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「当事者意識」「経営者目線」どちらも要らない

佐藤ひろおです。早稲田の大学院生(三国志の研究)と、週4勤務の正社員(メーカー系の経理職)を兼ねています。

「当事者意識」「経営者目線」という言葉は、どちらも使うべきではない、という記事です。
ただし、「キラキラした言葉」「管理・監視して締め付ける言葉」「やりがい搾取」だから使うべきでないと言いたいのではありません。また、「当事者意識」と言うべきでない理由と、「経営者目線」と言うべきでない理由は異なります。

この内容は、まるで新聞の投書(今でもあるのかな?)のお小言になりそうなので、note記事にすることを躊躇していましたが、大学院で考えたこととリンクしたので、書いてみようと思います。
※後半は、朱子学(儒学)の話につなげます

「当事者意識」と言うべきではないのは、そんな言葉が聞かれる時点で、その組織はすでに崩壊しているからです。
会社などで「当事者意識」が叫ばれることがあるだろう。こんなことが言われるのは、職場から当事者意識が失われているからですね。でも、いかに立場の軽く、給料が安い社員・バイトであっても、当事者には変わりないんです。その意識がないということは、心ここにあらずです。
「意識の喪失」って、気絶ですからね。働き手が気絶しているも同然って、そんな職場はもう終わってます。気絶した人に、「意識を持て」と説教しても仕方ないです。電気ショックや冷水ぶっかけみたいな物理的な働きかけをするのでしょうか。
職場で「意識」を失った理由を探すほうが先でしょう。

「経営者目線」と言うべきではないのは、そのお説教をされる人が、経営者ではないからです。経営者ではないひとに「経営者目線」を持たせたいと思ったとき、選択肢は2つで、
・経営者にする(すぐは無理でも、来年か再来年に)
・「経営者目線」を期待するのを中止する
これ以外、なくないですか。

当事者であるのに、その意識が失われているのは、もう末期症状だから措置なしです。経営者でないのに、その目線を求めるのはナンセンスです。

こんなナンセンスな言葉「当事者意識」「経営者目線」が、何か意味がありそうなこと、何かいいこと、みたいに組織のなかに飛び交うのって、「形骸化」との戦い方が甘いからではないか。
すべての教えは、容易に形骸化します。だから、「形骸化してないか」「ナンセンスになってないか」「かえってデメリットを生んでいないか」というチェックがつねに必要なんですけど、それを怠りがち。

「当事者意識」も「経営者目線」も、悪いことじゃないと思います。あったほうがいいし、できれば大きい方がいい。しかしもはや、だれのためにもなっていないし、どこの組織を幸せにしてもいない(ように思う)

朱子学(儒教)の授業を受けていて思ったんですが、
学問や宗教って、形骸化との戦いなんです。

始祖や師匠(孔子、朱子など)が、何か良さそうな教育をした。それを弟子たちが書き留めた。その書き留めたものが継承され、継承された文が解釈されて意味が膨らんで、形骸化していく。数百年に一度ぐらい、定期的に、「そもそもどういう状況で、何のためになされたアドバイスだったんだっけ?」と点検する。
学術史、思想史、宗教史というと、取っつきにくいような感じがしますけど、この一連の運動です。定期的な振り返りなんですよね。

どの書き手や実践者も、
「始祖や師匠の教えは、本来はこうだった」
「原点回帰だ」
「教えを理解するためには、この解釈が不可欠だ」
ってつねに言い続けているけど、
「いやいや、それはあなたの勝手な理解だ」
というツッコミが入る。

人間は愚かだ、と言いたいのではなくて、形骸化のリスクを認識しながらも、始祖や師匠の教えをメモして参照したい、参照すべきだ、という考えが途絶えることはない。押し殺されることはない。
この変遷を、遠い距離(たとえば後世、たとえば異国)から見たとき、
・同じことの繰り返しだ
・簡単を目指して、逆に難しくなってる
・かえって本来の目的から遠ざかった
みたいに見えますけど、その試行錯誤のプロセスはおもしろい。

たとえば、ホテルのお辞儀の角度は、最初には相手に対する敬意や感謝があったが、相手や状況ごとに場合分けされてマニュアル化され、研修メニューになって審査され、チェック係が本社から派遣され、24時間撮影してAIで角度を検知するようになり、みんな処罰を恐れて、もはや思考停止で腰を形式的に折っている、みたいな。
創業者が最初にお客さんを迎えたとき、どんな気持ちで頭を下げたのだろうかを考えてもいいはず。ただし「創業者・神話」みたいに、ありがたいお話になって新入社員研修で暗記させるのも、形骸化の濁流に押し流されています。社員全員が「おじいちゃんっ子」なのは気持ちが悪いです。

今回の記事は、「当事者意識」「経営者目線」を目のカタキにしましたけど、この内容じたいが悪いとか、これを口にするひとが悪だとか言いたいのではなくて、本来はよきものが、慣習化し形骸化し、権力とセットになって人間を縛る、みたいなことは不可避なので、チェックを怠りたくない、という話をしました。
そうしないと、毎日の仕事があまりにつまらないのではないか。

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