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〈修士課程〉子供の研究報告/大人の研究報告

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

久しぶりにnoteを書きます。一昨日に、大学院で研究報告をしました。修士2年生で、今年度に修士論文を提出したい。提出期限が2024年1月9日だから、あと2ヶ月ちょいですか。あんまり時間が残ってないですね。

先生のコメントは「夏休みに勉強をがんばったというレポートとしてはとても良いできだが、研究論文としてはまとまりに欠く。分かりにくい」

このコメントにはとても納得しているというか、わざとやっているので、ねらいどおりではあります。前回の研究報告は6月下旬で、夏休みを挟んで4ヶ月のあいだ、これだけ勉強をしました、ということが言いたかったので、これはこれでいいのです。
すべてを出し切った。とくに直前に2週間ほどは報告レジュメをまとめるためにメンタルがかなりツラかった。だから、へとへとになりましたし、脱力しましたけど、外傷的ダメージは受けてないです。

修士課程に進学する前、独学者のとき(研究室に先生のご厚意で出入りさせて頂いているとき、あるいは科目等履修生として)は、研究報告の授業で発表のチャンスを頂いたときは、「研究成果」の完成品を報告して、あわよくば到達度を評価して頂いて、「どこに投稿する?」っていうコメントを受けられることを目指していた。
これは「大人の研究報告」と言えるでしょう。

いやいや研究報告を発表する機会なんだから、それは当然ではないか?という反問は当然なのですが、修士課程に正式入学してから(2022年4月以降)の研究報告の授業は、成果・完成品は持っていかない。これは、いわゆる「劣化」ではなくて、敢えて、わざとそのようにしていました。

年齢はアラフォーだけど、学問の世界に身を置くものとしては、「学部卒」でしかない。ストレートならば、23歳で到達する「学年」なんです。ですから、アラフォーまでに自分が蓄積した(と一応は思っているもの)と、独学で積み上げてきた成果をリセットして研究者としての土台を広げる、研究者としての素質をやしなう。
そのためには、目先の成果を取りに行くのではなくて、これだけ貪欲に勉強していろいろ考えました、、という報告を敢えてやる。
これは「子供の研究報告」と言えるでしょう。

大学生が、まったく興味のない授業で単位だけを拾うために、アリバイのために「それっぽい」レポートを仕上げるのとは違いますよ。もっと小さな子供です。そんな打算すら持てない幼児です。

イメージは、大人から見れば少しも価値を持たず、技法・アウトプットの仕方に工夫や配慮が見られないが、当人なりの力作を持ってくる子供。
小さな子供が、一生懸命、絵を描いて持ってきた。芸術的価値、市場的価値を持つはずがないし、被写体(題材)が何であるかもよく分からない。提出する先(幼稚園や学校)、飾るべき展覧会なんかありません。けれども、ものを見る力、手を動かす力は、順調に発育してるんじゃない?という角度から見れば、大人が成長を見て感じ取れるような絵です。

アラフォーなのに「子供の研究報告」をしているんじゃないよ!聞き手に配慮して、成果だけを持って来なさい!というご批判があるには、200%も承知しているのですが、
修士課程に入学し、擬似的に「23歳」に戻って「素質の有無を占う」「将来性を見極めてもらう」という、人生の生き直し、別経路の人生を歩むというのは、そういうことではないか。というか、そういう捉え方をしても許容して頂けるのではないか、という期待と甘えに、すべてのエネルギーを投入して振る舞った(全振りした)修士課程だったな、と思います。

それを現代風の言葉で捉えると、「リカレント教育」「アンラーン」みたいになるのかも知れませんが。当人としては、恥も外聞もなく、夢中に「幼児退行」をしていた、という気がします。
いちばん吸収効率がよいのは、おそらく幼児のメンタリティだ。

アラフォーのくせに「素質を」「将来性が」と言っているなんで、率直に申し上げて、痛々しい大人、成熟に失敗した社会不適合者、という気がします。実際にそうなのでしょう。
でも、敢えて、です。

カネを払えばお客様で何をやっても許されるのだ、というテーゼは採用していませんが、学費を詰んで「入学する」、ちょっと古くさい言い方をするならば「先生に入門する」「弟子になる」というのが、修士課程への入学だと思うので、その通り存分に振る舞わせて頂きました。

「入門」「弟子」なんて時代錯誤だ、という批判もあるでしょうが、文系の大学院は、良くも悪くもそういう部分はあると思います。知識とものの見方を全部投入して、言説の当否を問うという学問の仕方になります。この前近代的な言い回しは、わりと感覚にあっています。
少なくとも、「クライアントとコンサルタント」のような関係ではありません。特定の問題に絞り込んで、人身攻撃にならないように巧妙に配慮し、テーブル上のカードだけで完結するようなスマートなゲームへの「アドバイス」みたいにはなりません。

ただし、あと2ヶ月ちょいで修士論文を仕上げなければいけない。擬似的な「子供がえり」は、今回の研究報告で終わりにしなければいけない。当人は夢中だが、周囲の大人たちは退屈に耐えながら、「でも育成のためだしな。育児ってこんなもんだよね」という了解のもとで、テゴコロを加えて温かく見守る、、というターンは終わりでしょう。

修士論文は、大人が読むに堪える、大人に読ませるレベルに到達にしたものにしなければいけない。
修士論文は、世に出す(投稿して、世間から評価されることを一義的に目指す)ものではない。しかし、副査の先生がつく(早稲田のぼくの所属の大学院の場合は2名)。この副査の先生たちが、専門が隣接分野の「他者の目」になる。
主査は自分の指導教員で、いわば師匠と弟子であり、擬似的な親子のようなもので(その喩えが妥当なのか、近現代の大学教育においてどうなのか、という問いはさておき)甘えが許されるかも知れないが、副査の先生は「近所のおじさんおばさん」「他人」です。

たった数ヶ月で、「育ち盛りの子供」ごっこから、「大人」に戻ることができるのか。
これはできるだろう。というか、できなければいけない。アラフォーなので。社会経験を通じて培った常識と、適応力を取り戻せ。
修士課程=幼児性の発揮は、一度は強制的に、若干の無理を感じながら叩きだした「設定」ですけど、やっぱりぼくはアラフォーなのですよね。会社にいけば、日給で数万円をいただく社会人ではある。急に顔つきが「すん」と変わって、大人みたいな振る舞いをしましょう。

修士課程のなかにいるうちは、子供でいられました。研究報告では、研究の成果よりも自分の成長を。「私の成長を見てください、見守ってください。将来性があるならば見つけてください、私を見出して下さい」というメンタリティは、もう終わりなのだ。それが修士論文を書き上げるということ。

などと、研究報告での先生のコメント、「夏休みに勉強をがんばったというレポートとしてはとても良いできだが、研究論文としてはまとまりに欠く。分かりにくい」から考えました。疲れてめちゃくちゃ眠れます。

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