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お金が「目的」なのはサギ;お金の出入りは「結果」に過ぎないと思う話

こんばんは。佐藤大朗(ひろお)です。
本日もご覧いただき、ありがとうございます。こちらは、文系学問とお金とを「仲直り」させたいnoteです。今日は、お金との付き合い方、基本的な態度・スタンスについてお話をしたいです。

ぼくの経験上、お金の話をしている人、記事、ブログなどは、たいてい怪しいというか、胡散くさい
…という認識がありながらも、このnoteでも、お金について積極的に扱っています。一種のタブーをおかす行為です。
しかし、研究とお金は、切っても切り離せない問題だと思いますので、敢えて、地雷原に踏み込んでいきます。

お金について言及すると、胡散臭くなるのですが、怪しさから逃れる方法が、たった1つだけあると思っております。発信者自身(および、発信者が想定している、対象の読者)にとって、
お金もうけが目的になっていない(お金が、あくまで補助的な手段、道具として扱われている)という場合に限って、信頼性を保てると思うんです。

ぼくの場合、好きなときに好きなだけ、歴史の勉強がしたい、今であれば、三国志の勉強がしたい、というのが先にあります。
それが根幹にあって、それを実現するための道具、手段として、お金との付き合いがあると思っています。

これまでの活動を振り返ったときに、
勉強をがんばった結果、頂けるお金であれば、なんの臆面もなく、「ありがとうございます」って受け取ってきました。
勉強に必要なお金であれば、まったく恥じることなく、「お金を支援してください」ということができます。
※「~ことができる」という可能表現の使いどころが変かも知れませんが、ぼくは、これが最初からできたわけではなく、努力と試行錯誤の結果、手に入れたスキルなので、「~することができる」という書き方をさせて頂きました。

現に、本を書いて印刷して、たくさん販売してきましたし、数十万円単位~それ以上のお金を募ってきました。
購入者、ご支援者の皆さま、ありがとうございます!!

お金の授受について、へんな気負いがない。お金が入ったとき、めちゃくちゃ喜ぶわけでもないし、それほど執着するわけでもない。
「歴史の勉強がしたい」っていう気持ちが先にあって、お金は、それらの活動をめぐる、潤滑油?水?血液?として、結果的に流れ出ていくし、流れ込んでくるものだと思います。

まちがっても、このnoteを読めば、お金がもうかります!なんて言いません。そんなのウソですし、サギですからね(笑)
道具・手段・結果、副次的な指標としてのお金について、考えることを続けていきます。発信も続けていこうと思います。

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