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自分だけが独占している知識で威張ろうなんて…

今日のおすすめの一冊は、岡本太郎氏の『自分の運命に楯を突け』(青春出版社)です。その中から「誤解するなら、してみろ!」という題でブログを書きました。

同書の中に、こんな素敵な一文がありました。

よく教養があるとかないとか言うけれど、その“教養”っていったいなんだ?学歴とか、知識とか、茶道とか、華道とか、そういった世間一般でいう資格のあるなしってことなのか?だとして、その教養とやらがなかったとしてもだ、それがいったい、なんだというんだ!考えてごらん。百科事典みたいな知識が十分あれば、充実した人生が送れるのか?
そうじゃないな。早い話が、じゃあ、大学出たら全部が全部、教養豊かで魅力的な人間か?そうじゃないね。逆に学歴なんかなっくったって、“教養ヅラ”がなくたって、堂々と尊敬を受けている人間は大勢いる。問題は生き方なんだ。自立した生き方をしているかどうかが問題なのであって、いわゆる“教養”のあるなしが人間の価値決定の第一条件ではないはずだ。
気にすることはないんだよ。哲学にしても知識にしても、それを人より多くもっていることがすぐれているんじゃない。それよりも、いまの状況のなかで自分をつかみ他をつかむのがほんとうの知性であって、自分を失ってどんなに知識をよせ集め、記憶していたって、そんなものはほんとうの知性じゃない。
自分だけが知っていることでも、みんなの問題としてしやべり、それが相手に伝われば、自分の知識がみんなのものになったということ。自分だけが独占している知識、それで威張ろうなんて卑しい根性がなければ、溶けあうことができるはずなんだよ。

ケチくさい人は、モノやお金だけにケチくさいのではなくて、情報も出し惜しみしたりします。自分が知った情報を小出しにしたり、すぐにお金に換えようとしたりするのです。どんなにソフトに対応したとしても、その心根というか根性というか、性根(しょうね)がすぐにわかってしまうのですよね。

安岡正篤師のこんな言葉を思い出しました。

『人一字知らずして而(しか)も詩意多く/一偈(げ)参ぜずして而も禅意多く/一勺(しゃく)濡(ぬ)らさずして而も酒意多く/一石(せき)暁(さと)らずして而も画意多きあり/淡宕(たんとう)の故なり』
まったく文字を知らない勉学も知らぬ野人である。そんな人なのに何故か詩的であり詩人である。/座禅など一度もしたことがないし、禅の勉強もしたことがない。それなのに何故か禅的である。禅味あふれ飄々(ひょうひょう)としている。/まったく酒は一滴も飲めない。なのに何故か宴席の座持ちもよい。酒飲みとも話ができる。酒の趣味もわかる/石ころ一つ描くことができない。絵を習ったこともない。それなのに何故か絵心がある。ちょっと味のある絵も描く。/こういう人は人間が無欲であって物事にあまり拘泥(こうでい)せず淡々としているからだ。(酔古堂剣掃)より

まさに、真の教養人とはこんな人を言うのではないか、と思うのです。

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