山下翔『温泉』

煙草吸ふ母のライターで火をつけてあれが最後の花火だつたな
うすらいでゆく夢のやうそののちの感情をながく胸にあづけて
梨と水、SUNNYに買ひて二百九十二円 おつりの十円冷た   冷=つめ
挨拶をせむと胸よりおくりこむ空気は低く ・んばんは 冬の
母が号びしこと一度きりありしこと時々おもふ記憶のなかに   号=さけ
簡単なことばに換へてさみしかり聞きとつてもらへないことばより



〈こども〉の言葉はいつも遅れて発される。その〈こども〉の言葉でも〈大人〉の言葉でも日常の言葉でもなく、ぽろっと、何かもうひとつの、ほかの誰かの、ありえたかもしれない記憶のような言葉がこぼれて黄色く光る、赤く灯るような歌。欠けた空間をながくのばして呼吸をさせるように歌がつくられていて、読んでいると伸びやかな心地になる。歌われているのはひとつひとつの実で、読んでいるわたしはその実に連なる枝が自分のなかにあることを思い出し自由にからだをのばす。

自分は子どもが生まれてから歌集を読んだり短歌をつくったりしはじめたため、母親とは、みたいなことを考え試行錯誤せざるを得ない時間と、短歌と付き合うこととの時間が自分のなかでかなり重なり混じってしまっているはずだと思う。〈いない母〉が欠けながら満ちながらずっとこの歌集のなかにいたためどぎまぎし、拒んでも拒んでも〈いる母〉を感じながらしか自分のなかに連なる枝を思い出せないことを思う。もっと豊かな読み方があるのだろうな、さみしいな、さみしさが向こうにあるな、と。ただ、そのさみしさのあたりにどの役割からも解放された自分がいるような気も、そこで息がつけるような気もする。好きな歌がたくさんあった。


山下翔『温泉』(現代短歌社)


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