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あまりに好きすぎて…

今日のおすすめの一冊は、安岡正篤師の『「酔古堂剣掃」を読む』 (致知出版)です。実は、「酔古堂剣掃」の中の言葉が好きすぎて、「酔古堂」という名前のお店を出したことがあります。残念ながら撤退してしまいましたが、好きな言葉を店内の壁に、ところ狭しといくつも書いたくらい入れ込んで作った店でした。

それはたとえば、こんな言葉でした。「人、一字識(し)らずして而(しか)も詩意多く/一偈(いちげ)参ぜずして而も禅意多く/一勺(いっしゃく)濡(ぬら)らさずして而も酒意多く/一石暁(いっせきさと)らずして而も画意多きあり/淡宕(たんとう)の故なり」

安岡先生は本書の中でそれをこう解説しています。人間は一字も知らなくても、つまり文字の教養がなくても、その人自体詩人的である。「詩意多く」とは文字なんか知らんでも、いわんや学校なんか出ないでも、文芸の本なんか読まんでも、天品というか、人柄そのものが詩的である、いわゆるポエティカルである、あるいは芸術的である。

こいうことは確かにあります。文字のない詩人、これは田夫野叟(でんぷやそう)にも自ずからあります。同じように「一偈参ぜずして而も禅意多く」であります。禅にはいろいろ公案というものがあって、俺は公案何則通ったということをよく言う。『碧巌録(へきがんろく)』なんか百則もある。

教科書みたいに参禅公案の種類を集めたものがたしか千二、三百則あったような気がするが、そんな参禅なんてやらなくても、しかも禅そのものの心、禅意の多い人がいる。かえって臭い禅僧とか、禅客なんかよりもずっと超脱した妙境にある人物もいる。

「一勺濡らさずして而も酒意多く」、ひと雫(しずく)も飲まないで、しかも酒意多い。酒を飲む人間よりも飲酒の味・趣を豊かに持っておる者がある。酒が飲めなくとも酒を楽しめる人、あるいは酒座、酒の座を楽しませる人、これは往々にある。

「一石暁らずして」とは一つの画き方も知らないで、しかも人間そのものに画意、絵心が豊かにある。こういう人もある。どうしてそうなのかというと、「淡宕の故なり」と締めている。「淡」はこれまたその意味がなかなか難しい。「淡」とは味がない、味が薄いというような意味ではない。

それならどういう意味かというと、この本当の意味がわかって、実は淡水とか淡交、君子の交ということがよくわかる。一言で言うなら、甘いとも苦いとも、なんとも言えない妙味、これを淡という。

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