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頼まれやすい人に

今日のおすすめの一冊は、小林正観さんの『人に優しく、自分に甘く』(知的生き方文庫)です。その中から「流れを受け入れる」という題でブログを書きました。

本書の中に「頼まれやすい人に」という心に響く文章がありました。

私たちは「目標を持て」と教え込まれてきました。「達成目標」を立て、そこに 向かって汗をかくこと、努力すること、自分を磨くこと、それこそが価値だというふうに教え込まれてきました。

しかし、私が把握した宇宙の構造論というのは、そういう方向ではありません。人間が幸せになるということは、自分の達成目標を立てて、そこに向かって眉間にしわを寄せながら進んでいくことではなく、どうももっと楽に考えてよいようなのです。

「頼まれごとをする」「頼まれやすい人になる」というのは庶民的な言い方ですが、それを哲学的な言い方にすると、「いかに喜ばれる存在になるか」ということになります。

私たちは、自分自身がいつも何かを達成しなければいけない、どこかまで歩いて行かなければいけない、という教育を受けてきました。しかし、「人」という文字は、人が二人背中合わせに立っている姿です。その人と人との間に生きているから「人間」という文字になりました。

もともと、人間は一人では生きていません。そういうふうにお互いに助け合うこと、頼み合うこと、頼まれること、それをやってあげ合うこと。これこそが、まさに人間がこの世に生まれてきた目的ではなかったのでしょうか。

仮に、目標を達成した結果として、「多くの人に喜ばれてきたのだ。だから、達成目標に向かって邁進してきたことがよかったのではないか」と言う人がいるとすると、それは、目的がそこなのではなく、喜ばれることが目的なのだから、喜ばれることをやってくればよかったわけです。

たまたま結果として喜ばれる存在になったというのは、結果的に付随したものであり、もともと喜ばれる存在になることを目的とするのであれば、自分の達成目標というものを立てて向かう必要はありませんでした。

ですから、喜ばれる存在であることを一生懸命やっていく結果として(その派生として)、会社が大きくなったとか、売り上げが上がった、県内一の大企業になった、ということは構わないと思います。そういう結果を呼んではならないと言っているのではありません。そういう「結果」を目指すのではなく、「喜ばれること」をやっていけばよいのではないか、ということを言いたいのです。

「頼まれごと」は自分にはない、と言う人がいる。そういう人は、「何かの役を引き受けてくれ」とか「講演を頼みたい」という大きな頼まれごと(本当は大きいとか小さいというのはない)を想像する。

しかし、何かのコミュニティに所属していれば、「今度のイベントに出席して欲しい」とか「講演会に来て欲しい」とか「食事会に来て」という頼まれごとはそれこそ、毎日のようにあるはずだ。


「頼まれごと」の本質は「喜ばれる存在」になること。主催者になればわかるが、講演会などで、人が集まらないとき、わざわざ来てくれる人がいると涙が出るほど嬉しい。まさにそれが「喜ばれる存在」。

「頼まれやすい人に」という言葉を胸に刻みたい。

今日のブログはこちらから→人の心に灯をともす


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