母親のこと諦めることにしました。

アルコール依存症+躁鬱の夫と別居中。離婚は来月末予定です。

今回も母親の話です。

下記の記事で、母親と喧嘩したことを書いて・・・
それから2週間ほど連絡取らずでしたが、今朝電話かかってきました。

電話の内容

「ちょっと話があるんだけど」と食い気味の母。

夫と別居するにあたり、実家に戻ることを決めていた私。
部屋は不要と言ったものの、母親は寝る時一人がいいとのことで、父親が在宅ワークで使っている部屋を開けてもらい、母親にそちらに移動してもらうことにしました。

母親と喧嘩したことでその話が見通しがつかなくなり、母親は電話してきたようです。

しかし言い方が、「せっかく父親が部屋開けてくれたのに、戻ってくるとか来ないとかで、父親が迷惑するから」というような感じ。

今朝、アルコール依存症のLINEチャットで、こんな会話がありました。
自分が花を見に行きたいのに「今どこどこ公園の花が綺麗だそうだから行ってみる?」と、当然、相手も行きたいと思っているはずっていうのが透けて見えるような会話をする両親がいるんだって。
自分が見に行きたいから「車出してくれる?」とお願いしたところ見たことないだそう。

あーまさに、これだよ、と思ってしまいましてね。

多分ね、迷惑するのは父親というより、自分(母親)なんですよ。

でも、「私はね、戻ってくるとか来ないとか嫌なの。戻ってくるならその通りにして」って言えないんですね。だから父親が言ったことにする。

とりあえず戻らせてもらえるのはありがたいことなので、
6月末に、というふうに日付を明確にしました。

その後は、「引越しは父親が車出す」とか「ゴミ処分は父の車でやったら安い」とか言い始めたので、
丁重にお断りしましたっw

本当に不器用な母親だなと思います。

「困っていたらなんでも言ってね」と、言えないんだね。

って思った。

母親は「ごめんなさい」「お願いします」がなかなか言えない人です。赤の他人や仕事のお客さんとかにだったら言えているのに、身内になると言えません。

身内とか、近しい人には、そういうふうに甘えているのだと思います。
言わなくてもわかってくれるよね、きっとこうしてくれるはずだよねって。

怒る選択肢を辞めました

正直、電話の内容はイライラしました。

まず言い方が失礼だし、前回のケンカのこともあり、いきなり謝罪とかもあるわけではないのに「どーすんの?」みたいな言い方。

でも、怒ると疲れるし、母親の心理的なところを思うと、怒るよりも別の方法をとったほうがいいと思いました。

「こういう表現しかできないんだな」っていう哀れみの気持ちに近いかもしれません。

でもそれは母親が一番イライラしてるんではないでしょうか。

母親は、作った料理がうまくいかないとイライラすることがありました。きっとそれと似たような感覚だと思います。

「もっとできたはず」という期待を自分自身に賭けて、それが外れるということは、結構な苦しみだと思うからです。

母親のこと諦めることにしました。

電話している最中、切った後、色々考えました。

私自身も夫に対してイネイブラーしたことがあったから、他者に期待してそれがうまくコントロールできない辛さはよく知っています。

だからこそ、こういう本読んだら?とかカウンセリング受けたら?とか、どういうふうに言おうかなと考えて、でも、

「あ、言う必要ないんだ」

と思いました。

多分母は変わりません。そして変えさせる必要もないのだと言う事。

私は母に色々な期待をかけてきました。

最近は信田さよ子さんの「タフラブ」を読んで・・母もきっとこうなれるのだと思いましたが、人間色々。私の母のように不器用でいじっぱり、恥ずかしがり屋、そんな人にはできないことも書いてあります。

わかってほしかった。でも、わかってもらえなかった。

自分の中に「母親はこうであるべき」と言う理想像を築いて、母に押し付けたのかもしれない。

母親は私のことが嫌いなのかもしれない

「何言ってんの」って声が聞こえてきそうです。

でもね、聞いてほしい。

コミュニケーションの取り方は、相手がどう受け取るかによって決まると思う。

母は「私はこう思ってない」「そんなふうに言ってない」と、よく私に言います。

けれど、「私はこう聞こえた」「そう言われた」と水掛け論になります。

例えば、痩せている人が羨ましいと思っていて、痩せてる人に「スリムでいいね!」と言ったとする。
でも、痩せている人はそれを気にしているかもしれないじゃない?「私は太りたいのに!!!」って。「自分の骸骨みたいな鎖骨が嫌なのに!!!」って。

母親とのキャッチボールは、「私はこう思ってない」「そんなふうに言ってない」で、投げっぱなしで終わってしまう。

自分のことでいっぱいいっぱいなんだろうなって思うし、
少しでも歩み寄る覚悟があるなら、「私はこう」以外のことを言って欲しいよ。

その絶対的に自分を変えない姿勢が、むしろ潔すぎて、
「私のことが嫌いで、自分しか愛せない人なんだろう」と思う。
あくまで私が感じたことなので、これが正しいか間違いかは知りません。

諦めるは明らめる

母親って私の中では割と絶対的なものとして写っていたけれど、そうじゃないんだなって最近思いました。

なんでそんなふうに思ってしまったのかは、やっぱり母親の過干渉が原因なのだと思う。

今思えば、私が成人した後も部屋のクローゼットを漁られ、ノートの中身を見たり、勝手にものを捨てられていたりしました。

成人した弟の部屋を片付け、料理を部屋に運びます。

「それが普通」「母親はみんなそう」だと思ってきたのですよ。
でも、どうやら、違うみたいじゃないですか。

子供はものではないし、母親の所有物でもない。「親子だから」と言うものは、自分のエゴをぶつけたいための言い訳にしか聞こえません。

夫のアルコールトラブルのことも、人間関係も、母親とのことも、自分ばかり責めてきました。私も自分に自信がなかった。

けど最近考えるのは、というか気づいてしまったのは、問題は全て自分にあるのではなく、相手にもあるんじゃないか?って思ったのです。

母親は、多分寂しがり屋だと思う。父親(夫)はいるけれど、どこかで一歩線を引いていると思うのです。
しかし子供には。。。そういう線引きはしなくていい(と思っているのだと。)

寂しさを、子供をコントロールしたり過干渉することで埋める。そんな感じだと思うのです。

母親のこと色々諦めることにして、色々気づきが出ました。

因果関係って続く

母親の母親、つまりおばあちゃんのことなんだけど、シングルマザーで割と強烈な性格してます。

83・・・歳だったはず。そんな彼女とも私は衝突して、今は連絡を取り合っていません。

「子供は頼るべきものよ。子供に全てやらせればいいの」って言ってたの忘れないです。

そんな祖母だから、母が小さい時から母に依存していたと思います。
そして母が大人になり、嫁に行っても、60歳になっても、まだ祖母の世話続けています。

それは多分、母が今の家に「居場所がない」と感じてしまったことと、もともと寂しがり屋の性格なのもあって、祖母と共依存を続けているのでしょう。
共依存は「嫌だよ、迷惑よ。もう勘弁してよ」と言いながら、関係を続けている現象のことです。

歪んだ愛情は本当の愛じゃない

私は、歪んだ愛情は本当の愛じゃないなと思ってます。

寂しいとか、拠り所がないとか、そういう色々な病んだ理由を、他人に投影して、なすりつける行為は愛ではないと思います。

母は、大体「相手に問題がある」と思ってます。それはもちろん間違いじゃないと思います。
けど、付き合う相手は選べます。言うことも、やることも、全て自分でコントロールできます。

けども、それをしないで、どこかで「嫌なのよ迷惑なのよ」と言いながら、まだ、関わろうとする。それは、愛情とみられるかもしれないけど、実は共依存だったりするのではないかなって思います。

「だって、私がやらなきゃ誰がやるのよ」ってよく母は言ってます。

私もそう思ってました。夫に対して。
夫が、別居したら誰が夫のお酒や躁鬱という病気をコントロールできるんだろう!って。

でもそれはよくよく掘り下げたら、
夫と離れることで、自分自身にデメリットがあった。そういうことに気がついてしまった。
例えば 引っ越しが面倒とか、実家に戻ると過干渉の母がいるから嫌だとか、せっかくインテリアここまで育てたのにとか、なんとなく変化が怖いとか、税金のこととかほんと細かいところ色々なんです。

夫が病気を治してくれたら嬉しい、というのは間違いではありませんが、
夫をコントロールしようとする、無意識に。そういうところは、夫の問題なのではなく、自分の問題なのだと思いました。


私は夫に共依存していた時、実は辛かったです。
思い通りにならない、イライラして悲しい。

でも手放せた。そうかそういうことなんだ。

もう、母親の悪口に付き合う必要もない。
母親を目の前にするとなんでも話さなきゃいけない気がして、強迫観念みたいなのがありました。でも、私から、母親に情報を与えなくてもいい。

夫を手放せたなら、母親も手放せる。

きっと私も子を産めば、母の気持ちが少しはわかるのかもしれないね。でも、わかっちゃいけないんだよ。

分かろうともしなくていいよ。

18年一緒にいた夫(発達障害/躁鬱/アルコール依存症持ち)と離婚することになりました。離婚して新しい一歩を踏み出すまでを投稿します。