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多賀大社奥書院庭園の来歴を読み解く

ここ数年の趣味として様々な日本庭園を巡っているうちに、ふと気になる庭を見つけ、その来歴を調査してまとめたところ、大変光栄なことに日本庭園学会より賞をいただくことができた。本記事では、その受賞論文を一部翻案して掲載する。

1. はじめに

日本庭園の魅力の1つに、その永遠性が挙げられる。重森三玲も「とくに庭園は、他のすべての芸術品よりも、保存上永遠性をもっていると考えて差支えありません。何百年何千年でも地割と石組は保存されるはずです」と述べている通りである [1]。これはもちろん、手入を怠ってよいという訳ではない。しかし如何に荒廃した庭であっても、地割や石組さえ残っていれば、そこから作庭者の意図や思いを読み取ることができる。その好例が、江戸初期の地割と石組を発掘し、見事な枯山水庭園を復活させた実相寺庭園にある [2]。

本記事では、同様に発掘や修復を経て庭園の由来が顕になった例として、多賀大社奥書院庭園を位置付けることを試みる。特に、その独特な空間構成に込められた意図や背景について、多賀大社の由緒や史料等も参照しながら、その歴史と合わせて考察する

2. 多賀大社奥書院庭園

多賀大社奥書院庭園は、滋賀県犬上郡にある多賀大社の一角をなす庭園で、昭和10年に名勝指定されている。庭園の構成は図1に示す通りだが、この庭園の特異な箇所として挙げられるのが、池の位置が手前の書院に比べてかなり低いという点である。名勝指定にあたっての解説にも「建築物より甚だ低く設けられ椽と池の水面との距離は約十尺なり」と述べられているが、このために書院から俯瞰して庭園を鑑賞するような形となる。

図1: 平成22年時点の測量図 (著者が [4] 内の図に一部加筆)

もう1つ特異なのが、庭園の北側を流れる太田川の存在(図1青線部)である。この川は、単に庭園に隣接しているというのではない。川のさらに北岸にも石組がある(図1赤囲部)ため、図2のように庭園を横切るような形で流れているのである。こうした構成について、昭和11年に測量を行った重森三玲は「北部に流れがあって、この流れを境に石垣をもって一線を劃しているが、もともとこの流れの部分も池泉であったと考えられ(中略)それは現在にあっても、この流れの北方山中に石組の一部が保存されていることによっても明かである」と述べている [3]。つまり、作庭時には川の北岸の石組まで池が広がっていたが、後年に川が横切るようになったとしているわけである。

図2: 図1①よりの眺め(筆者撮影、加筆)

しかし、平成19年からの修復整備を経た今となっては、この川の存在も秀逸に織り込まれた空間構成となっており、むしろ川があったところにあえて作庭したのではないかとまで思わせる。そうした点から、本論文ではまず「現在の地割は作庭当初と大きく変わっておらず、後から川を横切らせた訳ではない」という可能性について、過去の修復記録や重森三玲の記載を比較しながら検討してみたい。

3. 作庭当初の川の位置

後年に川が横切るようになった訳ではないと考える最も大きな根拠は、平成19年からの修復工事の際の調査報告にある。図3は調査坑の位置を示したものであるが、もともと池泉としてつながっていた箇所に川を通したのであれば、T2において後年に護岸を形成した痕跡が見つかって然るべきである。しかしながら、実際のところはそうした痕跡は見つからず、むしろ地山層と考えられる硬化した土層が確認されたという [4]。こうした点から、現状と同じ形状に池の地割を整え、護岸石組を配置した上ではじめて池に水を入れるという造成方法を採ったのではないかと報告している。

図3: 平成19年の調査箇所 [4]

加えて傍証となるのが、「江州多賀大社別当不動院由緒」及び「多賀大社境内古図」である。具体的には、由緒に「天文20年(1551年)3月当社森の外堀掘る」という記載があり [5]、その様子が桃山時代に制作された古図(図4)に残っている。中央上部を見ると当時から、境内北部の神苑に対して東西に川が流れていたことが分かる。庭園の作庭時期が桃山期だとする [3] と、後年に庭園を川が横切るようになったというのは考え難い

図4: 多賀大社境内古図 [13]

だとすると重森三玲はなぜ、かつては川の北岸にあたる場所まで池が広がっており、そこに後から川が通されたと考えたのだろうか。その理由として、昭和11年の実測当時の写真から読み取れるものが1つある。それは、図5右奥に見える竹垣の存在である。つまり、当時は川の南岸にあたる部分に竹垣があったため、北岸の様子を見ることができなかったのである。しかも、「北方山中に石組の一部が保存されている」という記載からは、その北岸の石組はしっかりと露出していなかったものと見られる。川の南岸には後年に付け足されたと思しき竹垣があり、さらに北岸については「石組が埋まっているらしい」という情報のみが与えられている状況では、地割を崩して川を横切らせたと考えるのも自然であろう。

4. 川を超えた作庭意図

翻って、竹垣が除かれ、北岸の石組も枯滝まで発掘された今となっては、川を挟んでの見事な調和が生み出されている。特に、図6のように正面の書院から鑑賞すると、護岸石組によって川がちょうどよく隠れ、まるで池の周囲の石組と川の北岸の石組が滑らかにつながっているようにさえ見える。先述の通り、地割や石組が作庭当初から大きく変わっていないとすると、その空間配置には「川をうまく隠しつつ、北岸までを庭園に組み込む」という意図があったと捉えるのが自然である。

図6: 図1②よりの眺め(筆者撮影)

では、このようにあえて川を跨ぐような空間構成にした理由とは何だったのだろうか。素直に考えるならば、そもそも場所がなかったために川を組み込むほかなかったという可能性が挙げられよう。実は、先述した平成19年の調査報告がこれを裏支えするような結果を提示している。具体的には、図 3のT9において、地山層のほかに過去の遺構などは見られなかったことから、作庭当初から書院と池の境が直線状の石垣となっていたことを示唆している [4]。

興味深いのは、この結果が重森三玲の所見をまたもや裏切っているという点である。重森はこの直線状の境に関して、「もとは大体心字形形式として室町式庭園池泉の構成を踏襲したもの」であったが、「現在の池泉は書院北方の傾斜地(筆者注:書院と池の境)を直線状に改造したために、甚だその景観を害している」と述べている [3]。ここから導けるのは、重森に改造を疑わせるような多少の違和感を鑑賞者に抱かせる地割となっているということである。また、そうした地割を選ばざるを得なかったという点に、他に作庭すべき場所がなかった上での工夫の結果であったという可能性を考えることができる。

しかし、場所が限られた上での作庭だったとしても、川の北岸までを庭園の一部として組み込む蓋然性はない。むしろ、図5における竹垣のように、川の南岸をもって庭園の領域を区切ることもできたはずである。つまりこの空間構成には、あえて川の北岸までを組み込むという意図性があったと考えられる。その「意図」とは具体的に何だったのか、この庭園の歴史を紐解きながら検討したい。

5. 庭園の歴史

そもそもなぜ多賀大社の一角に庭園が造られたのか。その理由はかつて境内に位置していた不動院に由来する [3,4]。多賀大社史によると、この不動院は1494年に守護佐々木高頼が多賀豊後守高満に命じて建立したものだという [6]。当初は一草堂に過ぎなかったが、豊臣秀吉などの庇護も受けながら別当として力を強め、堂々たる伽藍建築を擁するにまで至った [7]。不動院そのものは1773年の火災によって失われたが、その庭として作庭されたものが残り、現在の奥書院庭園となったとされている。

ただし、具体的にいつ作庭されたのかは明らかになっていない。重森は、その作庭様式から天正年間と見ている [3] ほか、多賀大社のWebサイトは1588年(天正16年)の秀吉による米一万石の奉納を嚆矢に作庭されたとする [8] も、具体的な出典は示していない。しかし、本論文では1617年(元和3年)から1618年にかけて作庭されたという説を提示したい。その根拠となるのが、不動院の第5代別当を務めた慈性による「慈性日記 [9]」である。

慈性は、寛永年間に徳川秀忠の寄進を受け、また徳川家光に造営許可を請願し、本殿から摂末社までの大規模な造営工事を行った人物として知られている。その慈性が、別当としての日々を書き連ねたのがこの日記である。ここで注目すべきは、作庭を思わせる記述が「泉水の亭作事、今日より初候(元和3年5月28日, p. 63)」「宮のもの共をもよひ庭の普請させ候(元和4年3月29日, p. 99)」のように含まれているという点である。特に、「庭へ水を取候、上大神宮屋敷へ流しを厨の屋の雨垂の通りより、安居屋敷の西の隅より道を堀切流し入也(元和3年4月30日, p. 63)」という記載は、わざわざ川からの取水路を地中に切り開き、池への水を導いている奥書院庭園の造りと一致する。また、神社の境内に安居屋敷があるという点自体が、多数の本願坊を抱えていた多賀大社の不動院 [4] に特異なものと言える。こうした点から、この庭園の作庭時期は慈性日記に記されている通りなのではないかと考える

では、実際に作庭を行ったのは誰なのか。残念ながら、慈性日記における作庭家についての記載は、作庭開始から数年経た「京より見庭下り、庭の石ならし候也(元和7年9月21日, p. 14)」という一文のみで、具体的な名前は記されていない。しかし以下の記載からは、慈性自らが作庭当初より石組や植栽に積極的に関与していたことが読み取れる。

  • 泉水の石、久徳より到来候由(元和4年閏3月18日, p. 98)

  • 馬場へ入候に者、鶴石所望申候(元和4年閏3月21日, p. 98)

  • 右之石、大石二つ、神領の百姓・寺の者取寄候(元和4年閏3月22日, p. 98)

  • 山へ松を取に遣し、庭にうへさせ候(元和4年4月10日, p. 103)

  • 八坂の孫左衛門鯉十疋くれ候、泉水へ放候(元和4年5月12日, p. 104)

  • いさきよりヤマモ丶の木五本取寄、泉水の庭うへ候(元和4年9月16日, p. 115)

慈性の出自や交遊を考えると、これは全く不思議なことでない。例えば、大納言日野資勝を父とする慈性が、若い頃から江戸城での天台宗の論義に出入りする中で、秀忠や家光への謁見を許される立場を築いていったことが日記から読み取れる。また、能や茶にも親しんでいたようで、藤原俊成の掛物を所有していたことを示す記載もある。こうした点を踏まえると、作庭についての知識まで持ち備えていたとしても頷ける。

以上より、奥書院庭園は慈性が別当を務めた元和年間に作庭され、その過程に慈性自らが深く関わったと考えられる。ではなぜ、その結果があえて川の北岸までを組み込むという空間構成につながったのだろうか。

6. 北岸を組み込む構成の意図

前記の通り、作庭に関して慈照日記に「鶴石」という記載があることを踏まえると、川の手前の石組が鶴亀石組として設計されているという重森の見立て [3] は正しかったと言える。そうすると、重森による実測の際には竹垣に隠れていた北岸の石組は、蓬莱山に対応していると考えることができる。場所が限られている上での作庭の工夫として、北岸に石組を築き、それを空間構成として組み込むことによって、遥か彼方の蓬莱山を上手く象徴させているという訳である。

ここで興味深いのが、北岸にある森が作庭当時から神苑とされていたという点である。少なくとも、前記の「江州多賀大社別当不動院由緒」にある通り、わざわざ外堀を掘って保全しようとする程には神聖なものと見做されていたのだろう。それを踏まえると、この空間構成には北岸の石組を通して神苑に理想郷を重ね合わせ、庭の一部として取り込もうという慈性の意図があったのではないかと考えることもできる。不動院の別当を担うにあたって慈性が比叡山での修行を行ったこと [9]、また中世の比叡山が本地垂迹説を中心とした神仏習合思想を宣揚していたこと [10] を踏まえると、あながち無理な発想とも言えないだろう。

7. 結語

本記事では多賀大社奥書院庭園を取り上げ、その由来や作庭者について地割と石組を踏まえながら考察を加えた。特に、近年の発掘や修復の結果を基に、川を組み込んだ地割や空間構成が作庭当初からのものであることを指摘するとともに、それが不動院の別当を務めた慈性を中心にして1617年頃に作られたという説を提示した。そして、この庭園の特殊性が、書院から俯瞰して鑑賞するような位置関係のみならず、川を跨ぎながら神苑を蓬莱山として取り込むという設計にもあることを示唆した。

ただし、その設計思想が十分に明らかになったとは言えない部分もある。特に、慈性日記に基づく研究として、これまで能楽 [11] や蕎麦 [12] に関するものは提出されてきたが、庭園については十分に研究がなされておらず、今後の調査が望まれる。

参考文献

[1] 重森三玲, 重森完途, “庭を作ると言うこと,” 「庭 作る楽しみ観る楽しみ」, ダヴィッド社, 1958, pp. 15-26.
[2] 関西剛康 , 山田巨樹, “実相寺庭園に関する調査報告,” 日本庭園学会誌, 第9巻, pp. 23-35, 2000.
[3] 重森三玲, “多賀神社庭園,” 「日本庭園史図鑑 第7巻 桃山時代」, 有光社, 1939, pp. 33-37.
[4] 多賀大社, 多賀町教育委員会, 滋賀県文化財保護協会, 多賀神社奥書院庭園保存修理工事報告書, 2010.
[5] 多賀大社叢書編修委員会, “江州多賀大社別当不動院由緒,” 「多賀大社叢書 記録篇 3」, 多賀大社社務所, 1979, pp. 162-170.
[6] 多賀神社社務所, “不動院の由來,” 「多賀神社史」, 多賀神社, 1933, pp. 84-87.
[7] 菊池武, “多賀大社の本願と坊人 其の活動と変遷,” 印度學佛教學研究, 第 31巻, 第 2, pp. 593-594, 1983.
[8] 多賀大社, “お多賀さんとは,” http://www.tagataisya.or.jp/about/. [アクセス日: 2022年4月15日].
[9] 慈性, 慈性日記, 林観照, 編, 続群書類従完成会, 2000.
[10] 吉田一彦, “最澄の神仏習合と中国仏教,” 日本仏教綜合研究, 第7巻, pp. 11-29, 2007.
[11] 宮本圭造, 上方能楽史の研究, 和泉書院, 2005, pp. 36-37.
[12] 川上行蔵, 食生活語彙五種便覧, 岩波書店, 2006, p. 177.
[13] MIHO MUSEUM, 猿楽と面 大和・近江および白山の周辺から, 思文閣出版, 2018, p. 156.

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