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【BLOG】東日本大震災から6年 -大学卒業という節目にあの日を振り返る-

(本投稿は2017.3.11にFacebookにて投稿したものです)

東日本大震災から今日で6年.また,大学で土木を学んで4年が経ち,今月で卒業.ともに節目となるので,あの日のことを振り返りながら時系列的に書きます.言葉にするとチープになると思われるかもしれませんが,振り返って残していくことに意味があると思うので.

2011年3月11日午後2時46分.僕は高校の4階の教室であの地震に遭いました.感じたことのない揺れを感じながら,机の下へ潜り込んだ瞬間は鮮明に覚えています.

揺れが収まったあと,学校全体で外へ避難したものの,先生方含め,誰もがパニックでした.帰宅しようにも,交通機関は全てストップし,帰宅途中であった友人からは,「最寄りの駅はシャッターが閉められて構内にすら入れない」とのメールがあったほどでした.

最終的に,あの夜は高校の記念ホールに泊まることになりました.当時はいわゆるガラケーだったのでワンセグ機能があり,通常ならばテレビが見られるのですが,あの日は通信回線がつながらず,「何が起き,どのような状況なのか」を知ることなく,一夜を明かすこととなりました.

ただ,今振り返ると,不謹慎どころか,あるまじき考えですが,この時の心情としては,地震のことよりも学校に泊まることができるということの方に気持ちが向いていたというのが事実です.このことは,今になって恥ずかしく思い,悔いています.

その分,翌朝,ホールのスクリーンに映し出されたニュース映像を見たときの衝撃は計り知れないもので,今ですら,あの時の心情は言葉にできません.はっきりとではありませんが,あのときの映像は,仙台空港が濁流に飲み込まれる瞬間,NTT宮古電話局前での津波が河川堤防を越える瞬間,南三陸町で家が飲み込まれる瞬間,であったと思います.

実は,このときの衝撃や経験が,僕を土木へ向かわせることになりました.東日本大震災に遭うまでは,自宅を建ててくれた建築士に憧れて,「建築学科に行って立派な家を建てたいな」などと漠然と思っていました.でも,あの映像を見たときに,「普段なら家の並んでいるまちが完全に失われているのに,今後どうやって人が住むのか?」と直感的に感じました.そしてこの経験が,後に「まち全体を考え,作るような仕事に就きたい,就けるように大学へ行って学ぼう」と考えることの原点となったわけです.

非常に安易な考えだと思われるかもしれません.僕以上に被災現場を見ている方からは,ふざけるなと言われるかもしれません.しかし,このように,僕が土木に進んだきっかけには,間違いなく東日本大震災の経験があります.

2011年以降,毎年3月11日には黙祷を捧げるようにしています.また,一昨年は夏季休暇中に岩手県宮古市田老町や宮城県気仙沼市を訪れ,昨年は,GSデザイン会議による三陸視察を記録した「AFTER GROUNDSCAPE」の上映会や,学科主催の東北地方への復興調査へ参加しました.

では,これらから何が見え,何がわかったのか.

正直に言えば,何も見えていない,何もわかっていないに等しいと思います.というよりは,理解するための能力や知識がまだまだ不足しているというのが正解でしょう.

けれど,不足しているにしても,足を運んで,言葉にできなくても何かを感じ取ること,自ら記録を残すこと,そして理解しようと努力することはできると思っています.

現在,岡村健太郎さん(東京大学建築学科助教)の『「三陸津波」と集落再編』(鹿島出版会,2017)を読んでいます.以上のような考えを持っているのに加え,研究室の先輩方が地域に密着した研究を行っていたのを間近で見させていただいたこともあり,興味が湧いて,購入しました.この本を読み終えた時に,また,新たなものを吸収して,投稿できればいいなと思っています.

相変わらず,僕の文章はまとまりがないので,何も伝わらないかもしれません.ただ,少しでも東日本大震災を思い出し,考えてくれる人が増えてくれることを祈って,投稿を終わりにしたいと思います.

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