正論マンの危うさ
正しさの正体
「〇〇は、これこれこうあらねばナラナイ!」
頑張って正論を主張する人は、どこの社会でも一定数いる。なるほど、その主張はその通りかもしれない。でも、正論を振りかざす人に対して、なんだかモヤモヤしたした感情を抱いてしまうこと、ないですか?
そう、分かる。言いたいことはわかるよ。でも、そうじゃないんだよな…
正論を吐いて頑張っている人の周りにいる人のほとんどは、こんな感想を持ってしまって、その場の空気はどんどんと悪くなる。
リアルではなんとなく距離を置かれちゃうような正論マンですが、SNS上では物理的に距離を置かれることはないので、匿名性も相まって「我の意見こそ正論!」という人、めっちゃいてると思います。
「言ってることは、確かに正しい。けど…」
なぜ、一見正しいのにも関わらず、多くの人に受け入れてもらえないのでしょう。
文字通りに解釈すれば、理にかなった正しい意見です。仮に、誰もがなるほどと納得し、理解できる論であるならば、この違和感を感じることはないでしょう。しかし、違和感を感じて距離を置くようになる。
むしろ、理屈は通っている気がするけど、、、というモヤモヤを感じさせるからこそ、「正論」と呼ばれてしまうのかな?というくらい、私たちは正論という言葉にマイナスのイメージを重ね合わせて使っています。
これは、「分かるけど、なんか納得できないんだよな…」という感覚を感じつつも、それに対する有効な反論ができない、または、反論するとなにがしかのレッテルを貼られるような風潮があるから反論しない、という意見に対して、正論だなと感じるのです。
なぜ、理にかなっているにも関わらず、違和感を感じるのでしょう。これは、そもそも「正しさ」というものの基準が曖昧で、人によって全然違うかったり、時代によっても変わってくるものを、さも全ての人が主張されている「正しさ」にしたがう“べき”である!という、正論マンが醸し出す特殊な傲慢さに、違和感を感じるのだと思います。
物の見方は千差万別です。もちろん、大多数の人が「正しい」と認識する社会通念はあります。例えば「人を殺してはならない」という論に対して、「いや、それは違う!」という主張をする人がいたならば、かなりの危険人物と認識されかねないです。
ただし、例えば戦国時代の常識で考えると、敵将の首を討ち取ってくる人は英雄とされましたし、自分よりも前の世代の身内を殺された時に相手方に復讐する習慣は、敵討ちや仇討ちと呼ばれ、喧嘩両成敗を原則として紛争を処理した江戸時代には、当事者の不合理感を補う制度として、法の上でも認められていました。
このように、今の時代の物差しで測るとトンデモな常識も、時代が変わると真っ当なことだと、賞賛すらされる。という、可変性を秘めているのが正しさ、というものの正体なのです。
正論のしんどさ
この、人によったり時代によったりと、絶対的な基準のないことに対して、「自分の見え方こそ正解!」という前提に立って、“自分の”正論が全ての正論だとする論調が、周りの人に不快感を与え、違和感を感じさせるのではないでしょうか。
辛い経験をした。だから、この辛さを与えてきた社会は、組織は、悪!
うーん、その辛さを否定しませんし、さぞかし大変だったのでしょう。それは個人の経験なので、周りがとやかく口を挟むことは野暮です。でも、それはあなたが感じた一面だけであって、物事はそんなに単純ではないんですよね。。。
という感想。でも、これを口にすると「あなたは何もわかっていない!」「結局そっち側か!」という見事な被害者ムーブを見せられるのがわかっているから、何も言わない。何も言えない。誰も何も言わないから、ここぞとばかりに正論に正論を重ねてしまう。
この感じが、なんとも言葉にできない違和感として、周りに伝わってしまうのでしょう。
正論のしんどさは、一個人の経験を、全体の経験と決めつけ、悪を糾弾するかのごとくに人や組織を責め立てる、というところにあるのではないでしょうか。
正論マンの矛盾
さて、「言い返したらめんどくさそうだから、静かになるまで放置しておこう…」。こんな対処をされがちな正論マン。
なんとも不思議なことに、言っている本人は、自分こそが正しいと信じ込んでいる人が多いので、自己反省という、自らを省みることをあまりされていないパターンが多いです。自分を見ることをしない。
なので、「人(自分)に優しくない社会はおかしい!」「人(自分)が辛い思いをした組織は潰れるべきだ!」という論を唱え出しがちです。
冷静に分析できるのであれば、その強い論調によって、傷ついている人がいるかもしれないのに、見事なまでに自分のことは棚に上げています。仮にそれを指摘されると、「自分だけでない。多くの人が苦しんでいる(はず!)」と、途端に主語が大きくなります。
だいたいの人は、主語が大きくなってくる段階で、「あ、、(察し)」となって、反論せずに距離を置くようになります。そうすると、そもそも物事の一側面だけを見て全体と感じたり、自分の事を省みるということをしない性質がある人は、「誰も言い返してこない。やはり自説こそが正しい…!」となり、ますます頑張ってしまう、ということになるのかなと。
こういった類の人、あなたの周りにもいませんか?ものすごくしんどいですよね。そして、大人な対処をする人は、そっとその人から離れて終わり。という結末になります。
二元論の危うさ
さて。なぜこのように思考が働くのでしょうか。いろいろな原因が考えられます。
戦後教育なども、大きく影響しているようです。テストで「正解」を出せる人が優秀。という、小さい頃からの習慣にあまりに慣れすぎているがために、何事にも正解が存在し、はっきりと白黒つけられる。という、思い込み。
これがあるために、極端に正解か、不正解かを出したがります。そして、自分が正解と思っている逆の理論は不正解と決めつけることで、ある種の安心を得ようとしているのです。
これは、所謂思考停止と言われるものだと考えます。手っ取り早く正解と決めつけられると、あとのことは粘り強く考える必要がなくなる。こうなると、自分の論の正しさを主張し、それ以外の論の間違いを糾弾しているだけでよろしくなる。
要は楽なんですよね。考えなくていいので。
これ、楽だけど、ものすごく危険な考え方だと思うんですよね。正しさの捉え方とその後のムーブを単純化しすぎるとどうなるかわかりますか?
いとも容易に、世界は敵になってしまうんです。
だって、その人が主張する“正しさ”は、どこまで行ってもその人個人にしか帰属しないので、ほとんどの人と相容れない可能性があるからです。
本当の正しさとは
さきほど、正しさは時代や人が変わると変化する、と言いました。
可変性があるのが、実は正しさの正体なんです。
ここを踏まえて考えると、本当の正しさというのを、どうやって見出していったらいいのかが見えてきます。
あらゆる正しさは相対的なものです。絶対的なものではない。
という前提に立つと、「自分の考えや経験が絶対」という、驕った考え方はできなくなります。
時代や人によって変わる、という、相対性を踏まえて考えると、本当の正しさとは、そこにいる人たちの間で、お互いの正しさが合意できる範囲の「正しさ」にたどり着いた時に、その場の「正しさ」が形成される、という性質のものなんです。
この合意形成をするには、粘り強さが必要です。自分が我慢していたらそれでいい、というものではないです。
自分の正しさを主張しつつ、相手の主張に耳を傾ける。お互い、主張しつつ相手の考え方も否定しない。その中で、お互いが譲れる範囲を確認していって、お互いに納得するところまでいく。
ここまでやって、双方納得、喧嘩しない、相手を攻撃する必要もない、素晴らしい正論が形成されるのです。
正論を振り翳して人を攻撃するような類の人は、このプロセスを踏まずに、自分の主張だけを受け入れろ!という姿勢を見せてくる。要は、人の心をコントロールしたいと考え、自分の変化を極端に嫌うからこそ、周りに不快感を与えてしまうのだと考えます。
敵か味方か
こういう正論マンは、深くコミュニケーションを取ることを厭う傾向があるので、短絡的に快か不快かで断定し、自分の主張を展開しがちです。
短絡的な快不快で断定するのが楽なので、自分の意見と違う人を“敵”とみなしがちです。そして、自分に賛同していると感じられる人を“見方”とみなして、明らかに敵味方を区別して隔てます。
しかし、その基準が自分が快か不快かであるので、かなりあやふや。なので、味方とみなしていた人も、別の事案で意見が分かれると、あっさりと敵になってしまう、という性質があります。
これ、考えてみるとすぐに分かるのですが、全てにおいて意見が一致する人など、たとえ双子であってもありえません。なので、どんどんと敵を増やしてゆく、という悲しい末路が待っているのです。
極端な理想主義者が、正論マンとなってゆくのでしょう。理想を掲げるのが悪いとは思いませんが、極端な理想主義者の行き着く先は、歴史が証明しています。
理想を掲げて集まった人たちも、時間の経過とともに中で意見が別れ、味方が敵となり、最後は内ゲバを起こしてしまう。少し歴史を学ぶと、すぐに分かる結末です。
自分が正しい
正論で人を責める人は、自分を変えることをしない。と先述しました。
これが思想の根底にあって、自分以外の世界は自分の理想通りであらねばならない!と考えているように見受けられます。
これがどういうことになるかというと、
①理想社会はこれ!(こうあらねばならない)
②理想とは程遠い現実(自分が不快)
③今の現状が間違っている!
こうなります。なので、今現在に満足することはありません。
満足することがないとどうなるか。
しかも、自分を変えることはしないという前提です。
自分は正しい。世界は間違っている。自分の理想とする社会や組織であらねばならない。
結果:やたらと攻撃的になる。そして人が離れてゆく。
悲しい。書いていてあまりにも悲しすぎる結末。現在の状況を冷静に把握して、よりよくしてゆこう、という考え方とはパッと見似てはいます。しかし現状を肯定するか否定するかで、その先は全然違うものになってしまうのです。
今が間違っている
常々こう感じているので、「こんな社会は間違っている。ゆえに正さなければならない。そのためには相手を責めることも正しい」と思考するのか、本当に攻撃的。なので、顔つきもなぜかキツくなってゆきます。でも、掲げている思想は「みんなが幸せな社会」。そのためには、自分と考え方の違う人を攻撃することも厭わない。
なぜ?と思ってしまいますが、なぜかこういった考え方になってゆくのです。自分を冷静に見る難しさですね。だから、人の意見に真摯に耳を傾ける姿勢は大切なのです。自分では自分がわからないので。でも、自分は変化しないという前提の正論マンは、人の意見を受け入れない人が多いので、この矛盾を自分で解消することができにくいのではないでしょうか。
もっというと、この論法の行き着く先は、自分以外を変えようとすることを目的としているので、目的はいつまで経っても達成できない、ということになります。だって、人の心を変えることなんてできないので。
ということは、常に「周りが間違っている!自分の説が正しい!」を永遠に繰り返し続けることになる。
だんだんとその人が、世界から孤立してゆく、ということになります。正論マンの目から見たら、自分が孤立しているのではなく、自分が正しいので、世界が自分から孤立しているように感じているのかもしれないですね。
理解して欲しい
前提としている考え方は、自分が正しい。よって、意見の合わない人は間違っている。というものです。
その思想のさらに根底にあるのは、「自分のことをわかってほしい」なんです。自分の正しさをわかって欲しい。自分の主張を受け入れて欲しい。こんな考え方が根底にあるようです。
多かれ少なかれ、人間にはこの欲求があります。それを前提として、相手の意見も受け入れ、自分の意見も受け入れてもらい、円滑に関係を構築してゆく、というのが、おだやかな人間関係となります。
正論マンは、自分の意見は通るべき!自分が気に食わない理論は排除すべき!となってしまうので、「言いたいことはわかるけどさ…」と、周りから引かれてしまうのです。
お互い正しさは持っている。そこをどう擦り合わせてゆくか?という、ある種の共同作業を通して、共通認識としての正しさを構築してゆく。こんな、コミュニケーションを取ることができたら、もっと世界は優しくなるのかなと思います。
そして、どうしても相容れることができない場合は、相手を攻撃するのではなく、そっと距離を置く。これができるようになりたいですね。
正論マンへの対処法
とはいえ、距離を置くことができないような、身内であったり職場で会ったりの関係というのもあります。
そんな時にはどうしたらいいでしょうか。
それは、個別にコミュニケーションを取る、ということなんです。
正論マンは、なぜか複数人いる場で、その本領をより発揮します。そこで、同じように正論をぶつけるとどうなるか?開戦のゴング。戦争開始です。
より自分の正しさを主張し、聴衆にアピールする、というムーブをとります。そして、自分に同調する味方を募り、賛同しない人を敵とみなすようになります。
これでは、正論マンの独壇場となり、そこに意見をぶつければぶつけるほど、火に油を注ぐ事になります。
しかし、一対一で穏やかに粘り強く、その人の主張に耳を傾け、なるほどと感じる事には同調してゆくと、穏やかな人間関係を築くことができた場合が多かったです。そういった穏やかな関係を築けたら、荒ぶる心も落ち着き、全体の中に入っても穏やかな態度になる、ということが多かった。
ここから考えられることは、正論マンは、自分なりの正論で理論武装しなければならないほどセンシティブで、打たれ弱い性質を持っているのかもしれません。
センシティブさは、よいように発揮されると人の心の機微がよくわかり、悩みや苦しみに寄り添うことができる、などのように、人のたすかりに寄与することができます。何らなの原因で、それが自分を守るために発動するようになってしまった人が、正論を振りかざすようになったのかな、と思います。
世界は矛盾でできている
良し悪しで判断せず、世界はグラデーションなんだと気づくことができれば。人間は矛盾に満ちた生物だと理解できれば。もっと優しく生きていけるのかなと。
そして、正論は、人に対して振りかざすと凶器になりますが、自分自身を律するものとして利用すると、それはそれは素晴らしい人間となってゆくものだと思います。
世界は矛盾でできている。もっというと、どんな物事にも裏もあれば表もある。という、世界の成り立ちが理解できたのなら、どちらかが正解で反対は不正解だ、というのではなくて、より良い面を見ながら、良い面を自分のために、人のために、世のために使っていけるようになるのではないかなと思います。
短絡的に判断することをちょっと横に置いて、粘り強く辛抱強く、快か不快かという、自分の基準だけで決めつけてしまわないような、そんな胆力を身につけてゆきたいものですね。
おしまい。
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