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山のばあちゃんへ



いつも笑顔の祖母が手を引いて本屋まで連れていってくれるのが嬉しかった。

本屋、といっても、田舎だから雑貨屋の店内の一部で本をあつかっていただけで、いま思えばとても種類が少なかった。コンビニで売っているような本、週刊誌とか漫画とかが圧倒的に多くて、児童書はほんの隅に、棚の一列にあるだけだ。でも、そこが僕は大好きだった。絵本に混じって、学研の『ひみつシリーズ』が何冊も並んでいたからだ。

保育園のときに親が買ってくれた『からだのひみつ』からはじまって、誕生日やなにかのときにお願いしたものを含めて、トータルで10冊は持っていた。宝物だった。『からだのひみつ』は読みすぎて中綴じの糸が破れて中身がバラバラになったけど、セロハンテープで留めてまた読んだ。

母方の祖母は、遠くの山の奥に住んでいたので、会えるのは年に1、2回だった。それが楽しみでしょうがなかった。お菓子や本を買ってくれたから、というのもある。両親には内緒で。

雪の寒い道。祖母が手をつないで、一緒に本屋まで歩いてくれる。「いいのがあるといいね」と祖母は笑顔で話しかけてくれる。僕はワクワクしている。今度はなんのひみつを買おうか?新しいものが出ているかもしれない。このまえ立ち読みした『できるできないのひみつ』がいいかも。


両親は自営業で朝から晩まで忙しくて、土日も仕事だったからめったに交流を持つことはなかった。僕は寂しかったのだろう。でも子供にとっては、家庭はこれしか知らないのだから、疑いもせずに生きた。夜は子供だけで食べた。母の仕事が遅くなると20時を過ぎることもあった。空腹はお弁当のカタログの写真を見て癒やした。アニメのサザエさんの一家団欒は、アニメのなかだけの架空の話だと思っていた。

家にお金もなかったのだろう。借金をして自営業を始めたから、月々の返済額がとんでもない金額だったと知ったのは大人になってからだ。父の父が生きていたら、お金の面ではもう少し楽だったのかもしれない。父はいつも苛立っていた。余裕がなかった。休みは週に一度で、その休みの日も諸々の予定があって家にいることはなかった。

「子供たちが、愛情のない目をしとるよ」

祖母は母に忠告したらしい。大人になってから聞いたことだ。でも母にもどうすることもできなかった。お金も時間もない生活。子供まで構うには、一日の時間が足りなさすぎた。だから年に一回の祖母が泊まりにきたときぐらいは、子どもたちに好きなものを買ってあげてほしい、とお願いしていたそうだ。

僕らは祖母が泊まりにくる日をそわそわしながら待った。時間が来る前にバス停に行って、カーブの向こうにバスが見えると跳びあがって喜んだ。翌朝、祖母が帰ってしまうと、残っていた布団のなかに入って、姉とふたりで「おばあちゃんのにおいがするね」といって笑いあった。布団にはまだ温もりがあった。


ばあちゃんに喜ばれるような、僕がいい子だったのは二十代の前半ぐらいまでで、その後は、うまく伝えられない仕事についた。僕自身が不本意だったのだろう。どうしてこの道を歩んでいるのか、僕自身が説明がつかなかった。そのままばあちゃんとの接点を避けるようになり、話ができないまま、お別れすることになった。






ばあちゃんへ

最後にちゃんとお会いしたのは、僕が24歳で、車を運転してひとりで山に行ったときだと思います。母が事前に電話をしてくれて、ばあちゃんは僕を出迎えて、お昼ごはんを作ってくれました。当時はカメラにはまっていて、一眼レフでばあちゃんを何枚か撮ったね。そのうちの一枚は母がいまでも大事に飾っているみたいです。

僕は仕事を辞めていて、将来に迷っていたときで、久々にばあちゃんと話がしたかったんだと思います。ばあちゃんはむかしみたいにずっと笑顔だったので、僕も笑っていました。仕事を辞めたことは言っていなかったけれど、なにか知っていたのかもしれませんね。

大学を選んだときも、当初の予定とは違う大学でした。父親は大学名を聞いて「なんだその大学は、知らないな」と笑ったけれど、ばあちゃんだけは「戦前の師範学校時代からある優秀な学校だね」と褒めてくれて、とても嬉しかった。ばあちゃんが青春時代を過ごした東京に、僕は今でも暮らしています。

誰かを責めたり、人生をうらんだり、家系や、歴史や、いろいろなことを呪ったりもしたけれど、前よりも生きやすくなったし、前よりも大事にしようと思うようになりました。いろんな人に出会ったおかげかもしれません。両親も昔よりも穏やかになりました。

相変わらず将来は不安だし、収入も多くはないけれど、なるべく他人と比較せずに、生きていこうと思っています。

最後に病院でお会いしたとき、ばあちゃんは認知症が進んでいて、僕のことを思い出すことができなかったけれど、悲しくはありませんでした。僕がずっとばあちゃんを避けていた罰なんだろうと思いました。でも、やっぱりお礼を、ちゃんと言葉で伝えることがしたかったなと、それはいつも考えています。

24歳のあの日、ばあちゃんが最後まで、僕が見えなくなるまでずっと玄関で見送ってくれて、笑顔で、僕はずっと平静を装っていたけれど、帰り道で車を止めて、ひとりで泣きました。

帰りにもらった風鈴は、いまも目の前の壁に飾っています。

生きるというのは、ばあちゃんが言っていたみたいに、重い荷物を背負って坂をのぼることなのかもしれません。でも、なるべく味わって生きていこうと思っています。

ありがとうございました。また手紙を書きます。




2021年9月21日

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