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未来の私が迎えに来た

自分の中に、深く潜っていく。

ベランダのプランターに渦巻き状に巻かれたラディッシュの種。発芽した苗は、丸いフェルトのプランターの中心から螺旋形に芽を出している。生まれたばかりの命が可愛くて愛おしかった。野菜として収穫するためには、命の選別をしなくてはならない。どの苗を残して、どの苗を抜くか。その選別に心が痛んだ。そして痛みから逃げた結果、どの苗も実りをつけなかった。
それでも、小さな芽を慈しむ幼いわたしが愛おしかった。


自分の中に、深く深く潜っていく。

ザトウクジラの親子。月明りに照らされた夜の大海原。悲しいような切ないような鳴き声とともに波しぶきをあげ、親クジラは海底に潜っていく。残された私。涙が止まらない。


現実世界で、虚像のワタシとの決別。
通りがかった公園に一組のカップルがいた。ベンチに腰掛けて、女は男にしなだれかかってべったりと抱きついている。見覚えのあるTシャツ……、男は夫だった。
決定的な現場に遭遇したにも関わらず、不思議なほど感情が動かない。夫に対して、パートナーとしての愛情のカケラも感じることなく、悲しみも憎しみもなかった。むしろ、感情が湧かないことが悲しかった。

自由になりたいという気持ちに嘘はなかった。ただ、安穏と過ごせていた日常がなくなることが怖かった。本当の意味での一人を経験したことがなかったため、それも恐怖だった。一人になることで、最悪野垂れ死ぬんじゃないかと思った。
それでも夫との冷たい現実から、もう目を逸らして生きることができなくなっていた。

「♫サヨナラから始まることがあるんだよ」
その歌に背中を押されて、別れを切り出した。
驚くほどあっさりと同意を得て、私たちは23年の結婚生活を終わらせることになった。


日当たりのよいキッチン。
庭で収穫してきたばかりの野菜で、嬉しそうに朝食を作るわたし。
暖かそうな赤いセーター。
「大丈夫!こっちにおいで」
未来のわたしが、私の手をひく。
笑顔がまぶしい。


見えたのは、夢?妄想?願望?
幸せな未来があるなんて、何の確証もない。
それでも、もう歩き始めてしまった。前に進むしかない。
田舎暮らしをするためにペーパードライバーを返上し、車を買った。
私の中から「怖い」という感情がなくなっていた。


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