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癖は贈りもの

今日のおすすめの一冊は、平澤興氏の『平澤興語録 生きよう今日も喜んで』(致知出版社)です。その中から「顔は自分の顔であって、自分の顔ではない」という題でブログを書きました。

本書の中に「癖は贈りもの」という素敵な文章がありました。

人を大切にし、大事にするということは、人に喜びを与えることで ある。 金や物も必要ではあるが、なによりも人を大切にすることである。やせ我慢の気力でなく、相手を楽しくさせる気力でなければ、本当ではない。
失敗でも、不幸でも入口の門が二つある。一つの門はもう一度失敗をくりかえす。もう一つの門は失敗から幸福への門で、その失敗を反省の材料として、逞しく希望に向かって実行する。不幸というものがあるのかどうか、現象的には不幸はいたるところにあるが、不幸かどうかは見方によるところが多い。
欠点をなおせというよりも、長所をのばしなさい。長所といえども癖である。この方の癖をのばせば、悪い癖もその大きさの中にかくれてしまう。大木も小さい時はまがっていても、大木になればまっすぐになるようなものである。そしてかくれた癖は時に応じてその人の味わいとなり花となって、その人に芸術味を与えることになる。
癖がその人の芸術になるまで、それくらいになるまでに成長しなければ、一人前の人間とは言われない。人間が大きくなれば、癖は飾り物になる。その癖をなおしなさいというのは間違いではないが、ただし、その癖のなおし方に方法がある。すぐにやすりをかけるようななおし方ではなく、人間を大きくして、それが飾りものになるようななおし方が本当である。
人の欠点が目につく間はまだ駄目です。それらの欠点が、飾りに見えてくれば、ほんものでしょう。ほんとうの大物は、よい意味でどこか足らぬところがある。それがまた魅力であり、風格である。
その人の味とは、人柄であり、面白味、明るさ、バラエティー、愛嬌、ユーモア、魅力などである。
人物が出来れば出来る程、大賢は愚に似たりで、話すほどに、飲むほどに、いわゆる癖のない型に嵌った人にないものが風格として出て来るものである。真面目さはよいが、常識的なものでは大物にはなれぬ。俗にいう真面目さ以上のより高い、愚かさという程の真面目さがなければならぬ。愚かさとは、深い知性と謙虚さである。
人に窮屈さを与える真面目さでは、ほんものにはなれない。冗談を言うても、酒を飲んでも、どんなことが起こっても、びくともせぬ人間になることである。一杯飲みながら、人から悪口を言われながらも、面白いなあと言える程、深さとおろかさ(謙虚)が大事である。その悪口に対する反論はやすやすと出来るが......。
楽しくにこにことして飲むのは、常識でいう真面目さ以上のもので ある。反対する場合は一言、毅然として言うがよい。多言はいらない。わかっているというが、頭でわかっているのと、実行して体でわかっているのとでは違いがある。
失敗し落第しても、問題はそれから立ち上がる力だ、人物になろうとする情熱である。人は単に年をとるだけではいけない、どこまでも成長しなければならぬ。

まことに味わい深い文章です。行徳哲男師の言葉を思い出しました。

人間の魅力は「素・朴・愚・拙」の四つの言葉で表すことができる。素とは、飾らない魅力。朴とは、泥臭い朴訥とした魅力。愚とは、自分を飾らずバカになれる魅力。拙とは、不器用でヘタクソだが一途な魅力。

「素朴愚拙」の人は、ボーッとしていて、時に間抜けな愚か者のようにも見えます。本当に強い人は、いつも、ハリネズミのようにピンと神経を張りつめ、戦いにあけくれる剛(ごう)の人ではなく、どんな非難や攻撃も、フラフラ、ヒョロヒョロと受け流すボーッとした柔(じゅう)の人です。

年を重ねるほど、成長できる人でありたいものです。

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