見出し画像

【私の年のせいなのか ここが日本じゃないからか28】生活を軌道に(3)健康診断

 健康診断当日、私は一人で早朝、家からバスとトラムを乗り継いで40分、移民局に向かった。行ってみたら、これが公的施設なのか?と疑うような、普通の事務所、なんなら民家のような、通りに面した古い石造りの建物、1階に入り口がある。ほんとに、ここでいいの?
 呼び出しは8時半。これはGoogleマップさんに掲載されている「営業開始」の時間である。到着したのは8時15分、入り口は目の粗い鎧戸みたいなのが下ろされていて、その向こうのガラス戸の中は暗い。あと15分で営業開始にしては、やる気あんのかてめえ状態である。私が一番乗りだ。入り口の前で立っていたら、次々に人がやってきて、順に歩道に並び始めた。人種もいろいろである。

 私の次に来たのはアジア系、30代か40代かという、とてもスリムな女性だった。女の子を連れている。「ぼんじゅーる」「ぼんじゅーる」「どこから?」あ、英語だ。「日本。あなたは?」「ベトナム」。そこから10分余り、主に彼女の境遇を聞く。
 フランス人の夫と離婚して、仕事を探し中。先週、面接にこぎ着けたんだけど、移民向けのフランス語試験に受からないと就職できないとのこと。あー、シングルマザーは世界中どこでも大変だよねー、日本なんて特に大変だよ。ベトナムは女性が強いのよー。私はベトナムではお金も仕事もあったんだけど、こっち来て、全部失っちゃった。だけど、この子を育てないといけないから、何とか仕事探して頑張るわ。元だんなは、何も助けてくれないから。
 よくよく聞くと、彼女の元の夫は、これが4回目の結婚で、結婚中に愛人を作ったらしい。そ、それは、あなたがダメンズに引っかかったということでは…?と思ったところで、建物内の電気が点き、ドアが開けられ、中からおじさんが二人出てきた。
 「ぼんじゅーる、まだーむ」「ぼんじゅーる、むしゅー、じゅまぺる ひろみ・いざわ」「おー、ういうい、まだむ いろみ いざわ」。いろみじゃねーっつーの。

 名簿にチェックされ、中に入れられる。建物内で、空港と同じように荷物をトレイに置いて、中を開けられ、身体は探知機を通る。東京のフランス大使館と同じだ。でも、おじさんたちはとてもフレンドリーで、欠片も威圧的ではない。
 身体検査の後、受付的なところでパスポートとワクチン証明の紙を出す。簡単にチェックされ、あっちの椅子のところで待ってて、と言われる。座っていると、私の後から順番に人が入ってくる。
 あれ?私の次に入ってくるはずの、さっきのベトナム人女性が来ない。私の後ろで入り口の係の人と話していたのは知ってるけど、何かあったのかな? 結局、私が帰るまで、建物の中で彼女を見ることはなかった。無事にフランスで仕事を見つけて、お嬢さんを育てられるといいけど。そして、別のダメンズに引っかからないといいけど。

 待っている間に、メンタルヘルスに関するアンケート用紙が配られた。私に渡されたのは日本語で書かれていた。何か国語に対応できるんだろう。全部で30問ぐらい、抑鬱状態やアルコールや薬物に関することなど、今までの経験を聞かれるが、全て「はい・いいえ」だけ。正直に答える。

 書き終えて待っていたら、じきに、40代か50代と思われる女性が呼びに来た。彼女のオフィスに入る。「私は英語が得意じゃないけど、ほら、これがあるから大丈夫、安心して!」と、大画面のGoogle翻訳さん(フランス語→日本語)を見せられる。安心…していいのか? 
 まず、先ほど記入したアンケート用紙に基づいて問診。抑鬱状態になったのは20年ほど前の話、「公立高校の教員やってたんですよ。それで、不本意な転勤を機にメンタルやられちゃって。日本では教員のメンタルの問題が結構深刻なんです」と言ったら、「分かるー。フランスでもそうよー。ケアワークの人は大変よねー」と共感してもらえた。
 それから、民間の医療保険に入っているか、糖尿病ではないか、家族に糖尿病の人はいないか、大きな病気は持っていないか、などなどの質問。車の運転に問題がないかどうかのチェックね!ということで、目の検査。
 「ここが終わったら、次にドクターのところへ行って、そしたらあなたは…えーっと」とここでGoogle翻訳さんに「free」と打ち込む。うん、それ、英語でもfreeだから。そして、Google翻訳さんで出てきた日本語は「無料」だから。そっかー、私は無料かー。今までの人生、結構元手が掛かってるつもりなんだけどなー。残念だ。

 彼女に連れられて隣の部屋に入ると、60代?70代かも?の男性ドクター。ここでも英語で、似たような問診が行われたのに加え、コロナワクチンは何回打ったか尋ねられた。「4回打ちました。それでも2回罹りました」「重篤だった?」「いいえー、めっちゃ軽かったです」。
 ドクターは、仕事で日本に行ったことあるそうで、「面白いよねー。伝統的なところと近代的なところがミックスされてて」と話してくれた。「X線写真は持ってきた?」おっと、やっぱり聞かれたか。「いえ、持ってきてません」「good, very good」いや、違うだろ。少なくともvery goodじゃねーだろ。流石だな、フランス。
 健康に問題ありませんという証明書にドクターがサインしたものが2枚用意される。「はい、1枚はあなたのもの、大事にしまっておいてね。もう1枚は、僕の方から役所に送るから、多分、1か月後にあなたの自宅に役所から手紙が送られてきます。そしたら、保管しておいてね。それじゃ、1年間楽しんで!」

 建物から外に出るとまだ9時10分。一番乗りした甲斐があった。これで私は無料、いや自由だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?