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自由の先にあるもの

僕は今とても自由だ。コツコツと真面目に大学に通っていたおかげで今学期全ての科目を落単しても卒業出来る。だから一つひとつの授業も単位のことなど考えずに純粋に楽しめている。自由とは良いものだ。

自由が丘での一杯。上に乗ってる角煮が最高



人生の中でも比較的自由な時間を過ごせる大学4年間を、僕はどれだけ満喫してきたのか。

コロナ禍での入学はオンライン授業という時間的自由を与えながらも、外出自粛という行動に対する自由は与えてくれなかった。今の1.2年生はほぼ完全に対面で大学生活を送れているので非常に羨ましい。
2.3年生ではそれぞれ学内のゼミ活動やプロジェクトで大忙しだった。朝は7時に起き、19時に帰宅してからも夜はzoomで日を跨ぐ、なんてことの繰り返しだった。そこに加えて扶養ぎりぎりにアルバイトをしていたものだから残された自由な時間はほんのわずかだった。
でも大学にいた時間やzoomの時間は仲間と過ごす充実した時間だったし、そこで努力する大切や目標を達成する喜びを知ったからこそ、人として成長して自由な時間を手に入れることが出来ているのだと思う。

プロ野球のイベント企画とか、
絶対大人になってからは出来ない貴重な経験



とは言いつつ大学3年生までは「自由」についてそこまで強い意識をしてこなかったし、正直まだまだ社会的には子どもであり、比較的自由が認められていた。


それが就活を経て大学もラスト1年となった今年からは大きく変わった。社会で働く人達は思った以上に自由は無いと感じたからだ。
平日は朝8時半から夕方6時まで5日間働き、休みはたったの週2日。土日と祝日がしっかり休めるだけまだマシと捉えてもいいのだが、その考え自体が既に大学生までの考えとは大きく異なるところであり、そこを実感したら残りの大学生活がとても貴重なものだと思った。

さあでは自由を意識し、自由を求めた結果どうなったか。自由を得て、好きな人と、好きな時間に、好きな場所で、好きなことをする。
この人、場所、時間は自分だけのものでは無い。人に関してはぼくのやりたいがままに行動してくれる訳では無いし、場所も公共のスペースは自分一人ではなくみんなでルールを守りながら使う。時間も止めたり進めたりすることは出来ない。
結局自由を意識しても自由より制約に囚われてしまった。
自由とは、実に難しい。

自由な時間
普段バスで通過する道も歩くと景色が違う


槇原敬之の「もう恋なんてしない」では

一緒にいる時はきゅうくつにおもえるけど
やっと自由を手に入れたぼくはもっと淋しくなった

という歌詞がある。その通りだと思う。
自由を求めてもその先にあるのは寂しさや孤独感なので、求めずに自然と今起きていることを受け入れて暮らす方が幸せなんじゃないか。
その方が結果的に楽な気がしてきた。

最近特にたくさん聞いてる

英語では自由を「liberty」または「freedom」というが、「liberty」はラテン語由来で「束縛や支配からの解放」の意味合いが強いらしい。
対して「freedom」はゲルマン語由来とされる?古英語で「愛される身分の者」という意味になるらしい。単純に自由と言っても様々あるのだなとGoogleで調べながら感心しつつ、僕はfreedomもlibertyも両方手に入れたいなと欲張っている。

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