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小説 『言葉なんて信じなかった僕らのために』



友だちの名前はわからない、と彼女はこたえた。



営業前の静かな店内。丸いテーブルを挟んで、奥に彼女、通路側に僕が座る。手で卒業アルバムを広げる。彼女からは見えないようにして。

「じゃあ、担任の先生の名前は?」
「知らない」

店長が奥で笑った。両手でバツのサイン。残念そうな顔。久々にモデルみたいな美少女だったから。

「てことは、あなたの卒業アルバムじゃないってことだよね」

僕は穏やかに確認する。彼女の目に敵意が浮かぶ。綺麗な顔立ちだから余計にキツく感じられる。

「ごめんね、年齢を確認できないと、採用できないんだよね」

丁寧に断って、アルバムを箱に入れて、彼女に戻す。おそらくは家族のものだ。保険証も借りたのだろう。黙って持って来たのかもしれない。

「では、外まで」

手のひらでドアを示す。彼女は無言で立ち上がる。テーブルの上のオレンジジュースは、触れられないまま、氷だけを溶かした。




夏休みに入って、18歳未満の子が面接に来たのは、彼女で3人目だった。

事情は聞かないし、アドバイスもしない。僕らに出来ることは限られているから。残念だけど、夜の街で働けるのは18歳以上だ。免許証がなければ、保険証と卒業アルバムで確認する。

暑いところを面接に来てくれてありがとう、と言って背を向けると、「待って」とシャツの裾をつかまれた。振り返ると、泣きそうな顔をしている。

「働けないなら、お兄さんが買ってよ」





同棲中のあやねに電話をかけた。

5分ぐらいで、すっぴんにサングラスでやってきた。いつものグレーのジャージ。でも足元はヒールの高いサンダル。キラキラしててあやねのお気に入り。よく段差で足首をひねるけど、好きだから我慢できるらしい。

「じゃあ、いこっか」

あやねが彼女の腕を引っ張る。無言でうなずく。二人は駅に向かった。

僕は店に戻る。もうすぐ夕暮れで、開店準備を始める時間だった。

その夜は忙しかった。お盆休みの前日で、仕事納めのサラリーマンが次々に来店した。プールに群がる子供たちみたいに嬉しそうだった。

途中でアイスが足りなくなり、走ってコンビニまで買い出しに行った。会計の待ち時間にスマホを見たけど、あやねからの連絡は入っていなかった。




僕は水商売をする前、1年間、実家に引きこもったことがあった。

大学を出て、フリーターになり、職を転々とした。進むべき道を完全に見失っていた。もしかしたら、ずっと前から、高校時代から、中学時代から、わからなくなっていたのかもしれない。

自分の感情を殺して、見て見ぬ振りして、惰性で生きてきた。そのツケが回ったと思った。

田舎に戻って、誰もいない夜の砂浜で、ずっと海だけを眺めていた。真っ黒で、空との境は見えなかった。



生きていればいいことがある、って簡単に言うやつを、僕は信用しない。

明けない夜はない、なんてセリフは、朝を迎えた幸運な人たちだけのものだ。

夜が明ける前に、朝が来る前にいなくなったらどうするんだ? と。

1年目の冬の終わりに、親に黙って家を出た。雪の降る寒い朝だった。

東京に戻って、そのまま住み込みでキャバクラで働く。帰る場所がない僕を拾ってくれたのが、夜の街だった。いまでも感謝している。





「むかしのあたしみたいだったよ」

いつものコンビニで、あやねが待っていた。だいたい午前2時に、僕の仕事が終わる。

「ちゃんと帰った?」

「うん。デニーズで甘いもの食べさせて、あたしの過去の話したら、なんかわかったみたい」

そっか、と言って、手をつないでアパートに戻る。いつもの歩道の段差で、あやねが転びそうになる。でも手をつないでいるから、ちゃんと受けとめる。夜中でも蒸し暑くて、前髪がワカメみたいに額にくっついて、2人で笑った。




あやねは時々、眠りながら泣いた。過去を思い出して。心のなかを吐き出すようにして。僕はそのたびに、あやねを抱きしめる。静かな寝息が聞こえるまで。夜が白んで、いつのまにか朝がきていますようにと。




あなたに対して、気の利いたことは言えない。そんな気休めに、意味なんてないだろうから。

でも、もし時間がたてば、なにかが変わるのなら、夜が明けるまでここにいたらいい。

僕はずっとこの場所を守るから。

そのままで、なにも考えなくていいよ。大丈夫。ただじっとしていればいい。なにも考えなくていいから。

あなたをいつもちゃんと抱きしめるから。この場所で。誰にも邪魔されない場所で。またいつでも戻ってきて。

僕の言葉は全部忘れてもいいから。






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