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20代でやっておくべきこと/35歳転職限界説の合理性

佐藤ひろおです。会社を休んで早稲田の大学院生をしています。
三国志の研究を学んでいます。

かつて「35歳転職限界説」がありました。
いまは、「人生100年時代」だの感染症による雇用環境の変動などで、あんまりオモテ立っては言われませんが、ぼくは30代を終えようとしている自分を振り返り、周囲を見渡して、「35歳転職限界説」は、わりと合理的だったと思ってます。

経験上、人間を特徴づける主要因は、年齢によって変化します。
・20代=生まれ持った才能、周囲の環境
・40代=自分がやってきたこと

20代の人物像は、先天的な要因で決まる。
「どんな親のもとに生まれるか」で、身体能力や顔面偏差値が決まる。「どんな教育を受けたか」で能力が決まる。教育は、学校・学習塾、そして大学・大学院、アルバイト、新卒で入った会社を含みます。
極端な言い方をすれば、20代時点でどんな人間であるかは、「ガチャ」の結果でしかないので、本人に責任はない。

40代の人物像は、後天的な要因で決まる。
生まれる親は選べず、受験制度や就職活動に翻弄されたが、30代以降、自分が何をやってきたか。これが差になる。
身体能力や容姿は、全員が衰える。「40歳を過ぎたら、顔に責任をもて」みたいな箴言?がありましたが、当たってるでしょう。顔面の骨格やパーツの美醜よりも、考え方や性格、生活態度が差となって表れます。

このことから導き出されるのは、
20代でやっておくべきは、「少しでもいい環境に所属できるように、這い上がる努力をすること」。これだけ。
若者が恵まれない環境でどれだけ努力しても、よい環境にいるひとには勝てません。反対に、マグレでも恵まれた環境に飛び込めれば、大胆にサボっても構わない。周囲に流されて上昇できます。

へんな話、ハズレ環境に足を突っ込んだとき、「すべてを投げ出して逃亡したら、名声が下がって、信頼されなくなるんじゃ?」という不安がよぎっても、逃げていいんですね。20代なら。
若者がハズレ環境で足掻いても、ほとんど得られない。そもそも、損なわれるべき名声や信頼をほぼ持っていない。不義理を働いて逃走してもいいから、環境を切り替えるのがよいと思います。

さて核心の30代です。
30代は、先天的な運命に翻弄される時期(20代)と、後天的な努力で成し遂げる時期(40代)のあいだにあります。海流が入れ替わるような感じで、グラデーションとなる。濃淡の偏りがあると思います。

まんなかの「潮目」に当たるのが、35歳です。
35歳は「万事が環境のせい」と「万事が自分のせい」が反転する時期だと思われる。このあたりから、転職が難しくなる。個人の観点からしても、慎重にやったほうがいい。
35歳は、「会社(環境)に育ててもらいます」と「自分が会社(環境)に貢献します」の重みが、入れ替わりつつある時期。マッチングが難しい。

大学院に入学した経験から

ぼくがこれを言うのは、39歳で大学院に正式に入学し、感じたことに基づいています。
はじめは、22歳(ストレートで進学した修士1年生)と机を並べて勉強したら、フレッシュな気持ちで学び直せるのではないか??という期待が、1ミリぐらいあった。他方で、「自分は自分だ。リセットされてたまるか。22歳と同列では辛抱ならない」という気持ちもありました。※メンヘラ

正式入学するまでは、教授たちとは、「異業種交流会」でした。ヨコの関係ですよね。正式入学すれば、教授は全知全能で、学生には人権がない、というタテの関係になるのかな?と思っていました。

近代的な話法になじまないが、学生・弟子には人権がない。フィクションでもいいから、演劇的な役割として学生・弟子の人権を否定し、からっぽにしたほうが、教育の効果が高いです。20代ならそれが可能。

39歳で正式入学した結果、ぼくはナナメでした。
けっこう微妙な立場です。

学生として、教えを請う立場。明確な上下関係。これは揺らがない。
そうでありながら、社会人として身に着けたスキルで手伝ったりすることもあり。たとえば、表計算ソフトのエクセルで、研究室の作業プロセスが改善できるのは、社会人の部分を使ってるなと思ったりとか。

30代後半のぼくは、「殻をむきたてのゆで卵」みたいな22歳の青年にもどることはできない。自他ともにそうで、やっぱり、すでに形成された自分というものが、強く出ちゃうんですよね。
※それがお前の限界だ、と言われたら、謝るしかないです。

人間は20代は先天的な環境によって生かされ、40代は後天的な実績によって生き、その中間の35歳ぐらいに潮目がある。30代も後半になると、やはり環境に依存して生まれ変わることはできない。という話でした。

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