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『嵐が丘』という夢を見た

『嵐が丘』は、海を渡って『夢十夜』第一夜につながった!? 

『嵐が丘』でのヒースクリフとキャサリンの魂の合一が『夢十夜』夢一夜の百合との接吻とイメージが重なり、いろいろ調べるうちに、夏目漱石は、留学先のイギリスでエミリー・ブロンテが逞しく生きた時代の匂いを感じたに違いない。そんな仮説を立てて書いた作品です。

嵐が丘

第三十四章

夢一夜 A Dream, I am
   

夏目漱石
E・ブロンテ[訳]


あらまし

夏目漱石は、留学先のイギリスでエミリー・ブロンテが逞しく生きた時代の匂いを感じたに違いない。――『夢十夜』第一夜を読んだ時、そんな思いに駆られた。生と死のあいだを彷徨う夢物語。そんな『嵐が丘』という台木に、漱石の『夢十夜』の接ぎ木を接着してみた。死ぬ間際のヒースクリフの夢の続きである。100年待ったヒースクリフはどんな夢を見たのだろうか。


まえぶれ

 不思議な変化が訪れることを悟ったヒースクリフは、食事もろくにとらずに、キャサリンの夢幻を追いかけて夜通しどこかをさまよったり、何かにぶつぶつ呟くようになる。心配したネリーは居ても立っても居られなくなって…

嵐が丘と夢一夜

あたしはまっすぐ居間に入っていく勇気は出ませんでしたが、この人を夢から覚ましたかったので、台所の暖炉をいじることにし、火をかき立て、熾きをひっくり返したんです。これは思ったより早くヒースクリフを呼び寄せました。あの人はただちにドアを明けると、こう云いました――

 こんな夢を見た。
 腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝たキャサリンが、静かな声で「もう死にます」と云う。彼女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は赤い。とうてい死にそうには見えない。しかしキャサリンは静かな声で、「もう死ぬのよ」とはっきり云った。
 俺も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、「そうか、もう死ぬのか」と上から覗き込むようにして聞いて見た。「死にますとも」と云いながら、キャサリンはぱっちりと眼を明けた。大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。俺は透き徹おるほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死んでしまうのかと思った。それで、念入りに枕の傍へ口を付けて、「死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね」とまた聞き返した。するとキャサリンは黒い眼を眠そうに瞠ったまま、やっぱり静かな声で、でも、「死ぬんですもの、仕方がないわ」と云った。
 「じゃ、俺の顔が見えるかい」と一心に聞くと、「見えるも何も、そら、そこに、写ってるじゃないの」と微笑んだ。俺は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのだろうかと思った。
 しばらくして、キャサリンがまたこう云った。
 「死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の欠片を墓標に置いてください。そうして墓の傍に待っていてください。また逢いに来ますから」
 俺は、「いつ逢いに来るのか」と訊ねた。 「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。――赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、――あなた、待っていられますか」
 俺は黙ってうなずいた。キャサリンは静かな調子を一段張り上げて、「百年待っていてください」と思い切った声で云った。「百年、私の墓のそばに坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」
 俺はただ待っていると応えた。すると、黒い瞳のなかに鮮やかに見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、キャサリンの眼がぱちりと閉じた。長いまつげの間から涙が頬へ垂れた。――もう死んでいた。
 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑らかな縁の鋭い貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂いもした。穴はしばらくして掘れた。キャサリンをその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
 それから星の欠片の落ちたのを拾って来て、そっと土の上へ乗せた。星の欠片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、胸と手が少し暖くなった。
 ヒースクリフは、何かを見つめるように話をつづけました――
 自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、キャサリンの云った通り日が東から出た。大きな真赤な太陽だった。それがまた彼女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまであっという間に落ちて行った。一つと自分は数えた。
 しばらくするとまた太陽がのぼって来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた数えた。
 自分はこう云う風に一つ二つと数えていくうちに、赤い太陽をいくつ見たか分らない。数えても、数えても、しつくせないほど赤い太陽が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分はキャサリンに欺されたのではなかろうかと思い出した。
 すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。
そこへ遥かの上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。「ああ、キャシー!俺の命!」自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、金星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時はじめて気がついた。
 ――避けた皮膚からは血の一滴も出ておりませんでしたが、そこに手をあてたとたん、疑いの余地はなくなりました――あの人は死んで硬くなっていたんです!

「完」



エミリーと漱石の夢を想う


記・奥富宏幸

●癒合

 『夢十夜』を最初に読んだのは近藤ようこの漫画だった。小説は小説のままで読むほうがいいに決まっているだろう。それでも漫画の『夢十夜』には、語り過ぎないことで読者の想像力を掻き立てる何かがある。あとで小説を読んでみる。これがなかなかその面影を残しつつ、作品を忠実に再現しているではないか。近藤は小説を深く読む必要があっただろう。そんな読み方があってもよいのではないか。
 『嵐が丘』はこれまでに何度も翻訳が重ねられており、その度に原作の語り直しが行われている。例えば、第九章のこの文章。
Nelly, I am Heathcliff ―he's always, always in my mind― not as a please, any more than I am always a pleasure to myself ―but, as my own being―


1932年、日本で最初に翻訳を手掛けた大和資雄はこんな風に訳した。
 ネリーや、私はヒースクリフよ!
 あの人はいつもいつも私の心にいてよ。
 私自身が必ずしも私にとって
 愉快なものじゃないと同様に、 
 あの人も愉快なものとしてではなく、
 私自身として私の心にいてよ

続いて、1951年の田中西次郎の翻訳。
 ネリーや、あたしはヒースクリフです!
 あの子はいつもーわたしの心の中にいる。
 あたし自身があたしにとって
 必ずしもつねに喜びではないのと同じことで、
 あの子も喜びとしてでなく、あたし自身として、
 あたしの心に住んでいるのです。

そして、2003年に出版された鴻巣友季子の新訳。
 ネリー、わたしはヒースクリフとひとつなのよ―
 ―あの子はどんな時でも、いつまでも、
 わたしの心のなかにいるー
 ―そんなに楽しいものではないわよ。
 ときには自分で自分が好きになれないのといっしょでね―
 ―だけど、まるで自分自身みたいなの。
 
 時代が変われば、読者も変わる。「私」「あたし」「わたし」と人称代名詞も変わるし、キャサリンの息づかいと合わせるためにダッシュ「―」も使う。翻訳とは、意味の想像であり、解釈の創造であり、意図の「送贈」なのだ。そうして新訳が出るたびに、原作は「古典」でありながら「新作」となる。

 鴻巣友季子は、新訳した『嵐が丘』のあとがきの最後にこんなことを云っている。「『嵐が丘』は時代とともにますます新しく、ますます豊かになっていく。古典の最高峰にして、つねに時代を先駆ける小説でありつづけるにちがいない。」

 時代を超え、場所を超えてもなお、世界中で読み継がれる『嵐が丘』を私も翻訳してみたいと考えた。無論、プロの翻訳ができるはずもない。単に原作を日本語で訳するものではない、翻案や本歌取りとも違う。ここでの「翻訳」とは、エミリー・ブロンテが伝えたかった世界観を読者が全身で浴びて再編集できる方法のことを云う。

 『嵐が丘』には終始、濃厚な「夢」のにほひが漂う。
 第三章で、ロックウッドは夢の中で二十年彷徨うキャサリンの亡霊に震え上がったし、ヒースクリフはキャサリンの亡霊を現実として信じて、うろたえ泣き崩れる。すでに、読者は夢の世界に引き込まれていく。
 
世代を超えて生と死、地中と地上、此岸と彼岸のあいだを彷徨う夢物語。そんな『嵐が丘』という台木に、夏目漱石の『夢十夜』の接ぎ木を接着してみたのが『夢一夜』。死ぬ間際のヒースクリフの夢の続きである。

●出合

 夏目漱石は『夢十夜』第一夜をラファエル前派の画家ロセッティの「祝福されし乙女」("The Blessed Damozel")という絵画から着想したらしい。1850年、この絵画の前にロセッティは機関誌「芽生え」に同じ題名の詩を発表した。その中にこんな一節がある。

  天に召されし乙女、
  天国の黄金の欄干から
  身を乗り出して
  その目は夕暮れの
  深い淵より深く
  手に三本の百合の花を、
  髪に七つの星を戴いて

 この詩には先があるのだが、地上に残された青年と昇天した乙女との間の時空を超えた愛の物語である。漱石がこの詩を読んだかはわからないが、天に召されし乙女は、『夢十夜』第一夜で百年待ってほしいと伝えた女のようにも見えるし、「百合」や「星」といったキーワードも二人の作品で重要な意味を与えている。ロセッティーも漱石も男女二人が一つになる瞬間を何とか永遠化しようとする意図が垣間見れる。

 そのロセッティには妹のクリスティーナがいた。彼女の詩は、宮崎駿監督の作品『風立ちぬ』の作中で主人公によって朗読され注目を浴びた。

  誰が風を 見たでしょう?
  僕もあなたも 見やしない、
  けれど木の葉を 顫(ふる)わせて
  風は通り抜けてゆく。
  誰が風を見たでしょう?
  あなたも僕も 見やしない、
  けれど樹立が 頭を下げて
  風は通りすぎてゆく。
 (西條八十・訳)

 ロセッティが生きたヴィクトリア朝時代は女性にとって非常に生きにくい時代だった。未婚である女性は「余った女性」として、社会から多くの抑圧を受けた。生涯独身を貫いたエミリーも同じような経験をしたのである。
 
 エミリーがエリス・ベルという男性名を使って出版したのもそんな息苦しい社会の中で、何とか風穴を明けるための苦肉の策だった。エミリーが偏執狂のヒースクリフを主人公にしたのも、男性優位社会の影を当てようとしたからだろう。キャサリンがエドガーを選んだのは、当時の中流階級の女性たちがそうしていたように、結婚する以外生きるための選択肢がなかったからだ。結局、その妥協をヒースクリフには赦してもらえなかったのだが。"I'm Heathcliff!"と叫んだキャサリンは、エミリーそのものだったのかもしれない。
 
 夏目漱石は、「病気のデパート」と呼ばれるほどの病歴があった。3歳で痘瘡(とうそう)、17歳で虫垂炎、20歳でトラホーム(伝染性慢性結膜炎)、英国から帰国後に神経衰弱や胃潰瘍…、そして生涯を通じて常に根底に抱えていた人間嫌いの厭世病。20歳の時に長兄と次兄を結核で亡くしている。兄弟姉妹が相次いで結核でこの世を去ったエミリーとも重なる。そんな身体から『夢十夜』は生まれた。エミリーは人生のほとんどをハワースで過ごした。滅多に他人と口をきかない内気な性格で、人前では、"Yes", "No", "Thank you"といったモノシラブルの単語しか発声しない寡黙な少女だった。
 
  エミリーと漱石の中には、人並外れたコンプレックスやトラウマが隠されていた。そのエネルギーの塊が、社会の矛盾や葛藤に潔く分け入る風となった。そうして二人は弱いものと死への眼差しを注ぐようになり、より大きな存在との出合を願ったのだ。『夢一夜』は、そんな二人のフラジャイルな精神世界を接合するという構想から生まれた。

●縫合

 「嵐が丘の中を生きた」ネリーと、「嵐が丘を外から眺める」ロックウッドの語り手の対比は、時間の流れを止める効果があるし、まるで夢の中の話を聞いているかのような錯覚さえ覚える。三世代二家族の愛憎劇といのちを物語の経糸だとすれば、二人の語り手は過去と現在の境界を曖昧にする横糸を通している。

 他方、『夢十夜』は、「こんな夢を見た」から物語が始まる。虚構の語り手の夢が描かれるが、実際に本当に夢を見たのかもわからない。小説の中での夢の話ということは、夢の中の夢、つまり二重の意味でのフィクションなのである。このような二重構造は、読者を惑わせ、様々な解釈を生むので、ますます物語世界に彷徨うことになる。
 
 『嵐が丘』で、キャサリンは"I'm Heathcliff"(わたしはヒースクリフと一つなのよ)と叫び、ヒースクリフは、Oh, Cathy! Oh mylife!(ああ、キャシー!俺の命!)と応戦する。欲しいものは力づくでも手に入れようとする、激しくぶつかり合う二人。暴力的で抑圧的な関係の中に愛の形を探した。
 
 片や、『夢十夜』では、男は女の言いなりになって百年待つことになる。首をそっと出す百合にそっと接吻する男。姿は見えないが二人には心が通い合うものがある。それはアニミズム的な感覚だろう。ロセッティーが追い求めた恋愛の永遠化というモチーフを、漱石はすべてのものに神が宿るという自然崇拝的な日本的世界観へ移植した。
 
 『嵐が丘』では二十年待ったキャサリンの亡霊がヒースクリフと出会うが、『夢一夜』ではヒースクリフが百年待ってキャサリン(百合)と再会する。百合は、生まれ変わったキャサリンの死霊(ghost)か、あるいはヒースクリフが憑依した悪鬼(demon)の化身なのか、読者に様々な解釈を与えることだろう。確かなことは、キャサリンとヒースクリフは、二人で一つの百合となり、ヒースやカンパネラの間で静かに咲いているということだ。


●永遠に

 1802年、ヒースクリフが死去する。享年34歳。1902年、夏目漱石は英国から帰国の途につく。35歳だった。

 ――ヒースの丘を荒々しく吹き抜ける風に乗って、エミリー・ブロンテの魂が夏目漱石に『嵐が丘』を語りかけたのかもしれない。
 
 漱石は帰国して6年後の1908年、『夢十夜』を発表した。
 ――100年待ったヒースクリフはどんな夢を見たのだろうか。キャサリンといっしょになれたのだろうか?そんな夢を想像してみると、『嵐が丘』が昨日の出来事のように立ち上がってくる。

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