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SFの読みにくさについて

本を読んで、思ったことを言語化したいなぁと感じた。そういえば前にnoteのアカウントを作ったことを思い出したので、久々に文章に書いてみる。

『時を壊した彼女』(著:古野まほろ)を目についたから読んだのだが、これが非常に読みにくい本だった。帯に書かれている”タイムリープ×本格ミステリ”というコピーで、SF要素のあるミステリだと思って読み始めたのだが、全然内容に集中できない。

半ば意地になって、半分くらいまで(200ページくらい)読み進めたところで、「あっ、これはミステリ要素のあるSFなのだな」と読み方を変えた途端に、面白くなって一気に読了してしまった。

この自分の中での意識改革で読みやすさが変わった体験が面白かったので、ぼんやりと考えてみたわけです。

それで結論としては、「文脈としての表現の省略度」がポイントだったのではないかなぁと思ったわけです。

例を挙げると、「男が一人夜の店でコーヒーを飲んでいた」という描写があったとする。それが村上春樹であれば、男は煙草を吸っているし、夜の店はバーであろうし、コーヒーにはブランデーが入っていて、おそらくこの後美女と出会う。森見登美彦であれば、男は京大生で、夜の店はさびれた喫茶店で、コーヒーはブラックで、このあとは延々と独白が続くのかなと思う。

この「書いていないことをどこまで解釈していいか」という問題を勝手に「文脈としての表現の省略度」として定義する。このチューニングがかみ合わなかったことが、私が『時を壊した彼女』を読みづらく感じていた理由なのかなと思ったわけです。

で、振り返ると『時を壊した彼女』は限りなく「文脈としての表現の省略度」が低く、それがSF、それも世界を一つ構成するようなハードなタイプのSFに近いのかなと思ったわけです。

私は最初『時を壊した彼女』は学園系ラノベ寄りのSF要素がアクセントになった軽い小説だと思って読んでいたわけです。文章の解釈に遊びがあって、雰囲気で楽しんでいけるようなものと。

ところがまあ硬派だったというか、書いてあることを100%そのまま受け取らないといけなかったわけです。作家は頭の中にあるものを過不足なく誠実に書いていると信じて、身をゆだねていくという感じでないといけなかったのです。

書きたいことを書けている気がまったくしないのですが、チャラ男の話だと思って聞いたらつまらなかったけれど、堅物の話だと思って聞き直したらすこぶる面白かったので、話の聞き方は相手に合わせたほうが楽しいよ、と言いたいだけでした。


「みんなのフォトギャラリー」なんて機能が増えたのですね。いいですね、これ。

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