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創造というあそび

正月に「生き方をさかのぼる」というタイトルで人の生き方、特に生産性というものについて思うことを書きました。

内容を一言で言うと、「生産性を求められるような生き方はいやだ」ということです。

効率がよくなる。スピードが速くなる。生産性が上がって、モノやサービスが充実する。

だけど、そういったことは私たちひとりひとりの生きることへの充足感とはあまり関係がありません。

あの記事を書いてから、じゃあ生産性の代わりに何があったら人間は人間らしく健やかに生きられるのかなって、なんとなく考えていました。


少なくとも、私の人生にあってほしいものは何だろうか。

ふと思いついたのは、創造性という言葉でした。

ヒントになった本があります。

ミヒャエル・エンデの『ものがたりの余白』。


エンデの翻訳者がエンデに対して行ったインタビューをまとめたものです。

エンデは高校生の頃に『自由の牢獄』を読んで以来私にとって特別な作家でしたが、あるボディワーカーさんとの出会いがきっかけで最近また読み直すようになりました。

『ものがたりの余白』は初めて読みましたが、読み始めてみると今の私にぴったりの本だという気がしてある種の巡り合わせを感じました。

エンデが語った内容のなかで大きなテーマの一つは創造論です。


私は、創造は生産と違って、人間にとって本質的なものなんじゃないかなって思います。


創造は人間の人間らしさ、生き物らしさのあらわれだと感じます。


そしてエンデの場合、その創造論の根底にあるのは老荘思想の「無」の哲学でした。

私はこの本を読むまで、エンデがこれほど東洋思想に根ざしているとは知りませんでした。だけど、読んでいくうちにいろいろと腑に落ちました。

なぜ私がエンデを好きになったのか、よく分かったような気がします。 


エンデのなかに、禅もあれば、老荘もある。

点と点がつながって線になりました。

エンデが創造について語る言葉には、老子の「有は無より生ず」や荘子の「無用の用」のエッセンスがいたるところに見られます。

「無」とは、創造の前提にあるものです。

あるゆる物事は「無」から生まれ、物事の肝要な部分はすべて「無」に宿る。


それは虚と言ってもいいし、間、スペース、空白、あるいはこの本のタイトルのように「余白」と言ってもいい。

とにかくなにもない領域というものが物事が生まれる前には存在します。


そしてそのなにもないところにこそ、0→1で新しい何かをつくることができる。


すでにある何かをコピーして増やしていくのは生産であって創造ではありません。そしてそれはひたすらに空白を埋めていく作業でもあります。

空白がすべて埋まってしまったら、創造の余地はなくなります。そうなったら今度は一度すべてを更地にもどすために、"破壊"が必要になってくるでしょう。


だけど、わざわざ破壊というところまで行き着かなくたって、人はもっと手前のところで自ら空白をつくり出すこともできます。

ここ数年の瞑想や断捨離のブームは人が本能的に空白を求めていることのあらわれなんじゃないかという気がしてなりませんが、、


そうやって積極的に空白をつくり出す必要が出てきたくらい、私たちの時間や空間は生産によって埋め尽くされてしまったのかもしれません。


だとしたら、生産性向上のためのマインドフルネスとか言ってないで、生産性とは切り離したところでもっと純粋な空白、余白を確保していった方がいいように思います。

何かのためとかではなく、ただなにもしない時間、なにもない空間。


ただなにもない領域があるということ。


老荘思想ではそういった「無」こそが万物の根源であり、人間にとって真の価値をもつものと考えます。

そしてそれは言い換えると、創造の源泉でもあります。


創造はあそびと同義です。あそびの条件は自由、ゆとり、つながりであって、役に立つことや結果を出すことではありません。


むしろ、無益こそがあそびの本質と言えます。創造は「無」から生まれ、「無」に帰っていくものだからです。


あそびはまた、時間がかかることや失敗、効率の悪さも厭いません。そこには創造の余地があるからです。

こうやってみてみると、創造性は「生み出す」という点では生産性と同じ部分もありますが、そのニュアンスは全く異なっていることがわかります。

生産性が嫌いだって話からエンデとか老荘思想とか経由してずいぶん話が飛躍したような気もしますが、、

結局今回書きたかったのは、生産性の代わりに創造性という考え方を大切にできるようになったら人はもっといきいきと生きられるんじゃないかな、という思いつきです。


ただ、創造性のある生き方って言うとちょっと大げさで真面目すぎる感じがするので、"あそぶような生き方"くらいの言い方の方が個人的にはしっくりきます。


そして、あそぶためには十分な空白が必要です。空白、余白、間、スペース。そういう「無」の領域が。


特に生産活動に忙しくなってしまった人間にとっては、創造性云々の前にまずは何よりも空白が必要なんだろうと思います。

はじめから創造のためとか考えずに一回ぜんぶ忘れて、十分な空白をつくってみる。心地よく息ができるところまで、その領域に浸ってみる。


そしたらきっとそのうち、勝手にあそびたくなってくると思います。


だから本当は何も考えずに、ただただ空っぽになるだけでいいのかもしれません。


それが難しいのかもですけどね。


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