生きたいように、生きられるように、生きているように、生きていればいいと思う。

なぜ?

って考えることもあると思います。


子どもが育つ中で、なんで❔と疑問に思うことはとても大事、と言われますが、大人にはもうそれほど必要ないかもな、と思います。


いや、必要な疑問はあると思います、確かに。

しかし普段過ごしている中での頭の回路で、ふと気がつけば『本来は必要のないなぜ』がリーピートされていることも。


子どもはとてもポジティブな『なぜ』なのだと思います。知りたい、分かりたい、という興味。未来志向のなぜ。

しかし大人になって多くなってくるのは、後悔のなぜというか、少し過去志向のなぜ。


なぜ、こんな風になったんだろう。

なぜ、こんなことしているんだろう。

なぜ、いつもこうなんだろう。

子どものそれとはちょっと温度が違うな、と思ったのです。

積極的ななぜと消極的ななぜというのか。


きっと大人の消極的ななぜがあるからこそ、今を変えようとするエネルギーがわいてくるのだろうとも思います。

しかしそれが大半を占めていくと、とても疲れますし、最終的には『なんで生きているんだろうか』と、哲学禅問答が始まることも。

それも必要なことなものだと思いますが、その温度次第だな、と。


哲学好きで禅も好き。生きているってなんだろう♪なら快適です。こういう問いから生まれる答えからの行動は割とうまくいく
もう嫌だな・・疲れたな・・なんで生きているんだろう‥ならばもうネガティブループへまっしぐら。こういう問いから生まれる答えからの行動はうまくいきにくい



私はどちらの面も持ち合わせていて、本を読んだりしながら自分の人生と照らし合わせて色々と追求していくのが好きなんですね。

でも精神状態が落ちている時、特に疲れている時に嫌なことがあったりしたら、後者のような温度になることも。


子どもを見ていて、いつも『なぜ』の温度たけーな、と感じたわけです。別にテンションが高いとか情熱的とかそういうことだけじゃなくて、子どもの方が物の見方がとてもフラットなのですよね。

結局、大人のネガティブループって過去の経験や感情を交えているのですよね。本来はなくても十分機能するものなのだな、と感じます。


ネガティブループを生むような経験があるからこそ、お利口になっていく側面もあるのだとは思いますし、経験としては必要だったものなのですよね。

でも、なぜと温度低めで自問している時は『ちゃんと生きよう』としているのだと思います。何かに沿いたい、何か自分じゃない他人枠や視点に合わせなきゃ、って。

でもそもそもそこに合わせることもないし、自分じゃない他人枠や視点は本当はいらないものだと思うので、人生それほどお利口になる必要もないと思いますし、破天荒ではっちゃけた生き方でも、そんな自分でもいいじゃんって思うので、いつも子どもを見習って生きている次第であります。


ちゃんと生きる必要はなし。どう生きないといけない、もなし。生きたいように、生きられるように、生きているように生きていればいいのだと思います。

いつもサポートや温かいメッセージをありがとうございます✨