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名前も忘れた味噌ラーメン

これだ、と思った。
この苦しみが終わった時に食べるべき一杯は、これしかない。

もう何年前のことだろう。僕は大学院の修士論文の執筆に追われていた。
いや、追われていたなんてもんじゃない。寝ても覚めても、頭の中は修士論文のことばかり。家でご飯を食べていても、バイトしている時も、帰りの電車、トイレ、お風呂。最低4万字という、実に卒業論文の倍の分量を書かなければならない修士論文のことで、あの年末は頭が支配されていた。
好きな読書も、手につかなかった。あの時期は、修論の参考図書しか受け付けない体になっていた。

探している参考資料を求めて、神保町の古本街をさまよっていた時のことだ。
修論のことで頭はいっぱいだが、悲しいかな、腹は減る。きちんと減る。
神保町は大学の目と鼻の先なので、行き慣れた店も多いが、歩いていると見知らぬラーメン屋を見つけた。
ほう、こんなところに知らないラーメン屋さんがまだあったか。
小さい頃からラーメン好きで、一日3食ラーメンなんてこともやっていたから僕にとってはご褒美だ。
資料探しに疲れた体に、看板にある美味そうな味噌ラーメンは沁みるだろう。

そう思って、おもむろに店に入った。
どれどれ、どんなもんか味ってやろうじゃないか。今思うと恐ろしく上から目線だが、若気の至りだと思って許してほしい。
初めて訪れるラーメン屋さんでは、一番ベーシックで、売りにしているものを食べると決めている。その店は看板にデカデカと、味噌ラーメンが売りであると書いてある。そうと決まれば、一番基本的な味噌ラーメンだ。
バターもコーンもトッピングしない。トッピングは、2回目の訪問からで十分だ。

テキパキと出てきた味噌ラーメンを一口すする。
うまい。なんだこれ、うまいぞ。
味噌ラーメンは何度も食べてきたが、味噌の香ばしさとスープの奥深さは段違いだ。トッピングされているネギやメンマ、チャーシューとの相性や、黄色味がかったプリプリした玉子麺のちぢれ具合が、最高にマッチしている。
スープ、麺、トッピング。全てのバランスが考え抜かれている。
僕が今まで食べた味噌ラーメンの中で、最高の一杯だった。

これにしよう。
今抱えている修士論文を調べたら、この味噌ラーメンを食べよう。
腹一杯。
そう思うと、正直やる気の火も消えかけていた修士論文への情熱も、再燃してきた気がする。味噌の香りが、温かなスープが腹と心を満たしていった。
また来れるように、頑張ろう。
その一月後、無事に修士論文は受理され、その日の昼過ぎ。僕の前には最高の味噌ラーメンが並んでいた。
もちろん今日は、ミニチャーシュー丼付きである。


数年後、神保町に行く機会があったので、懐かしくなり、その店に足を向けてみた。
しかし、そこはもうすでにラーメン屋ではなく、よくわからない居酒屋になっていた。
ありがとう、味噌ラーメン。ありがとう、ミニチャーシュー丼。
もう店の名前も忘れてしまったけれど、あの一杯があったから僕は修士論文を描き切ることができたと、自信を持って言える。
僕の胃から染み渡った味噌味が、再び参考文献とパソコンに向かう活力になってくれた。
もうあの味に出会うことは、人生の中でないかも知れないが
間違いなく”人生最高の一杯”だったと言えるだろう。

※写真はそのラーメンではなく
ここ数年のお気に入りラーメン、新宿のAFURI辛紅です。

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