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82年生まれ、キム・ジヨン

あとがきを読みながら、鼻からたらりと血が流れた。自分がこんなに興奮して本を読んでいたんだと驚くのと同時にこの熱量を忘れてはいけないと思った。

本の帯に魅入られたのは初めての経験で、書店ですぐに手に取って購入を決めた。そこには「女性が人生で出会う困難、差別を描き、絶大な共感から社会現象を巻き起こした話題作」とあった。大きな文字でベストセラー小説と書かれていることに気付かず、序章で小説であることを理解したくらいに、これはフィクションでありながらノンフィクションだった。彼女は私であって、すべての女性そのものだった。

本書は構成としてキム・ジヨン氏の担当医がカルテとして、まるでルポタージュであるかのようなリアリティと、小説ならではの繊細な表現技法を用いながら年代ごとに分離して展開されている。

彼女は幼少期から「性別による不条理さ」を体感していた。末っ子の弟の方が優遇され、学校では出席番号は男子が先。給食だって女子は男子のあとである。それに対して私は、恥ずかしながら小学生のときは男女差別はないものだと思って生きていた(彼女は82年生まれで、私は01年生まれである違いはあるが)。いつも怒られるのは男子ばかりで、女子は学習面でも生活面でも問題を起こさないからと褒められる対象だった。「男じゃなくてよかった」と思っていたし、それは今も思っている。(これは、ジェンダーを学ぶきっかけが絶対的に自分の性別が女性だからこそだと信じているからである。)

女性が社会で生きる上で経験する「女としての不条理」はたくさんあると思うが、私は大人が被害者を黙らせることの罪深さは計り知れないように感じる。本書で言えば、男児が彼女に対して嫌がらせをしたことを怒ったあとに、担任は「彼はジヨンのことが好きなんだよ」と告げ、そしてこう述べるのだ。

「男の子はもともと、好きな女の子ほど意地悪したりするんだよ。先生がちゃんと話しておくから、こんなふうに誤解したままで席を替えたりしないで、この機会に仲良くなれたらいいんだけど」(P37)

「男の子は好きな子に嫌がらせをする」という事象については深層心理として気になるものではあるが、それはさておきこの発言には問題点が2点ある。

1つは「加害側の真の意図が好意であれば被害側は容認しなければならない」という被害者の気持ちガン無視ルールに則って被害者に我慢する習慣づけをすること。被害者が与えられた不快感に蓋をすることは、反論を抑圧させる力を持つ。完全に加害者に分があるルールであり、被害者は何も落ち度がないと言えるのにである。

2つは「好意によって過去の行いは精算される、むしろ不愉快な思いが晴れて嬉しいと思う要素になる」と教師が信じていることである。本書では90年代の話として出てくるが、今現在でもこの固定概念は崩れていないものである(私の世代も言われた経験があるだろうし、実際私もある)。固定概念の再生産を止めるには初等教育、それ以前からの教育が必要不可欠であるに対して身近な担任という存在が自然とそれらを埋め込んでいるのは、本当に悩ましく罪深い。もちろん、この担任も「好きなんだから許してあげな」と発言する人も、悪意がない。本当に純粋に「君が歩み寄ればうまくいくよ」と思っているからだ。これが1番厄介である。根底にある問題に目を向けられることがなく、被害者の気持ちを考える想像力に至らないことの証左であるからだ。男性の場合は「自分が昔も好きな子にちょっかいかけたことがあるから」という事象も影響しているだろうし、女性の場合は男性対する完璧な迎合を無意識的に吸収していると言える。もしくは「全く意識しない相手からの好意も嬉しいと受け取れる」人かもしれない。少し話が逸れてしまったが、このように本書では男女差別に関する議論のしがいがあるエピソードだらけである。たった一言でも強く揺さぶられるものだったり、深く考えさせられる日常の事象が散りばめられている。

潜在的に根付いている男女差別を変革するには制度を変えることはもちろんのこと、意識をアップデートすることが必要である。意識を変えるのでなく、アップデートすることが必要なのだという共通認識が必要だろう。1番大切なことは「差別意識があることが自分の中にも社会にも蔓延していると認める」ことだと思う。「それは差別だ」と指摘されたときに、自分が「そうかもしれない」と客観視できる人間でありたい。今を生きる女性にはもちろん、男性にも一度は読んでもらいたい。社会潮流の観点から見ても今の時代に求められてる一冊だと感じた。