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サラリーマンは、貴族の読書家・貴族の物書きになれる

佐藤ひろおです。会社を休んで三国志の研究をしています。
昨日、早稲田大学の生協で、永田希『積読こそが完全な読書術である』を買ってきました。書店の正面の高いところに、ランキング1位?フェア?で飾られていたので、手に取りました。

今日、出版される本の種類がものすごく多い。
ぼくたち読者は、その本を買うと買わざるとに拘わらず、「積ん読」を余儀なくされ、後ろめたさを味わう。しかし、後ろめたがる必要はないと、永田氏はいう。
なぜ出版点数が多いか。出版社が自転車操業だから。本を作るには、お金がかかる。まず製作費が出ていく。完成した本の売り上げを、さきに見込みで受け取る(=お金を借りる)。借りたお金で、またつぎの本を製作する。一定の期日がきたら、売り上げを相殺・精算する……。もし売り上げが対前年で下回れば、たちどころに転倒する。借りたお金が相殺できないから。

書籍の市場の「パイ」が拡大する前提で、どんどん車輪の「回転数」「回転の半径」を大きくし、ぐるんぐるん、弾みを付けて回していくには、とてもよくできた仕組みです。しかし縮小局面には堪えられない。というか、縮小することが前提で作られていない。
精算が不履行の出版社はつぶれる。下手をしたら、あいだで流通と金融の機能を果たしている会社(取次という)がつぶれます。全国の本屋さんから、雑誌や本が消える……ということも、起こり得る。

出版される本の種類が、不況にも拘わらず増え続ける(不況だからこそ増え続ける)のは、車輪が焼き切れんばかりに、自転車操業で暴走しているからなんですね。これ、十年以内に大変なことになるんじゃ……。

ひるがえって。「本が好きで、読むのが楽しい」というひとは、この供給者側の都合に引っぱられ過ぎず、積ん読することに後ろめたさを持たず、自分のペースで本を読めばいいよね、と永田氏は言ってます。
もはやそれは、ぼくの捉え方をすれば、有閑階級、高等遊民、貴族の発想ですね。「生産者諸君」が苦労しているが、そこからは距離をおいて、ときどき励ましの言葉を贈り、成果を受け取るという。

ぼくが思うに、今日いろいろな本が読めるのは、自転車操業のおかげです。永田氏は、「供給者側のノルマ達成のために作られる本が多くて、付き合いきれない」という論調ですが、車輪の熱気から生まれた、まぐれ当たりの本もあるでしょう。 ※ まぐれ当たりというのは、供給側を潤すベストセラーという意味ではなく、自分にとって面白い本のことです。

このnoteには、ものを書くのが好きな人が多いと思います。noteの公式も、出版されることを目指そう、みたいに「激励」していますが、ぼくは、わりとどうでもいいと思ってます。目標になりません。
だって、上記の自転車操業のなかに組み込まれるのって、窮屈ではないでしょうか。出版社側の経済的な都合につきあい、売れ筋の考え方に「合格」を出してもらってまで出すのって、意味ありますかね。

本のかたちが好きならば、自分の原稿のPDFを印刷業者に送れば、製本してくれます。Kindleで発表すれば、amazon社が作ってくれた、閲読のプラットフォームと決済システムを使うことができます。

(商売などのために)求められる要件を満たすべく、その最短距離を割り出して、あとは手を動かす。それって、ゲームとしては成り立ちますけど、そんなに面白くないのでは……と思っちゃいます。たとえば、本屋さんが「売りたい」大賞に選ばれるべく、受賞作品の傾向を分析し、作家デビューした方は、すごいと思いますけど、ぼくもやりたい!!とは思わなかった。
上のnoteで、今年9月に書きました。

カネにならない文章は、シロウトの駄文だ!!価値がない!!という論調はあるでしょうが、カネにならなくても、よくなくないですか。

出版業界の台所事情にとらわれず、読みたいときに読みたい本を読み、書きたいときに書きたい文を書き、気分が乗ったら本にする。それはもう貴族の所業ということができましょう。それができるのが、なんと、現代のサラリーマンだと思うんですよ。
サラリーマンはラクではありませんが、1週間の労働が40時間とか50時間ならば、十分に「余暇」「余力」はありますし、本を買うくらいならば、お金は手元に残るでしょう。スマホなりがあれば、このようにnoteを書くことだってできます。産業革命以来の恩恵ですね(おおげさ)。

ぼくは、どこをどう間違っても、ぜったいに、出版業界に対して、「ざまあみろ」なんて思いませんが(出版業界からの恩恵はものすごく大きい)、永田氏がいうように、やや彼らの都合から距離をおいて、自分なりの「読み」「書き」をできるのが現代なのではないか。と思います。

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