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もう少し宿吉住時代の話をしてみよう(下)

前回に引き続き、宿時代の話をしましょう。私は大学在学中にアルバイトとして宿吉住で働き始めました。といっても最初は帳簿の手伝いをしたのがきっかけ。パートさんたち(おばあちゃんはよくオバタリアンと呼んでいた)のお給料計算、請求書の作成、支払いなど。経理の仕事を手伝っていただけで、食事や掃除などの業務はパートさんたちにお任せしていました。パートさんはたしか6人だったかな。全員70歳以上。想像できるかと思いますが、もう本当に大変でした。年齢が年齢ですから、まあ仕方ないです。
そのうち、厨房の仕事に出られる人が減り、私も現場の仕事に入るようになりました。朝食の勤務時間に出られる人がいなくなってしまい、最後の半年くらいはひとりで朝食を担当することに。毎日4時に出勤。早いお客様で5時半に食べに来る方がいたので、遅くても4時に入らないと間に合わないのです。曜日によっては夕食担当の日もあったので、まあそれは大変な毎日でした。

そんな毎日でも、空いた時間で木更津のカフェやコーヒー屋でもアルバイトを続けてましたから、若いエネルギーって本当にすごいです。イベントに出店してコーヒーを売りに行ったりもしてました。全く休みはなかったし、睡眠時間だってまともに取れなかった。毎日どうやって生きていたんだろう?と今思うと不思議です。常に何かに追われる毎日だったけど、あの頃が一番楽しかったかもしれない。ああ、もちろん今も楽しいですよ。ただ、楽しさの質が違った。怖いものは何もなくて、とにかくがむしゃらに何でもやってやるっていう感じでした。ブーブー文句言いながらも毎日充実してた気がする。若さって怖いです。


宿吉住時代の朝食。2018年7月撮影。ご飯味噌汁漬物はおかわり自由。パン派の人はセルフでトーストを。
フルヤ牛乳から毎朝届く牛乳と青汁は飲み放題。


イベントに出店してコーヒーを売っていた頃。約2年間、本当にお世話になったイベントでした。

泊まっていたお客様は全員おじさんだったから、若いのは私たったひとり。なにか問題が起きると、みんな私に報告してくる。オバタリアンたちも、おじさんたちも。私ひとりではどうにもならない時は、両親にお願いして力を貸してもらうこともありました。母には愚痴を沢山聞いてもらっていたし、父には設備関係でトラブルが起きると助けてもらっていました。

いま考えてみても、かなり、相当特殊な環境でした。お客同士で酔っぱらって喧嘩なんてしょっちゅうだったし、オバタリアン同士のいじめみたいなのも毎日起きてた。おばあちゃんは半分ボケて来てたし、毎日何かしら事件が起きてました。今だから笑って話せるけど、当時は本当に必死でした。後悔してることと言えば、もう少しおばあちゃんに優しくしてあげればよかったということかな…。

最終的には私のせいで宿を閉めることになってしまいました。自分でもへなちょこだったなぁと思うのです。だって、おばあちゃんはこの仕事を軽く50年はやっていたんですから。靖子の足元にすら届かなかった。いつももっともっと、まだまだって思ってた。だから今でも後悔しています。だけど後悔し続けても何も生まれません、前を向いて生きていくしかないのです。ただ、その思いだけは忘れてはならないと思っています。だから横浜で喫茶店を開くことになった時は、屋号には「吉住」を使うことを決めていました。定食を続けることも。それが私にできること、私にしかできないことだと思うのです。場所も形も変わったけど、私自身が宿吉住を忘れないために、今こうして店をやっているのです。

横浜で店を始めて気がついたことがあります。あんなに苦しかったはずなのに、宿をやっていた時の方が楽だったということ。なんだかんだ言ったって、守られていたんだということに気がつきました。一から自分でやるということ、一からお客様を呼ぶということ、全て自分の責任であるということ、お金を稼ぐということ…これがどれほど大変なことなのか。3年経った今も、毎日恐怖との隣り合わせです。毎日笑ったり、挫けたり、落ち込んだり。色々です。その分、生きてるっていう実感はありますけどね。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。次回は、宿吉住の仕事をしながら、あちこちの飲食店で働いていた時代の話をしようと思います。題して、「稲毛ひろ美、ポンコツ時代」です。もうどうしようもないくらいに、ポンコツだったあの頃。あの時あの人に出会っていなかったら…きっと自分で店はやっていなかったと思います。どうぞ次回もお付き合いくださいませ。

見出しの写真は祖父吉住武三郎です。口数は少なく、とても温厚な人でした。

季節の喫茶 吉住 稲毛ひろ美

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