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人生は修行の場ではない

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『もうひとつの幸せ論』(ダイヤモンド社)です。その中から「オリンピックが終わって」という題でブログを書きました。

本書の中に「人生は修行の場ではない」という心に響く文章がありました。

「人生は修行の場である」「修行することが目的である以上、人生には苦しみや悲しみが多くて当然だ」「人生は、辛く悲しいものの集積である」と考える人がいます。

「目の前の出来事はすべて『修行』のために存在している。悩みがあるのは当たり前だ。だからこそ、立ち向かったり、我慢や忍耐をしたり、乗り越えたりしなければいけない」そう考えることで、もしあなた自身が生き方がラクになるのであれば、「人生=修行」ととらえても、別にかまわないでしょう。

ただ、「宇宙の構造」は違います。人生は「修行の場」として設定されているわけではありません。人生は、「喜ばれるための場」であり、「感謝をする場」であり、なによりも、「楽しむため」に存在しています

「人生は苦しみに満ちている人と悲嘆にくれてばかりの人」や、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句ばかりの人」に比べれば、人生を「修行の場」と位置付け、「乗り越えていくしかない」「我慢するしかない」と考えている人のほうが、まだ一歩も二歩も前進していると思います。

でも、それではまだ、「途中の段階」。私たちが「肉体を持ってこの世に生まれてきた理由」は、「人生を楽しむため」にほかなりません。現象はすべて「ゼロ(中立)」です。どのようにとらえるかは、結局のところ、あなた次第。

「第13回バン・クライバーン・国際ピアノコンクール」で優勝した(日本人初)ピアニストの辻井伸行さんは、「全盲」というハンデを背負っているのです。けれど辻井さんは、「今までつらいと思ったことが一度もなく、楽しくピアノを弾いてきた」と受賞後の記者会見で話しています。

目の前の出来事を「修行のために存在する」ととらえ「だから耐えなければいけない」と意気込むのもかまいません。けれどもし、「人生は楽しむためにある」と認識することでラクになるのであれば、そのようにとらえてもよいと思います。

◆多くの偉人伝や、成功者の話を読むと、幾多の試練や、筆舌に尽くしがたい苦労の連続を乗り越えたのちに、その成功した姿があると一様に書いてある。まさに、波乱万丈、山あり谷ありの、まるでドラマのようにストーリーが展開する。

しかしながら、そのような起伏の激しい一生を送ってこなかった人もいる。いわゆる平々凡々と静かな人生を過ごすことができた人だ。大成功もしなかった代わりに、大失敗もせず、浮き沈みの激しい人生も経験しなかったということだ。

すると、「人生は修行のために存在する」という人たちからは、「苦労が足りない」とか「困難を乗り越えた経験がない」、だからダメなんだ、などとバカにされることもある。そして、「ノーテンキ」、「極楽トンボ」などとののしられることもある。

しかし、「人生は楽しむため」に存在するのだと思うなら、平々凡々の人生こそ、ありがたくて、しあわせで、たのしくて、ツイていて、感謝の人生となる。戦時下の困難な時代に生まれた人たちには、その時代に生まれてきた意味がある。今この時代にゆたかな日本に生まれたなら、今この時代に日本に生まれてきた意味がある。

困難や苦労を乗り越えなければ、幸せは手に入らないのではない。幸せに気づいた人が幸せなのだ。「人生は楽しむためにある」という言葉をかみしめたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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