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小説 『黒い雨、死の灰、赤いクーペ』 #1/3


1週間ぶりに地上に出たら、世界が消えていた。

駐車場の一番手前の右側に停めていたはずの車がなかった。私の車だけじゃなくて、10台はあった全ての車が(地震研究所の資材運搬用の大型トラックも)、どこにも見当たらなかった。

というか、駐車場それ自体がなかった。アスファルトや車止め、ガードレールごと消滅していた。そのかわり赤茶色の土があたり一面に広がっている。

街への道路も、陸橋も、果樹園の巨大な看板も、なにもかもがなかった。ここは日本の長野県のはずなのに、アメリカのグランドキャニオンの荒野みたいだった。

地上に通じる鉄扉を開けて、外を見て呆然とした私(36歳独身男性・地震研究所の主任担当・好きな食べ物はミカン)は、後ろにいる研究員に向かって思わず叫んだ。

「なんもない!」

まだ階段の途中にいたミナミ(40歳独身男性・東京大学地質構造学部の准教授・好きな食べ物は甘らっきょう。ただし食べすぎるとオナラが大量に出るため1日3個まで)が、奥から大声を返した。

「なんもない、って、なんだよ!?」

「そのまんまですよ! おれの車も、駐車場も、道路も、全部消えて、なくなってる!」

「なに、正月ボケ、してんだよ」

ミナミが息を切らしながら、私の隣まで上がってくる。

地下深くにある研究所から地上までの階段は556段あって、仲間うちでは「ハートアタック」と呼んでいる。20年前、初老の研究員が階段の途中で心臓発作で倒れたからだ。幸い彼は一命をとりとめた。

ここまで30分かけてハートアタックを上がってきた私もミナミも、心拍数は120を超えていた。2人とも少しすっぱい匂いがする。この1週間は風呂に入っていないからだ。

ミナミは肩で息をしながら外を見た。実際に自分の両目で直視しても、状況をすぐに信じることはできなかった。

世界がいつもといちじるしく異なる場合、人はまず自分の判断を疑う。「出口、間違えたんじゃないの?」

「ミナミさん、入口も出口も、ここしかないです。年末に入ったときも、ここからでした。車も、そこに停めてました」私は今はもうただの土でしかない場所を指差した。

「じゃ、なんで、なんもないんだよ? 土砂崩れで流されたか?」

「年末年始はずっと快晴で、雨も雪も降ってません」

霧のせいで太陽が隠れて薄暗かったけれど、外は晴れていた。普段なら街が見える方向は霞んでいる。赤土のまったいらな地面が地平線まで広がり、人工的な建造物は何ひとつ存在しなかった。

地震研究所は地下220メートル(ビル45階分に相当)にあり、スマホの電波は届かないけれど、光ケーブルでインターネットは利用できる。

しかし昨夜の23時過ぎ、急にネットが繋がらなくなった。直後、日本中にある地震観測所からのデータの受信も途絶え、やがて停電が発生した。「外で送電線が切れたか?」とミナミはディーゼル式の自家発電機を起動させた。

外部との連絡が一切とれなくなったので、私たちは今朝、地上に出ることにしたのだ。

ミナミがおそるおそる赤土に一歩踏み出す。地盤は硬いらしく、そのまま2、3歩と足を進め、振り返った。

「そういえば、スマートニュースで、アメリカがイランのVIPを殺害したって、流れてた。もしかしたら、考えたくないけれど、あるいは、それ、が関係しているのか?」

ミナミの顔面から色が失せた。実は私も一番最初に疑ったのが、それ、だった。

今朝、最後(1月5日の23時03分)に取得した地震波のデータを解析したところ、日本中の広範囲で(北は稚内、南は沖ノ鳥島まで)震度3の地震が発生していた。

そのような多重連鎖的な地震は今までに一度も観測したことはなかった。地震計の故障か、データ分析用のソフトウェアのバグか、またはその両方か。でもーーー

「第三次世界大戦だな」

背後からひどく酒焼けした声がした。サカシタがいつのまにか入口に立っている。煙草(セブンスター)に火をつけながら。地下の研究所は全面禁煙だから、彼にとっては一週間ぶりの極上のひとときだ。大きく背伸びをしている。

サカシタは32歳の独身男性で、陸上自衛隊の特殊部隊に所属していて、今回のミッションに極秘裏に参加していた。内閣府の要請だから上長も断ることができなかった。組織にとっては国からの補助金が全てだ。

美味しそうに煙草の煙を吐きながら、サカシタは淡々と言った。「ロシアとアメリカと中国が核を撃ちあったら、地球を少なくとも36回は破壊できる。太陽が見えない。空中は放射能だらけだ。扉を閉めろ」

ガイガーカウンター(旧式の放射能測定器)は地下深くの研究所にある。「とりあえず」と私が言った瞬間、サカシタは拳銃を取り出し、自分のこめかみに押し当て、煙草をくわえたまま引金をひいた。

急いでガイガーカウンターを取りに戻った。スイッチを入れると、けたたましい警報音が鳴り響く。信じられないけれど、針は振り切れていた。そのまま強力な接着剤で固定されたみたいに、針は決して戻ることはなかった。まだ階段の途中で、鉄扉すら開けていない。

「戻るぞ!」とミナミが悲鳴をあげた。

「でもまだ外にサカシタさんが!」と私は震える声で言った。

ミナミが階段を駆け下りる。私もそれに続く。走りながら、発電機の燃料はあと何日もつか? と考えた。食糧は? 水は? 地下水だから大丈夫か? 私たちの被ばく量は? いやそもそも、世界が壊滅していたとしたら、外に出る意味がない。

ハートアタックは永遠に続くかに思えた。しかしむしろ、このまま、永遠に走り続けた方が私たちは幸せだったのかもしれない。



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