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「分別くさい人間」になってはいけない

今日のおすすめの一冊は、向谷匡史氏の『渋沢栄一「運」を拓く思考法』(青志社)です。その中から「渋沢栄一の第三の道」という題で書きました。

第三の道とは、西洋的な二元対立の概念、右か左か、表か裏か、損か得か、善か悪か、というような相反する価値観の対立を超えた道、対立を起こさない道のことです。それにひきかえ、いわゆるデジタルの世界は、「0」と「1」を使ってすべてを表しています。いわゆる二元(二項)の世界です。第三の道を東洋的にいうと「二元対立を超えた世界」ということができます。いわゆる白か黒か、割り切れない世界です。

それに関して、私には鮮やかな記憶として残っていることがあります。ある会の企画で、全国から数名が選ばれ、京セラの稲盛会長と対談する機会がありました。京セラのゲストハウスで行われましたが、懇親会の席でちょうど私の前に座った稲盛さんに、以前からどうしても聞きたかったことをお尋ねしました。

多国籍企業のシュルンベルジェ社長リブ―氏が書いた、「パーフェク・トカンパニー」という本を、稲盛さんが翻訳されていました。その中にあった言葉がどうしても長年疑問として残り、それを稲盛氏にぶつけたのです。それは、「愛と冷酷さ」という話です。「稲盛氏はいつも愛ということをおっしゃっていますが、時には事業から撤退する、あるいは人に辞めてもらうというような厳しい決断を多くなさってきたと思います。『愛と非情さ』について経営者としてはどうお考えですか?」と。
すると、稲盛氏は「うーん」と1分くらい黙り、そしてその後「すさまじい質問です」と口を開きました。そして、「相反することをするときには、自分は気が違っているのではないかと思うときもある。しかし、両極端の相反することを、いとも平然と、何事もなかったかのようにやることができる人のことを名経営者というのではないか」とおっしゃったのです。

まさにこのことは、この「白か黒」かという二者択一とは別の「白も黒も」という世界、そして、愛と非情を超えた世界ではないかと思うのです。

行徳哲男師にこんな言葉があります。(感奮語録)より

「分別くさい」という言葉がある。分別とはもともと仏教の言葉で「分かれて別になる」こと。つまり迷いをつくるもとが分別である。その意味で現代人はあまりにも分別くさい。きれいごとに過ぎる。きれいごとに過ぎると偽装と欺瞞がはじまる。人間には格好いい感情と格好悪い感情があるが、われわれはすべからく格好いい感情で表現しようとする。しかし、格好いい感情はそれゆえに偽装されている。心の中にドロドロとしたものがありながら、それをきれいな言葉にすりかえてしまう。

分別くさい人間には魅力がありません。分かれて別になること、すなわち、一つにならないからです。人間は分かれれば分かれるほど力が削がれます。そして一つになったときにしか最高度の力は発揮できません。一つになるということは、感動することであり、共感することです。

分別臭い人間になっちゃダメだなぁ、とつくづく思います。

今日のブログはこちら☟
https://ameblo.jp/hiroo117/entry-12613527045.html

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