが・・・。


 部屋の窓から見える一本の木が、どうやら桜の木らしいと知って、僕は春を待ち遠しく思う。夜通し響きわたる猫の鳴き声が、まるで桜の木の下に捨てられた赤子のようで、切なく、不気味に思い、でも桜の花びらが舞い落ちる真下で泣いているとしたら、綺麗な女の人が両手をそっとさしのべてくれてるような気がして、安心して、眠ることができた。

***

 僕が水商売をはじめた頃に住んでいた部屋は、古い雑居ビルの三階にあった。風呂場の排水溝がしょっちゅう詰まるため、湯船にお湯をためたら排水しきるまで傍で見張っていなければならなかった。一度、栓を抜いたあと仕事の疲れでそのまま眠り、部屋中を水浸しにしたことがあった。

 今、こうして当時の雑居ビルに来ると、いやでもむかしのことを思い出してしまう。

 かばん一つで―――本当にかばん一つで、僕はここにやってきた。気持ち的にはすべてを捨てたつもりだった。すべてを捨てて、誰も僕を知らない土地で、一からはじめようと決心していた。

 でも、今から思えば、それらはすべて甘えだった。僕が残してきた人、捨てた人の気持ち、そんなものなんて何も考えていなかった。自己憐憫、自分に対する同情、自分の感情に拘泥するばかりで、他者に対する思いやりなんて何もなかった。

 でも、と僕は自分に言い訳をする。誰かに心底甘えることで、今度は逆に、誰かを思いきり甘えさせることができるんだ。

 もし誰にも甘えず、自分の思いを、願いを、全部がまんして、がまんして、がまんして生きていたら、どんどん自分がなくなって、やがて、自分の欲しいものや、やりたいことや、行きたい場所、そういったものが、すべて、見えなくなって、そうして最後には壊れてこの世からいなくなってしまう。

 『黒パンダ』―――かつての変態ニート田中が、そうだったように。

 僕は雑居ビルを後にする。春の柔らかな陽射しはすでに消え、街灯が点滅し始めている。夜になれば冬が終わったとはいえ、まだ寒い。背中に背負っている『黒パンダ』はずっと眠り続けたままで、目を覚ます気配ははるか昔に失っている。そのまま歩いて、僕は新宿の街に出る。

 『彼ら』が到着するよりも4分ほど早く。

***

 歌舞伎町の路上に放置してある布団はゴミではなくて、ちゃんと中で人が眠っている。背中にリュックを背負った男は、両手に雑誌の詰まった紙袋を抱えたまま、ガードレールの傍で背中を丸めて立っている。居酒屋から出てきたばかりの大学生が集団で酔っ払いながら大声で歩き、一人がいきなりダッシュして大人の玩具屋に入っていく、それを歓声を上げてみなで笑っている。「激安ピンクローター200円」とかそんな張り紙を声に出して叫んでいる。彼らの存在の中で僕は立ったまま微動だにせず『彼ら』を待つ。

 地方から週末だけを楽しむためにこの街に出てきた女の子たちは、どんなに流行りの格好をしていても前髪がやたらと長くて目を隠しているからすぐにわかる。かわいいのに自信がない、というよりもこの街にびびっている。そのびびり具合が、さっきから右手でいじっているその前髪にあらわれている。横断歩道の手前で待ち構えているホストが間髪入れずに声をかける、彼女らは一瞬身を引く、でも上目づかいに視線を合わせる。はい、終了。彼らはにこやかにほほ笑んで彼女らを取り囲む。横断歩道の向こう側に『九級兵器』と『七級兵器』が姿を現すのが見えなくても、その気配で、僕はわかる。

 週末の群衆の中でもホストの姿はすぐ目に入る。彼らの視線は一様に遠い。誰よりも先に対象者を見つけようと遥か彼方を射抜く目で見つめている。人ごみの中、50m先のターゲットを射程に入れて間髪入れずに接近する。単独行動者は、強い。どこの世界でもそうだ。グループでしゃべってる奴らよりもたった一人で立ってる奴の方が、強いし、怖い。

 「いつまでそこにいる?」

 『パープルパンダ』が50m先から僕に声をかける。声―――は当然僕までは届かない、でも、彼の存在、その思考、それらを総合して彼の声は僕の耳の中で響く。

 「きみは何を見ている?」彼は言いながら、でもそこから一歩でも僕の方へ近づく気配は絶対にない。近づけば一瞬で死ぬ、と理解しているからだ。

 「なにも」と僕は答える。

 目の前を女の子を引き連れたホストが歩き去る。誰にも、地面が見えないくらいの群衆の誰にも、『僕ら』の姿は見えない。

 「じゃあ遠慮なくおれから向かうよ」パープルパンダの右隣にいたまだ若すぎる九級兵器がふっと両肩に力を入れる。彼は、自分が誰よりも強く、でも現状は九級兵器という地位に甘んじているのは上がつっかえているせいで、早く誰か死ねばいいのに、と思っている、その苛立ちと、傲慢さが、挙動に滲む。

 待て、とか、止めろ、といった制止は誰もしない。ここで死ぬ程度の奴なら最初から死ねばいいし、この先も、必要ない。

 彼は両腕から二鋼球の弾丸を発射させる、音もなく、ただ空を切り裂く波動が感じられるだけで、普通の人間ならこの瞬間にもう既に息の根を止められている、でも―――と僕は背中に背負っている黒パンダを想う―――ここで死ぬくらいなら、ここまで頑張って生きてきたことに意味なんてなくなるのは、僕も、同じなんだ。

 九級兵器は狂ったように鋼球を乱射させるが、そのどれもが空を切る光だけを残すのみで、無意味だと悟る前に冷や汗が顔に浮かぶよりも速くに命を落とす。

 僕が、一歩だけ、進む。パープルパンダは顔の位置をほとんど変えずに、後ろに下がる。僕が、また一歩、進む。パープルパンダは同時に下がる。左隣にいた『七級兵器』が完全に血走った眼をして重心を前に傾ける―――死を直前にして怖いのは痛みじゃなくて、己の存在が消えるという真理で、だからこそ、そこから逃れることなんて誰にでもできることじゃないし、彼が耐えきれずに前に、たとえそれが彼の死を数秒でも早める結果に繋がろうとも、己では支えきれない真理の重みに押しつぶされるよりかは幾分か楽なことを、僕は、理解する。僕も、前に出る。

 桜の花びらは春になれば何の迷いもなく枝から離れて空を舞い、陽ざしに透かされて白く輝き、地面に落ちて腐る。

 「もう、やめよう」と僕は思う。「通して欲しい」心の中でつぶやく、それが無意味なことはもう十分に分かっている、でも浮かび上がるそれらの言葉は決して消えることなく、僕は泣きそうになる。

 ここに存在する理由なんてもう既に何百回と考えてきたけれど答えなんて出るわけがないし、何百人、何千人と人間が死んでもそれはもうただの統計学上の数字でしかないし、それらに伴う痛みははるか昔に忘れてしまった―――というよりも、感覚が麻痺した、というよりも、それらは記憶にすら上がってこない日常の些細な断片に過ぎないと教えてくれたのはパープルパンダだった。僕は、彼に、言葉を、伝える。

 「ぼくは、このまま黒パンダを連れて、北に渡ります。彼を、目覚めさせないといけないから」

 僕は背中の黒パンダを抱えている両腕にしっかりと力を込めて締めなおす。

 「駄目だ」

 パープルパンダの低い声が、怖い。彼がこんなふうに発声するのは覚えている限りでは初めてのことで、僕は彼を見据えたまま顔を動かさずに瞬きもしない。瞬きをしないのは目をつむった瞬間に先制でやられるとかそういう愚かな理由じゃなくて、ただ彼の心から発せられる声を聞き逃したくなかったからだ。彼の心から出てくる最後の言葉を受け入れたかったからだ。でも、パープルパンダはもう何も、声には出さなかった。

 彼は、一歩、前に出た。

 パープルパンダが死を覚悟したんだと、そのとき僕は理解する。風もないのに花びらがいくつか空を舞うのが見えた。それらがひらひらと漂う中を、僕は膝をゆっくりと曲げて背中の黒パンダをそっと地面に下ろす。黒パンダは眠ったまま路上にゆったりと横たわる。

 僕は泣きながら嗚咽しながら怒りや後悔やわけのわからない感情に狂いながら瞬間、パープルパンダの前面に出て彼を殺す。パープルパンダとの想い出の中でそれらを全部引き裂いて、粉々にして、彼の存在を全て無に帰するまで僕はただひたすらに彼を殺しつづける。(もういいだろ)田中が僕の背後でつぶやく(もう、いいじゃん)それを聞いて僕は田中が目覚めたことを知る。僕は嬉しくなって振り返る。「田中」と呼びかけて、遠くの路上に黒パンダが横たわっているのを見る。そのとき僕は悟る。すべては最初から『彼』が仕組んだことだったんだと。桜の木の下で泣いていたのは猫なんかじゃなかったと。

 パープルパンダが背後にまわって僕を殺すのにそれほど長い時間はかからなかった。



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