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【小説】 「悪いのは全部、君だと思ってた」


渋谷のスクランブル交差点で対峙した時、もはや僕に勝ち目はなかった。

Qフロントの真下に彼女がいる。僕は渋谷駅の前、スクランブル交差点を挟んで彼女の真正面に立っている。立ちつくしている、といった方が正しいかもしれない。僕には取れる選択肢が僅かしかない。手に汗をかいている余裕もなかった。

信号が青に変わる瞬間、待ち切れない大勢の人がいっせいに僕の左右から流れていく。

人の波が僕の視線を遮っても、彼女は消えない。そこにあり続けて、何十人、何百人の群れの中でも、じっと僕だけを見ている。瞬きをしている様子はない。僕もまっすぐに彼女だけを見る。心音と呼吸を意識して一定に保つ必要があるくらい、僕は動揺を隠しきれていない。

信号が点滅する。人が走り出す。赤に変わってしばらくして、車両が一斉に動きだす。

三月の雨と雨の間に生まれた奇跡みたいな青空の下で、時間は月曜日の午後だから人は普段よりも少ない。雲から差し込む鋭い西日が、僕のまつ毛に触れて視界を淡く黄金色に染める。眩しくて普段なら手のひらで太陽を隠す。でも今は目を閉じることは絶対に許されない。なぜならそれは僕の命を失することと同義だからだ。

最初に動いたのは彼女だった。

信号が七回切り替わった後で、横断歩道にはまだ取り残された人たちが走っている。彼女はその白くて細い右腕をふわりと持ち上げる。

僕の両脇から大粒の汗があふれ出る前に、彼女の左右に立っていた人々が、夢のある未来や愛する誰かや、この上なく幸せな日常を持っている人たちの身体が、なんの音もなく血と内臓と脂肪の塊を路上に四散させる。

人体ってこんなにも脆い物体なのかと感嘆する時間的なゆとりもなく、彼女を中心とした同心円状に真っ赤な飛沫が次々と伝播していく。誰かの悲鳴や、助けを呼ぶ声が、僕の鼓膜を震わすよりもはるか前に、僕は逃げる。

振り返るなんて考えない。誰かを助けようなんてヒーローじみたことも微塵も思わない。恐怖心からではない。僕は三番目の選択肢に努めて忠実なだけで、彼女に負けるのは出会う前から分かっていたことで、彼女が距離を縮めて僕の脳味噌までをも破壊する前に、走ってここから、渋谷の街から離れることが最善の策だと判断しただけだ。

僕は目をつむる。一切の何も見ない。固く固く閉じたまま、僕は東急デパートの一階を抜けてJRの南口を抜けて渋谷警察署の前を通って246沿いに恵比寿に向かう。全力で、というよりもこれが普段からの僕の平均的な速力で、僕は息を吸って吐くぐらいの、繰り返し毎日無意識に行っている動作と同じぐらいのレベルで、走る。

恵比寿ガーデンプレイスの噴水の前にたどり着いて一呼吸した時、ちょうど脇の下から汗が落ちる。この二分の間で何人が殺されたんだろうと考えようとして止める。考えても意味がないからだ。この先、彼女がこのまま生きている限り、途方もない数の人間がこの世から消えることは間違いない。数百人の死者なんて誤差にすぎない。

噴水の周りには関西訛りの若いカップルが写真を撮っている。幼い子供を抱えた母親が紺色のベビーカーをゆっくりと押している。頭上に小さなピンク色の花びらが何枚も何枚も降り注ぐ。

ここにいるみんなが今日この日のこの時間に、渋谷ではなく恵比寿にいることに幸運を感じる余裕が僕には生まれる。太陽が眩しくて手をかざして渋谷の方角を見る。黒い煙がかすかに上がっている。ここに彼女が到達するまで、あと数分の猶予だと思った。

急ぐ必要がある。



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