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こどものころにみたゆめのはなし

こんにちは、廣瀬です。

今日はこどものころにみたゆめのはなしをしたいと思います。夢といっても色々あります。将来の夢だけじゃなく、眠っているときに見る夢もあります。

今回は子どもの頃に夢見ていた将来の夢を語っていきたいと思います。

私の子どもの頃の将来の夢は学校の先生でした。小学生の頃は小学校の先生になりたかったですし、中学生になったら中学校の音楽の先生になりたかったです。

理由はいろいろあるのですが、1つは私にはとても嫌いな先生がいたんですよ。小学校5年生の頃の担任の先生です。

私が通っていた小学校は、私が住んでいた市内では特に荒れていることで有名な小学校でした。生徒数が多いということも理由の1つだったかもしれませんが、それだけではなかったでしょう。

5年生の頃のクラスは学級崩壊気味というか、崩壊していました。授業中もずっと騒がしく、席を立ちまわり、授業をまじめに受けている生徒なんてほとんどいないんじゃないかと思えるほどの状況でした。

担任はその状況の改善を行いませんでした。

私は当時保健員会の副委員長をしていて、クラスでも保健委員といして毎日のクラスメイト全員の健康観察を行っていたのですが、誰も話を聞いてくれず、保健委員としての仕事をなかなか遂行することが難しい状態だったんです。

それを私は担任に相談したのです。すると返ってきた言葉はそれを考えるのはあなたの仕事でしょうでした。子ども心に思ったんですよね、いろいろ考えて実行して、それでも改善しないから相談したのに、というより学級崩壊を放置しているのはあなたなのに、学級崩壊している状況を改善するのは私の仕事なのかな、と。

そこから一気に嫌いになりましたね。

それだけではなく、私はその当時から精神的に不安定で、よく保健室に通っていました。学級崩壊したクラスで私は病んでいましたし、その場にいたくないと考えていました。

担任にとっては私も学級崩壊しているクラスを構成している問題児だったことでしょう。だから、私は保健室に行くことを禁止されていました。とはいえ、保健委員ですので昼休みは保健委員の仕事で保健室に行くことはできましたが、それ以外の時間に保健室に近づくと叱られました。

私には逃げ場を作ることも許されなかったのです。

この先生に会ってから、私は同じ思いをする子どもを増やしたくないと思い、学校の先生になりたいと思いました。

中学校に入り、これまた中学校も市内ではとても荒れた中学校だったわけですが(中1の時学年の大半が喫煙で呼び出しされたりする。それでもまだマシになったほう)この学校で私は吹奏楽部に入部したのです。

それはそれはしんどい部活だったのですが、その顧問が今でも私が尊敬する先生ですね。

厳しかったですけど、優しかったです。めちゃくちゃ怖かったですが、本当に大好きな先生でした。その先生の姿を見て、私は中学校で音楽の先生をしながら吹奏楽部の指導をしたいと思ったわけです。

でも根っこの部分では、やはり小学校の頃の担任のような教師と出会う機会を減らしたいという部分が大きかったです。

ですが、私は高校を中退し、高認は取得したものの大学に通う余裕はなく、結局こどものころにみた先生になるという夢は諦めてしまいました。

今となっては、この病気を抱えながら学校の先生になるということは厳しかったと思うので仕方がないとは思いますが、もう一回人生をやり直せるのなら、学校の先生になりたいですね。

皆さんのこどものころにみたゆめは何ですか?

それを叶えられていますか?

叶えられたからと言って必ずしも幸せかどうかはわかりませんが、幸せであることを祈ります。

最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回の更新でお会いしましょう。

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