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会社を「わたしたち」の共同体と感じているか問題

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

あおたまさんの記事を読みました。

田内学さんの本を手がかりに、
・金銭の取引で、人間関係(共同体)をバラバラにする
・金銭の取引をこえて人間関係(共同体)をはぐくむ

の二項対立を捉えているようです。

たとえば家のそばのコンビニで、200円の唐揚げを買った。これは普通の商取引であり、めちゃくちゃ合法です。そのときにどう感じるか。

200円で空腹を解決できた。お金を払ったのだから唐揚げが手に入るのは当然だ。1回限りの取引で、過不足なく価値の交換をした。オーナーさんやバイトさんの事情や気持ちは考えてもみない。
むしろ揚げる時間が遅い、買った時点で冷めている、唐揚げのサイズが小さい(またステルス値上げだ)。たまたまこの店で買ったけど、もっと家に近いコンビニができたら、この店舗で買うことはないけどね。

などと、意識せずとも考えているのか、

オーナーさん・バイトさんが働いてくれたおかげで、唐揚げを買うことができた。彼らは同じ地域・国の一員(「わたしたち」)だ。

と思うのか。
前者がやや雄弁になっちゃいましたけど(笑)

ありふれた合法的商取引(コンビニで唐揚げを200円で購入する)であっても、2つの感じ方があります。匿名同士とのドライな交換なのか、「わたしたち」の一員が尽力してくれたことへの御礼なのか。

近所の薬局で、ポイントカードのアプリを出すと、「いつもありがとうございます」と言われます。それは、店員さんがぼくを覚えているからではなく、スマホのアプリを見て、まるで機械のように自動音声を再生したに等しいが、ドキッとする。顔を覚えられると、そのお店に二度と行けなくなるという話も聞く。
その反面、コンビニの店員さんに、タバコを注文して「いつもの!」と言う困ったお客さんもいるらしい(知らんけど)。
「いつもありがとうございます」恐怖症は、匿名同士の取引を望んでいる。わしのタバコの銘柄ぐらい覚えとけ!というのは、共同体のよすがとしてコンビニに期待している。

ここで考えてしまうのは、自分が会社で働くことです。
会社で働くというのは、「労働力という商品を会社に売却する」ことだ。学校の教科書にも書いてあるのかな? かたや「わたしたちの会社」が社会に提供したい価値をつくるために私もがんばる、という2つの捉え方ができるだろう。

自分の勤務先(会社・同僚)を、「わたしたち」の一員として感じられているだろうか。1日、あるいは1時間、さらには5分単位で労働力・時間を切り売りする相手と感じていないか。月給はどうせ変わらないのだから、なるべくラクをするのが勝ちだ、と考えていないか。

雇用形態はあまり関係がない。お店と一体になってお客様のためにがんばっているアルバイトもいれば、「抜き取る」「逃げ切る」こと以外に目標がない正社員もいるだろう。退職金の増加、あるいはボーナスが支給されたら辞めてやらあ!と秒読みモードになった社員のメンタリティが最初から発動していないだろうか。※それなら辞めどきだろう

今回の話で誤解したくないのは、「わたしたち」と捉えたからといって、無料の馴れ合いを肯定しているのではない。
「共同体の一員、かけがえのない同朋なんだから、お互い様・おかげさまの精神やろがい。唐揚げをタダでくれ」という話はではない。会社の事例でも、「わが社の理念に賛同しているならば、自発的にサービス残業をして当然だ」ではないです。
ルールどおりサービスや代価を授受した上で、サービスの提供者・受給者を「わたしたち」の一員として尊重し感謝する気持ちが持てるか。「わたしたち」の共同体がよりよいものとなるように、持続的にがんばれるか。
滅私奉公=自爆営業=組織(共同体)の正義ではありません。

世界中をファーストクラスの飛行機で飛び回る、外資系証券マンのネオリベラリストのグローバリスト(そんなひと、いるのだろうか)か。八つ墓村のように因習に支配され、地縁的呪縛をしかけてくる寄り合いのボスか(これならいそうな気がする)。
そんな二項対立じゃないと思いますが、身の置き所を、機会ごとにうまくプロットしたいものだなと思いました。

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